思い悩む、ココロの先。2 『10分で行くから待ってろ』 一方的に送った私のメッセージに、卯月さんは何の疑問を投げ掛けることもなく、そう応えた。 私の様子がおかしいことに気付いたのかもしれない。すぐに行くと告げてくれた言葉を信じて、玄関先に座り込んで彼の到着をひたすら待つ。 じりじりと、追い詰められるような緊張感。 たった10分が、とてつもなく長く感じる。 スマホを握り締めながら膝を抱える私の隣で、くまちゃんも一緒にお座りして、卯月さんがやって来るのを待っていた。 次第に遠くから聞こえてくる足音を耳に捉える。泣き晴らした顔を上げた私の視界に、くまちゃんが駆けていく後ろ姿としっぽが見えた。 玄関の扉に飛び付いて、前足でカシャカシャと必死に引っ掻いている。卯月さんのことが大好きなくまちゃんは、彼が来る度にこうして扉にダイブするのが癖だ、この足音が卯月さんなのは間違いなさそうだ。 ピンポン、待ち焦がれていたチャイムが鳴った瞬間、弾かれたように立ち上がる。急いで扉に飛び付いてチェーンロックを外した。 ドアを開けた直後、スーツ姿で現れた卯月さんに思いきり抱きつく。うお、と卯月さんは驚きの声を上げていた。 直後、ぶわっと涙が再び溢れだす。 卯月さんが来てくれた、それだけで張り詰めていた糸がぷつりと切れてしまった。 「うっ、卯月さああぁぁんっ、うえ、ぶえぇぇん」 「泣き方が汚ねぇ」 そんな私に返ってきたのは痛烈な一言。 でも、しがみつく私を卯月さんは引き剥がそうとはしない。 震える背中をゆっくり撫でて、もう大丈夫だと言葉なく伝えてくれる。そうやって、卯月さんはいつも私に安心感を与えてくれる。 「う、づきさ、私どうしよう、わたしっ、」 「……? どうした」 「も、どうしていいのかわかんな、くて……っ」 「……おい、お前のご主人様はどうした」 「クゥン……」 支離滅裂な私の主張を理解できなかったらしい卯月さんは、困ったようにくまちゃんへと助けを求めた。 お利口なくまちゃんは、一度リビングへ戻ってから再び玄関に戻ってくる。その口には、テーブルに置きっぱなしだった白い紙袋をくわえている。そして卯月さんの足元に、ぽてりと落とした。 くまちゃんは、私が嫌がることはしない。妊娠検査薬の入った袋を持ってきたのも意図的だ。全部ひとりで抱えるには私のメンタルがもう持たないと、くまちゃんも判断したのかもしれない。 失敗続きの就活と、不安だらけの同棲。それに加えて、謎の体調不良。それが妊娠かもしれないと疑った時、ギリギリまで保っていた虚勢が全て崩れてしまった。 怖くて仕方ないのに、平常心なんて保っていられない。この辛さを誰かに知ってもらいたい。大丈夫だって言ってほしい。安心したい。それは、卯月さんからじゃないと駄目なの。 くまちゃんが持ってきた袋を、卯月さんが人指し指で引き寄せる。中身を覗き込んだ彼の動きが、その瞬間、不自然に止まった。 卯月さんは、何も言葉を発しない。 彼にしがみついているお陰で卯月さんの表情が見えなくて、恐怖だけが全身を支配する。 「ごめ、んなさい」 「………」 「うっ、ごめんなさい……っ」 何に対しての謝罪なのか。妊娠したかもしれないことなのか、風邪だと嘘をついてしまったことなのか、突然呼び出してしまったことなのか。いや、きっと全部だ。何もかも偽っている自分が全て悪い気がして、罪悪感で心が押し潰されそうになる。 「……これ、未開封だな」 不意に、頭上から声が落ちた。 「まだ確認してないんだな?」 「う、うん」 「……風邪、じゃないんだな?」 「たぶん、ちがう……」 「わかった」 予想に反して、卯月さんの声は静かで落ち着いている。狼狽えているような様子もなく、私を責め立てることもしない。その柔らかな声音に安堵した時、頼もしい両腕がヒョイ、と私の体を軽く持ち上げた。 突然のお姫さま抱っこに驚く私をよそに、卯月さんは足元にいるくまちゃんに目を向ける。 「くま。それ持って、お前もこっち来い」 「わうっ」 私を抱っこしたまま、卯月さんは自らの靴を脱いで玄関に足を踏み入れた。部屋の奥に進み、辿り着いたのは私のベッド。丁寧に下ろされて、私は不安げに彼を見上げた。 「卯月さん……」 「奈々、飯は? 食べたか?」 「………」 「その様子だと食べてないんだな。食えそうか?」 床に膝立ちし、私に目線を合わせながら卯月さんが問い掛けてきた。シャツの袖をくるくる巻きながら、今から夕飯を作ろうとしてる雰囲気を纏っている。夕飯はもう食べたと、LINEでついた嘘もあっさり見破られてしまった。それでも卯月さんは私を責めたりはしない。 毛布の端っこを捲って、「とりあえず寝てろ」と一言だけ告げられて。促されるままに毛布の中に潜り込めば、くまちゃんも一緒に潜り込んでくる。もふもふな背中を私にぴったりくっつけて、頑なに離れようとしないくまちゃんの様子に、卯月さんがふっと笑みを漏らした。 「奈々、知ってるか」 「……なに?」 「くまが背中をくっつけてくる理由。奈々に元気になってほしいって言ってるんだよ、コイツ」 「………」 「犬は腹と背中を見せないからな。警戒している相手に弱点なんて晒さない。よほど信頼してる相手じゃないと、背中を向けることなんてしない。……よっぽど、奈々が大事なんだろうな」 くまちゃんの頭をゆっくり撫でる、卯月さんの手つきはとても優しいもの。そんな慈愛に満ちた眼差しを、今度は私に向けてきた。とくん、と鼓動が甘く脈打つ。 「俺も同じ」 「……卯月さん」 「奈々が一番、大事」 「………」 特別感を匂わせる台詞は、結婚前提での交際を望む卯月さんの意思の強さを感じさせて。すごく嬉しいはずなのに、不安がまとわりついて消えてくれない。 うまく笑えなくて表情を曇らせてしまった私に、卯月さんが困ったように微笑む。そして静かに立ち上がった。 ……あ、行っちゃう。 帰っちゃう。 そう察した瞬間、咄嗟にシャツの端っこを掴んで彼の帰りを阻止していた。 トップページ |