静寂2 『会社を辞める』 そんな願望を抱いていたのは嘘じゃない。 でも、就職難と騒がれている昨今だ。3年以上勤めた会社を辞めて次の就職先を探すなんて、どう考えても現実的じゃない。それに、辞めた後の収入源がない状態では生活も苦しくなる。転職も選択肢のうちとは言えど、安易に決められる話じゃないのはわかってた。 そもそも会社を辞めたい理由が『部署の人間が嫌いだから』というお粗末な動機なのに、いい歳した大人がそんな理由で会社を去るなんて滑稽な話だ。それに、あの人達に「逃げた」と思われるのも癪だ。 なら、今まで通り。 今の環境に、私が合わせてやり過ごすしかない。 あの劣悪な状況を、受け入れるしかない。 「……辞めないよ」 「……大丈夫?」 「速水くんだって。あの部署に3年も居て思うところはあると思うけど、私の前で弱音も愚痴も言わないでしょ? だから頑張れた部分もあるの。速水くんが頑張ってるの知ってるから、私も耐えられる。大丈夫だよ」 それは本心から出た言葉だ。 ちゃんと気にかけてくれる存在が、傍にいることを知っている。そんな人が近くで頑張っている姿に、勇気づけられていたのは確かだ。 「心配掛けてごめんね。もう平気だから」 そう笑いかけてみるけれど、速水くんは苦渋の表情を浮かべたまま動かない。 「……平気そうには見えないよ」 「………」 ……確かに、強がってる部分もあるけれど。 速水くんに対して、かなり酷な事をしてる自覚はある。周りの反応が怖いから社内では話しかけてこないで、私が言ってるのは、そういうことだ。そこに痛みや罪悪感が生じない訳がない。 それでも、私の勝手な主張に付き合ってくれる彼に感謝してるし、これ以上の不満なんて言えるはずがない。 でも、少しだけワガママが許されるなら。 「……じゃあ」 「……ん?」 「たまに、でいいので……会社の中でもお話ししたい、です」 それだけでいい。 それだけでも、今は頑張れる気がした。 小さなワガママを言ってしまったことに照れ臭さを感じていた時、急に速水くんの腕が伸びてきて引き寄せられた。ぎゅうっと強く抱き締められて、私はぱちぱちと目を瞬かせる。 「は、速水くん? どうしたの?」 「……うん、嬉しくて」 「そ……そう?」 迷惑がられていないことに安堵したけど、この状況はちょっと、大げさなような気がしなくもない。 「ねえ、たまにじゃなくて毎日じゃだめかな?」 「え」 「毎日話したい」 速水くんの一言に、胸がぎゅうっと締め付けられる。私だって本当は、毎日お話ししたい。けど。 「そ、それだと目立っちゃうので……」 「……そっか。わかった。でも、最近は社内でもよく話してた気がするけど」 「あ……うん。ありさに呼び出されてたから」 「第3会議室にね。あそこって、全然人の出入りないんだね。使う機会もないから知らなかった」 うん、と頷きながら数日前のことを思い出す。ありさに拉致られたり、抽選会で当選したことをドヤ顔で自慢されたり、あの会議室にはちょっとした思い出がある。 調査課は会議らしい会議がほとんどないから、今やあの会議室は、ほぼ放置されたままの空室になっていた。 「使わないなら、他の課に回せばいいのに」 「そんなことしたら、また部署のみんなが文句言うよ。会議室はひとつだけじゃないのに、なんでわざわざここ使うの? みたいな」 「変なの。別に調査課のものでもないのに」 私の辛辣な一言に、速水くんはゆっくり体を離してきた。目が合えば、ゆったりと微笑む。 「あの人達はさ、毎日不満を口にしていないと生きていけない宇宙人なんだよ。そういう可哀想な人種なんだって、諦めてほっとけばいい。本気で構ってたら、こっちのストレスが溜まる一方だから」 「う、宇宙人って」 あんまりな言い草に思わず苦笑い。 速水くんも、小さく笑いながら肩を竦めてる。 彼がこんな嫌味を口にするなんて、今まで無かったから驚いた。 彼も部署の人に対して、少なからず不満を抱いていることがその口調から伝わってくる。部署に対しての扱いが雑というか、あの人達はそういう人間だと割り切ってる感じが適当すぎて、少し可笑しかった。 ああ、やっぱり速水くんと私は全然違うね。 受け入れられるところは受け入れて、手を抜けるところはちゃんと抜く。常に周りの空気を読んで、力の抜き加減をはかりながら、速水くんは会社の荒波をうまく泳いでいたんだ。『人間関係は肩の力を抜いた方が上手くいく』って、昔からよく聞くもんね。 部署の人間に対しても同じだ。悪意ある言葉は上手く交わしつつ、付き合える範囲で、過度すぎない人付き合いをする。淡白と言われればそうかもしれないけど、無理なく人間関係を築くには、長く付き合いたいと思える人以外との付き合いは、浅い方がいい。仲が深まれば深まるだけ、ストレスが蓄積されるだけだから。 思えば彼は、部署の飲み会にほぼ参加しない。 何かと理由をつけて、毎度回避している。 その裏で私を優先してくれることを内心喜んでいたけれど、速水くんが頑なに飲み会を拒否するのは、会社の外では部署の人間と関わらない、そういう意図があったのかもしれない。 「速水くんって、飲み会にあまり参加しないよね」 「ん? そうだね」 「お酒が苦手だから?」 「それもあるけど……普通に嫌だよ、あの人達と飲むとか。絶対に悪口大会になるでしょ」 「……うん」 容易に想像できる。 「そんなの、聞いてる方が疲れるだけだし。そんなものに毎回付き合うほど、俺も暇じゃないから。天使さんに構ってあげなきゃいけないし」 「………」 「……何か言いたそうな顔してるね」 「構ってあげなきゃとか、上から目線なのが気に入らないです」 「なに今更(笑)」 悪態つけば、苦笑混じりな突っ込みが返ってくる。砕けた会話に自然と笑みが浮かんだ。 「……あの人達って、速水くんの前でも陰口言ったりするの?」 「俺の前でそういう話はしないね」 「そう……」 やっぱり、と思った。 だって速水くんは、本当にいい人だもの。悪い評価も噂も聞いたことがない。それは逆に言えば、速水くん自身が人を蔑んだり陰口を叩かない人だからだ。 人はいつもストレスの捌け口を探していて、共に不満を言い合える仲間を見つけようとする。腹の中では常に相手を探り合っていて、影口のネタを引き出そうとする。 同調してくれない相手からは何も情報を引き出せないし、だからあの人達は、速水くんの前では何も言わない。仕事と、普通の会話しかしない。速水くん自身が何も喋らないから。 さすがにあの人達も、陰口を叩き合う相手はちゃんと見定めているんだな……、 「……って、天使さんは思ってるんだろうけど。それは少し違うよ」 「え?」 心の呟きを見透かされて、顔を上げる。 「確かに俺の前では何も言わないけど、それは俺がいい人だから陰口に乗ってくれないだろうとか、そんな理由だけじゃないよ。というか、内心は誰も俺のこと、いい人だって思ってる人は部署にいないんじゃないかな。俺も影で色々言われてるし」 衝撃的な一言に目を見張る。 「……えっ、まさか。それはない、絶対にないよ。速水くんのこと悪く言う人なんていないよ。今までそんなの聞いたことな、」 「人付き合いの悪い、所詮顔だけの面白くない奴」 「……え」 「って、俺のこと。影でそう言われてるの知ってた?」 「………」 言葉を失った私に、速水くんは自嘲気味に笑う。 ……そんなの、私は知らない。 知らなかった。 部署のみんなと仲が良くて、誰からも慕われているはずの速水くんが、影でそんな風に言われてたなんて。 今、初めて知った。 「……なにそれ」 自分でも驚くぐらい低い声が出た。 腹の底からドロドロと、マグマのような熱い怒りが沸き起こる。 自分が叩かれるよりも、数百倍腹が立った。 「隠れて言ってるつもりなんだろうけど、ああいうのって、本人の耳に入っちゃうものなんだよね。『一緒にいても楽しくない、話も面白くない』だって」 「………」 「あとなんだっけ、『裏で遊んでそう』なんて事も言われてたかな。何を根拠に、って笑いそうになったけど」 「……ひどい」 「まあ、俺は何を言われてもいいよ。……もう、慣れたし。それに、ちゃんと見てくれる人がいることも知ってるし。ね?」 ふに、と頬を引っ張られた。 「………それは」 私も、同じ理由だからわかる。 辛くても、速水くんやありさが私を見ていてくれたから、気にかけてくれるのが嬉しかったから、頑張れたの。 「あの人達はさ、とにかく不満を共有できる相手を見つけて、一緒に愚痴りたいだけ。相手は誰でもいいんだよ。何だったら、さっきまで一緒に愚痴り合っていた人が去った瞬間に、今度はその人の愚痴で盛り上がるような人達だよ? だから、気にするだけ無駄。天使さんがわざわざ気に病んでやるような人達じゃない。今日も宇宙人が元気だな、くらいに思っていたらいいんだよ」 「………」 「というか、あの人達に目を向ける暇があるなら俺のこと見てよ」 「ムカついた。速水くんは顔だけじゃないのに」 「うわめっちゃスルーしてほしくないところスルーされた」 「速水くんは顔はいいくせに中身は大したことないけど、人に不平不満は言わないもの。口先だけのあの人達とは違うもん」 「ねえ失礼」 速水くんの呼び掛けが、右から左へ素通りしていく。それくらい腹が煮えくり返っていた。 私のことを言われるのはまだ我慢できるけど、速水くんのことまでコソコソ隠れて叩くなんて、本当にどこまで汚い人達なんだろう。 今まで彼らの行為に散々振り回されてきたのが、本気で馬鹿らしく思える。叩く相手は私でも、私じゃなくても、結局は誰でもいいんだ。叩くネタさえあれば、誰でも。本当に馬鹿だ。 そうだ、思い当たる節は確かにある。 先日トイレで聞いてしまった、三樹さん達の会話を思い出した。 速水くんを軽そうと侮辱し、セフレ扱いしたあの言葉に怒りを覚えた。あの人達は私達の関係を知らないし、速水くんのこともよく知らないから、あんな風に軽率な評価ができるんだ。 そこに納得ができるかと聞かれれば、当然出来るわけがない。不快感もある。 けれど、胸のつかえは幾分か取れた気がする。 結局、会社ってこういうところだ。 問題のある人は必ず1人や2人いて、その人がどんなに横暴だったとしても、我慢しなきゃいけないのは周囲にいる人達で。我慢しなきゃいけない現状が、当たり前のようになっていく。そんな風にやり過ごしている職場って多いと思う。 そんな職場で真面目に頑張っていたとしても、周りに適応できなければ、私のようにあっさりと見放されてしまう。逆に、どんな状況でも上手く立ち回れるような人や機転を利かせられる人は、周りにも自然と馴染むことができる。速水くんは適応能力が、きっと高い。 不都合なことも、理不尽なことも、会社の中には当たり前のようにごろごろ転がっていて、周りはそれらに我慢しながら耐えていくしかない。合わせられる範囲で合わせていくしかない。 全然納得はできないけど、そういうことなんだ。 もっと早く気づけばよかった。 そうすれば、こんなにもストレスを抱え込む必要もなかったかもしれないのに。 速水くんの言う通りだ。あの人達の言うこと成す事に、いちいち気にする必要なんてない。あの人達のために病むことすら馬鹿らしい。 きっと、何を言ってもあの部署は変わらない。 この理不尽な状況も変わらない。 誰もが変えたいなんて思っていない以上、あの人達と疎通なんて図れるわけがない。 だって、相手は宇宙人だもん。 人間と宇宙人じゃ、会話が成立しないもん。 うん。 無理やり感いっぱいだけど、スッキリした。 「まんじゅう食べる」 「はいはい」 胸のつかえが取れたと言っても、速水くんまで色々言われていたことは、やっぱり納得できない。 ムスッとしながらまんじゅうを頬張る私を、速水くんは黙って見ていた。緩く、笑いながら。 「………」 もぐもぐしながら考える。 なにか、とても大事なことを忘れている気がするんだけど。 「……速水くん」 「何?」 「あの件はどうなったんですか」 「あの件?」 「先日の飲み会の後の行方と、店を出た時間を嘘ついた理由。まだ聞いてない」 トップページ |