未来の話 「うん?」 すっとぼけたような声音に、私は眉を吊り上げる。 「とぼける気ですか」 「どうしてスルーしてほしいところはスルーしてくれないんだろう、天使さんは」 「スルーって何。後ろめたいことがあるから言えないの?」 「言えなくはないけど、ちょっと覚悟がいる話になるから」 「覚悟?」 覚悟って、何の。 「ちなみに聞きたいんだけど。天使さん、どうして俺が嘘ついたこと知ってるの?」 「……開発部の子達が、トイレで話してたの聞いて」 「話?」 「飲み会の日、速水くんが18時過ぎに店を出たのが早すぎるって言ってたの。でも、速水くんが私との待ち合わせ場所に来た時は、もう20時半は過ぎてたし。その間どこにいたんだろう、って不思議になるじゃない」 「……ああ、そういえばしばらく周りがうるさかったかも。やたらと「彼女できた?」って訊かれたから、天使さんのことがバレたのかと思った」 その時は、私もそう思った。 けど実際は、部署の人間の吹聴が過剰に広まっただけだ。 噂話は噂でしかなく、速水くんがきっぱりと否定したお陰で、その手の話題はあっという間に社内から消えた。75日を待つまでもなかった。 「あの子達は『18時過ぎ』って言ってたのに、速水くんに確認したら『20時過ぎ』って言うし。あの子達が嘘をつく理由なんかないし、じゃあ速水くんが嘘ついてることになるもん」 「めっちゃ攻めてくるね」 「速水くんがはぐらかすのが悪い」 「嘘をついたのは悪かったよ、ごめん。でも、その『嘘をついた理由』自体も、本当にくだらない話なんだって。天使さんが心配するような事は一切ないから。信じて」 「………」 それであっさり信じるほど、私は甘くありません。 「速水くん、さっき言ってた覚悟って何? あの日、どこにいたの? 言えないところ?」 「言ってもいいけど、アナタ心の準備出来てるの?」 「はい?」 話の本筋が全然見えなくて混乱する。 けど彼の言い分から察するに、速水くんが嘘の時間を私に言った理由を聞くには、「覚悟」とやらが必要みたいだ。私にも、彼にも。 どういう意味なんだろう。 私も覚悟しなきゃいけないことって何? 覚悟と言うには彼の態度は重くないし、むしろ軽いとさえ思えて、更に言えば深刻な雰囲気でもない。 「意味がわからないんだけど」 「どうしても聞きたい?」 「聞きたい」 「強情だね。本当に大した理由じゃないし、どこにいたかなんて聞かなくてもいいと思うけど」 「大した理由じゃないなら、言えるでしょ」 「じゃあ言うけど。指輪を買いに行ってた」 その一言に。 一瞬、呼吸を忘れてしまった。 「…………指、輪?」 はた、と瞬きを落とす。 彼が放った単語を、無意識の内に反復していた。 速水くんが私についた嘘と、『指輪』というワードが結び付かなくて困惑する。 「……えっ、指輪って何、誰に、」 「それ本気で言ってる?」 非難めいた返しに、今度は焦りが生まれる。 2人きりの旅行、そしてこの状況で速水くんが指輪を用意していた理由はともかく、その指輪を渡す相手が誰かなんて、もう明白だ。 鈍かった脳が活発に動き始め、やっと機能し始めた思考が怒濤に渦を巻いていく。 つまり、あの日彼は店を出た後、私に贈る指輪を購入しに行った。だから待ち合わせに遅れた、という解釈でいいんだろうか。 でも、なんで指輪。 あの日も、今日も、指輪を貰えるような特別な日ではなかったはず。 私の誕生日でもないし、ましてや彼の誕生日でもない。クリスマスやバレンタインのようなイベントもないし、ふたりの記念日はもう過ぎた。速水くんが指輪をプレゼントしてくれる理由がわからない。 いや、贈り物に理由をつける方がナンセンスなのかな。 「……渡したいものがあるって言ったでしょ」 この状況をうまく飲み込めない私は、速水くんを見守ることしかできない。 切なげに微笑む彼の、真っ直ぐな瞳の奥に、ひとつの覚悟が見えた。 『渡したいものがあるんだ』 『大事なもの』 そう言われたことを思い出す。 「……順を追って説明するとね。あの日、店を出た後にジュエリーショップに寄ってたんだ。ただ、少し遠いところでね。タクシーで行ったんだけど、金曜日だったから道も混んでて。それで待ち合わせ時間に遅れたんだけど」 「……う、うん」 「本当はあの日のうちに渡そうと思ってたんだけど。でも……その、ラブホに直行しちゃったし。いやラブホで渡すのはどうなんだ、って思い直して」 「………」 「……うん、だから、今日の旅行の時に渡そうと思ってました。……あー、ダサい。だから言いたくなかったのに」 冗談でもなんでもなく、本当に言いたくなかったらしい。速水くんは額を押さえながら、力なく頭を垂れた。 だけど私には、彼がここまで頭を抱える理由がよくわからない。 「……えっと……指輪を買いに行ってた事を、私に知られたくなかったのが、嘘ついた理由?」 「……もし、18時過ぎに店を出たって事が天使さんに知れたら、『その間どこにいたの?』って話になるから。だから、本当の時間も場所も言えなかった。あの日、俺スーツ着たままだったし、マンションに一旦戻ったなんて嘘は通じないし」 「や、でも。指輪を買いに行ってたこと自体、隠す必要なんてなかったんじゃないの?」 そんなに、深刻な話でもない気もするし。 「……サプライズしたかったんです、俺は」 「あ、そうなの……」 そういうものなの、かな。 空気読めなくてごめんなさい。 「ちゃんと用意してたのに、実は渡しそびれて後日とか、ほんと格好悪すぎて無理……」 肩を落とす姿は本当に哀愁漂っていて、私は慌てて口を開く。 「そ、そんなことないよ。速水くんから貰えるものは何だって嬉しいし、場所なんて関係ないよ」 「……天使さんには関係なくても、俺にはある」 「え……」 思わず言葉を止める。 彼が、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。 「……天使さんが、派手なサプライズ苦手だって知ってるけど、やっぱり特別感は出したかったんだ。夜景じゃないし、フラッシュモブは俺も苦手だし、だから地味かもしれないけど、絶対に今日渡そうと思ってた。渡して、ちゃんと伝えたかった」 「え、何……の、話……」 言葉の端に見え隠れする、彼の真意。 速水くんが私に何を伝えようとしているのか、本当はもう、気づいてしまったかもしれない。 だってもう、心拍数が大変なことになってるから。 彼の言う「覚悟」を感じ取って、胸の高鳴りがずっと止まらないから。 ぎゅうっと両手を握りしめる。 期待と不安が入り交じり、極度の緊張のせいで心臓が痛い。 何も言えず固まっている私のすぐ側で、畳の擦れる音がした。 そっと見上げた先に、速水くんがいる。 背筋を伸ばして、真剣な眼差しで、私と向き合ってくれている。 思わず息を呑む。 強く握りしめた手の感覚すらわからない。 視線も意識も、ただ目の前の彼のみに注いでいた。 ゆったりと、彼の右手が差し出される。 「天使さん」 「……っ、は、はい」 「……左手、いい?」 「……え、あの」 「出して」 催促する声音は、緊張を伴っていて。 普段の速水くんには似つかわない、硬く強張ったこの表情を、私は以前にも見たことがある。 3年前。 会社の屋上で告白された時と、記憶が重なった。 躊躇いが生じる。 このまま、左手を差し出していいのかどうか。 その先にある彼の覚悟を知るのが怖い。私なんかが受け入れていいのかという迷いが、一瞬動きを止めたけど。 それでも私は、自身の左手を恐る恐る、彼の右手の上に重ねた。 ───そこからはもう、映画のワンシーンを見ているかのような光景だった。 いつの間にか彼の手に握られていたもの。 鈍く光り、存在感を主張するそれに目を奪われていた私に、小さく笑う気配。 ゆっくりと左手を持ち上げられて、彼の親指がそっと私の指先を撫でる。流れるような動作で小さなリングを嵌められた───薬指に。 「……わ……」 小さなピンクダイヤモンドがいくつも連なる、シンプルだけど華やかで、愛らしいデザイン。細身で華奢なプラチナリングが、自分の薬指で輝きを放っている。 まるでドラマのような展開が、実際に今、自分の身に起こっていることが信じられない。 驚きや不安は、徐々に感動へと変わっていく。 甘やかな感情が、私の胸を満たし始めた頃、 「……天使さ……、じゃなくて」 私を呼び掛けた速水くんは、途中で意味深に言葉を切った。 「ひよりさん」 心臓が一際、大きく跳ねた。 このタイミングで初めて名前で呼ばれたことに、嬉しさと戸惑いが交差する。 「は、速水く……」 彼に捕らわれたままの左手を、彼の右手が緩く握りしめてきた。 甘さを帯びた彼の瞳に映るのは、私だけ。 一度、深く息を吐いて言葉を止めていた彼が、そこで覚悟を決めたように顔を上げた。 「……っ、一生、幸せにします。俺と、結婚してください」 その瞬間。 時間すらも止まったような気がした。 ストレートに告げられた、永遠の約束。 迷いのない覚悟と、凛とした声に。 私が導き出した返事を口にすれば、速水くんは本当に、本当に嬉しそうに、笑った。 …………笑って、くれたのに。 (2章・了) トップページ |