耳鳴り 事務用封筒にしては大型だ。A3サイズ程はある。社内では見慣れないものだった。 裏を返せば、黒字で宛名が印刷されている。 そこには、 【NPO法人 遺伝子鑑定研究所】 そう記載されていた。 (え……遺伝子……って) ───DNA鑑定? 誰の、とか。 何で、なんて疑問が沸いた瞬間に、封筒を鞄の中に仕舞い込んでいた。 変な汗がじわりと滲む。これは仕事の書類なんかじゃない、彼のプライベートに関わるもの。見てはいけないものを見てしまったような罪悪感と焦燥感に駆られて、もう一度彼の鞄を、今度こそ倒れないように置き直した。 脳内に巡るのは、"遺伝子鑑定"の文字。 (……触れちゃいけない事、だよね) 速水くんとは3年の付き合いだけど、彼から両親や身内の話を聞いたことがない。家族の話を意図的に避けているような空気があって、私はすぐに、"聞かれたくないこと"なのだと気づいた。 だから聞かない。 私だって、家族の事はあまり口にしたくないから。 私は実のところ、両親が好きじゃない。 仲が悪いわけじゃないけど、家族の仲はぎこちない。 世間体や体面ばかり気にしてる父親にずっと嫌気がさしていたし、母親にいたっては子供に無関心で放任主義だ。親子の情なんて無いに等しい。だから高卒ですぐ実家を離れ、一人暮らしを始めたのだから。 両親も、内心では私を煙たがっている。"早く家から出て自立しろ"、口に出さずとも、私を見る目がそう言っていた。 目は口ほどにものを言うとはよく言ったものだ。一人暮らしをしたいと打ち明けた時も、彼らは何の関心も示さず、反対すらしなかった。家から離れたかった私としては、好都合ではあったけれど。 実家を出てから3年間。 仕送りなんてものも無ければ、連絡のひとつもありはしない。 私も家に帰っていないし、家族なんて名ばかりの、他人のように冷めきった関係だった。 だから、という訳じゃないけれど、速水くんが身内の話をしたがらない背景に、私に似たようなものを直感的に感じていた。根拠はないのに、不思議と確信に近い感覚があった。 誰にだって、触れてほしくない過去や事情がある。私だって、そうだ。 それを掘り起こして傷つけるような真似は、私はしたくない。 クローゼットの扉を閉めて、お湯を張るために浴室へと向かう。蛇口のハンドルを捻って、あとは放置するだけ。お湯が溜まれば、自動的に止まる仕組みになっているからだ。 きっとランクの高い部屋なのだろう。バスタブ自体がかなり広く、しかも隣にも浴室がある。覗いてみれば露天風呂になっていた。 宿泊料金高そう、なんて評価をつけながら室内に戻れば、精算を済ませた速水くんがその場にいた。羽織っていた上着を脱ごうとしていて、急いで駆け寄って彼を手伝う。あたかも、『何も知らない、何も見ていない』ように振る舞った。 「ありがとね」 「ううん、これくらい私にさせて」 もう一度クローゼットを開けて、彼のコートをハンガーに掛ける。扉を閉めて振り向こうとした時、ふわっと身体が包まれた。 後ろからぎゅうと抱き締められて、せっかく落ち着いてきた鼓動が再び弾け出す。 「……天使さん、もう抱きたい」 甘美な誘いに、心臓が一際大きく波打つ。 「え、あ……待って? 今、お湯張って」 「ごめん、待てない」 「あっ」 両肩を掴まれて、くるりと体が回転する。向かい合わせになった彼の顔が傾き、唇を塞がれた。 舌先が隙間をなぞり、得もいえぬ快感が襲う。誘われるままに口を開けば、ぬるりとした感触が口内に侵入した。 「んぅ……っ」 彼と私の熱が絡み、くぐもった声が漏れる。歯列も上顎も舐められて、舌先を抜くように吸われる。ぞく、と背筋に刺激が走った。 性急に追い込むようなキスに、頭の芯が蕩けていく。粘膜を荒々しく擦り合わせ、舌と舌を絡ませる行為に没頭する。孤独で寂しかった時間を埋めるかのように、彼の口づけは濃厚さを増していく。くちゅ、と口内で淫らな音が響いた。 恥ずかしいのに止められなくて、息苦しいのに歯止めが利かなくて、彼の背中に両手を回して夢中になってキスに応える。そうすれば速水くんも止まらない事を、私はもう知っている。 配置されているベッドに、なだれ込むように2人で倒れた。シーツの上に押し倒され、反射的に瞳を瞑る。一時的に離れた唇は、速水くんが跨がってきたと同時に塞がれた。 彼の足が膝を割る。 大きな手が私の両手首を捕らえ、シーツに縫い付けた。 「んっ……」 キスが全然止まない。 速水くんらしくないな、と頭の片隅で思う。 普段の彼は優しいキスで、私にゆっくり触れてくる。まるで壊れ物を扱うかのように、慎重に、優しく行為を進めてくれる。強引に迫ってくることなんて滅多にない。いつもと違う彼の様子に違和感を覚えたものの、制止する気もない私は、今日もただ彼に流されていくだけだ。 「……天使さん」 呼ばれて、薄く目を開く。 潤んだ視界に霞む彼は、切なそうな表情で私を見つめていた。 「……好きだよ」 「……速水くん」 「俺には天使さんだけなんだ。ずっと俺だけのものでいて。他の男のものにならないで」 切々と訴える言葉は懇願のようにも聞こえて。 他の男、なんて。 嫌われ者の私なんかに構ってくれる人なんていないのに。そんな心配は無用なのに、何が彼を不安にさせているんだろう。 「天使さんがいないと俺、頭おかしくなる」 「……私だって……」 速水くんしかいない、と。 そう告げようとした瞬間に、また唇を塞がれた。 直後に私を襲った、 ─────────酷い耳鳴り。 (……また、だ) いつもこうだ。速水くんに抱かれる間際、謎の耳鳴りが私を襲う。 原因は全くわからない。 キィ……ンと耳の奥まで衝く音が、生理的な不快感をもたらす。 (……うるさい) 口づけが深まる。 耳鳴りは一向に止まない。 頭の中で鳴り響く警鐘。 それは本能が発する、警告音。 "これ以上、彼に近づいてはいけない" "これ以上、依存してはいけない" ───"取り返しのつかないことになる" (邪魔、しないで) 発せられる危険信号を、私は拒み続けている。 受け入れられる筈がない。 速水くんを失ったら、私はきっと生きていけない。 私には速水くんしかいないの。 ひとりぼっちだった私を、彼が救ってくれたの。 孤独だった心を、愛情で満たしてくれた。 私の世界を変えてくれた、唯一の人。 一緒にいたい。 そばにいてほしい。 この人がいれば、他に何もいらないから。 「……速水くん」 長い長い口づけから解放されて、私はそっと彼を見上げた。薄い色素に染まる瞳は不安そうに揺らめいていて、まるで見捨てられた子供のような表情をしている。本能が発する音に耳を塞ぎ「好き」と呟けば、彼の瞳が嬉しそうに細められた。 耳鳴りが止み、胸を満たすのは多幸感。 私にはこの人しかいなくて、この人以外考えられなくて。それは彼にとっても同じなのだろうと、漠然と信じて疑わなかった。 トップページ |