思い悩む、ココロの先。1


『夕飯、一緒に食う?』

 その日の夕方、卯月さんからラインがきた。
 会社が定時を迎える時間帯、17時過ぎに届いたその簡素なメッセージを、ソファーにぐったり横たわりながら眺めている私がいる。
 傍らにはくまちゃん。
 キッチンに置いたままのご飯には目もくれず、キュンキュン寂しげな鳴き声を発しながら、私の周りをウロウロしてる。ついには私にくっついて離れなくなってしまった。

 頬に、ふわふわの毛並みが触れる。私が静か過ぎるから、くまちゃんも不安がっているのかもしれない。片時も離れないぞと言わんばかりに、ぴったりと寄り添ってくる。

「……心配かけてごめんね」

 ゆっくりと頭を撫でれば、尻尾をぺたりと下げてクゥン……と鳴く。愛らしい鳴き声にほっこりしながらも、胸の中はモヤモヤとした感情が渦巻いていた。

『もう食べちゃった(><)ごめんね』

 そう送ってみたものの、本当は何も食べていない。相変わらず食欲はないし、卯月さんと会うのも気まずい。だからって既読無視するわけにもいかなくて、お断りの返事を送ってからスマホを手放した。

 はあ、と深く息を吐く。柔らかな布の感触に身を沈めながら、重い目蓋をゆっくり閉じる。スマホ画面から発する光を視界に入れるのもしんどくなるくらい、気分が悪い。あと眠い。
 脳内をぐるぐる巡るのは、昼間に告げられた加奈ちゃんの一言。


「それって、つわりじゃないの?」


 信じたくなかった。普通に考えてもありえないし、到底受け入れられるものじゃない。私はまだ学生なのに、しかも就活中で、就職できるかどうかも危うい状況にあるのに、妊娠してしまったなんて冗談じゃ済まされない話だ。基本私に甘いお母さんとお父さんだって、こんな大事な時期に何してるんだって怒るに決まってる。
 でも卯月さんは、毎回避妊はしてくれた。忘れたことなんて一度もない。それくらい私を、私との将来を大事にしてくれた。それは、自信を持って言える。

 ゴムやピルの避妊は絶対じゃない、加奈ちゃんはそう言ってたけれど、成功率は限りなく100%に近いはず。ゴムの使い方を間違えたり不慮の事故さえなければ、妊娠する可能性は無いに等しいはずなのに。
 でも、2ヶ月以上も生理がこないのは妊娠の兆候だというのはよく聞く話だ。食べ物の匂いに不快感を覚えるのも、昼間でも眠気に襲われるのも、「つわり」に似てると言われれば、確かに妊娠初期によく見られる症状と被っているから反論もできない。

 ……もし、もし本当に妊娠していたら。
 私はどうしたらいいんだろう。

 産むのは怖い。でも堕ろすのはもっと怖い。
 たとえ産んだとしても、育てられる自信は全くない。育て方もわからない。何より費用がない。

「……どうしよう」

 加奈ちゃんとの会話の後、やっぱり気分が優れなくて早退した。マンションに戻ってソファーで休んでいるうちに、体調自体は僅かに良くなったように感じる。ゆっくりと体を起こしてテーブルに視線を移せば、そこに置いてあるのは白い紙袋。マンション近くの薬局に足を運び、棚に陳列してある妊娠検査薬を、恐る恐る手に取った時の震えは、今は落ち着いていた。

 加奈ちゃんの言う通り、妊娠の疑いがあるなら早く調べなきゃいけない。
 でも、勇気が出ない。
 陽性反応が出るはずがないって思っているのに、もしも出てしまったらと思うと怖気づいて動けなくなってしまう。

「……あ」

 スマホから、軽快な通知音が響いた。
 手に取って見れば、相手は案の定卯月さん。


『今から部屋に寄ってもいいか?』
『渡したいものがある』


 そんなメッセージが届いた。

「渡したいもの……」

 なんだろう。卯月さんの部屋に忘れ物でもしたかな? 思い当たる節はないけれど。

『渡したいものってなに?』
『会ってから教える』
『今日じゃなきゃダメ?』
『今日じゃなくてもいいけど。どうした?』
『風邪ひいたみたい><』

 やだな。卯月さんにつく嘘がどんどん増えていく。罪悪感がまたひとつ増える。

『大丈夫か? 熱は?』
『ちゃんと薬飲んだ?』
『暖かくして寝ろよ』
『病院も行けよ』

「……ふふ」

 怒濤に送られてくるメッセージが微笑ましくて頬が緩む。その過保護っぷりが嬉しくて、沈んでいた心が少しだけ浮上した。卯月さんってば、本当に私のお父さんみたいだよ。
 ありがとうと一言送れば、卯月さんからのLINEはそこで途絶えた。安堵する気持ちと寂しい気持ちがせめぎあって、ぎゅうっと胸が締め付けられる。

 もし私が妊娠しているかもしれないと知ったら、卯月さんはどう思うんだろう。
 真面目なあの人のことだから、「責任は取る」なんて言って私の両親に謝罪するかもしれない。そんな光景が脳裏に浮かぶ。
 でも、もし避妊に失敗して妊娠したとしても、私は卯月さんを責めるつもりはなかった。実際にはちゃんと避妊をしてくれていたのだから、卯月さんが自ら責任を取る必要なんてないはずだ。



 ……最低、なのかもしれないけれど。
 どうしても、好きな人の子供ができた喜びよりも、まだ母親になりたくない気持ちの方が強くなってしまう。
 でも、そんなこと卯月さんには言えない。家族が欲しいと言ってくれた人に、そんな傷つけるようなことを言えるはずがない。

 ……望んでいない妊娠をしてしまった時、彼氏にどう告げたらいいんだろう。
 そんなことをずっと考えているうちに、いつの間にか意識を手放していた。










「……あ、れ……?」

 ふと、目が覚めた。
 どうやら眠ってしまっていたらしい。
 くまちゃんも私にくっついたまま、すやすやと深く寝入っていた。

 寝惚け眼をこすりながら、スマホに手を伸ばそうとして気づいた。ちかちかと緑色に光る、LINEの通知ランプ。
 まさかと思って画面を見れば、やっぱり卯月さんからのメッセージを受信していた。





『薬とか買っておいたから』

『ドアノブにかけとく』



「……え!?」

 思わず声がひっくり返ってしまった。
 私が急に声を上げたから、くまちゃんもびっくりして目を覚ましてしまったみたい。こて、と顔を傾げながら、まん丸な目を私に向けている。
 スマホに表示されている時刻は18時。卯月さんからのメッセージを受信したのは、その僅か10分前。急いで立ち上がり玄関に足を向けた。
 チェーンを外して扉を開ければ、クシャリと外側から音がした。ドアノブに引っ掛かったままの買い物袋が見えて、驚きで目を見開く。

「……うそ」

 レジ袋の中を覗いてみれば、風邪薬の他にも栄養ドリンク、冷えピタ、ゼリーやチョコなどのお菓子も混在していた。しかも、くまちゃんのご飯まで入ってる。
 具合の悪い私が、買い出しに行けなかった場合のことまで考えて、くまちゃんの分も買ってきてくれたんだと気付いた。

 全部、私の為に。

 卯月さんのさりげない優しさに触れて、弱りきっていた心が絆されていく。じわ、と涙が滲んだ。


 ……卯月さん、

 卯月さん





『ごめんなさい』


『やっぱり会いたい』


 耐えきれなくて、そう送ってしまった。

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