思い悩む、ココロの先。3


「どこ、行くの」
「何か作ってくる。キッチン借りるぞ」
「いらない」
「……奈々」
「卯月さんはここにいて」

 辿々しい口調で訴えれば、卯月さんは困ったように目尻を下げる。困らせちゃダメだってわかってるのに、思いきり泣いてしまったせいか、頭が酷くぼんやりして思考が働かない。頬も熱くて、熱が出たのかもしれないと悟る。
 こんな不安定な状態のまま、ひとりぼっちになるのは嫌。心細くて、寂しくてたまらない。この場を離れようとしてる卯月さんが、マンションに帰るわけじゃないと知っても安心なんてできなかった。

 弱々しくシャツを握って引き留める私の手に、大きな手のひらが重なる。もう一度しゃがみこんで、卯月さんは私に目線を合わせてきた。宥めるように私の頭をぽんぽんして、コバルトブルーに染まる瞳を柔らかく細める。

「少しでもいいから、胃に何か入れた方がいい。お粥なら食べられそうか?」
「やだ」
「奈々」
「いかないで」
「どこにも行かない。ここにいる。すぐに戻ってくるから」
「だめ」
「……ワガママ言うなって。奈々の為に言ってんだから」
「行っちゃやだ」
「オイなんなんだよ。くっそ可愛いんだけど」

 呆れたような口振りなのに、惚けとも思える台詞が似つかわなくて目を丸くする。そんな私をよそに、毛布の端っこをぺろんと捲った卯月さんがベッドの中に潜り込んできた。くまちゃんを挟む形で寝転がり、一気にスペースが狭くなる。
 今度は後頭部を掴まれて、強引に引き寄せられる。額が卯月さんの胸にくっついて、互いの体温を共有する。頭上から、はあ、と悩ましげなため息が聞こえた。

「あームカつく。かわいい」

 わしゃわしゃと髪を撫でる手つきは乱暴だし、口も相変わらず悪くて。それでもどこか、気持ちが籠っていて優しい。愛されてるのを実感できるから、どんなに髪をぐしゃぐしゃにされても許せてしまう。心が、ほっこりしてくる。
 卯月さんの匂いと体温に包まれて、胸に広がる靄が静かに消えていく。心の霧がすうっと晴れていくような気がした。

「……卯月さん」
「ん?」
「ワガママ言ってごめんね」
「いいよ。奈々は少し、内に溜め込む癖があるから。自覚してないかもしれないけど」
「そう、かな」
「だから、そういう時は我慢しないで吐いた方がいい。じゃないと今日みたいに、一気に爆発するだろ、奈々の場合は。前にも同じことあったしな」
「あ……うん」

 それは、私達が交際する前のことを言ってるんだろう。卯月さんのことを、まだ一夜の遊び相手としか見ていなかった頃。彼に抱かれた翌日に逃げ出してしまった私を、早朝から追いかけてきてくれた卯月さんの必死な姿を見た瞬間、号泣しながら謝った私と今の私は、よく似てる。

「……いっぱい嘘ついてごめんなさい」
「なんだよ、気にしてんの?」
「……うん」
「俺の方こそ悪かった。今日の朝も、本当は体調悪かったんだろ。気づいてやれなくてごめん」
「……卯月さんは悪くないから」
「俺が原因かもしれないだろ」

 どく、と心臓が跳ねる。その言葉の裏に、「妊娠させたかもしれない」という卯月さんの声が聞こえた気がして瞬時に体が強張った。ぎゅうっと拳を握りしめた時、手の甲に卯月さんの手が触れて、力が抜ける。

「怖いか?」
「……え」
「震えてる」
「………」
「……怖いよな。当然だよな」

 しなやかな指先が顔の輪郭を辿り、肌の上を滑っていく。優しい温もりがずっと触れてくれるのが嬉しくて泣きたくなる。
 卯月さんはそれきり、何も言わなかった。言いたいことも私に問い質したいことも、きっと沢山あるだろうに。私が怖がるから何も言わないし、妊娠検査薬を手に取ることもしなければ検査を促すこともしない。ただ静かに、私に寄り添ってくれている。
 くまちゃんも相変わらず私から離れる様子はなくて、くまちゃんと卯月さんの優しさが胸の奥に浸透していく。

 さっき、卯月さんは言った。くまちゃんが離れないのは、私のことが心配だから。
 元気になってほしいから、元気になるまで傍にいる。卯月さんが教えてくれたその言葉が、今更になって身に染みてくる。

 くまちゃんも、卯月さんも。
 加奈ちゃんも、やさしい。
 優しいの、みんな。

「……っ」

 また涙が溢れて止まらなくなる。濡れた目元に、卯月さんの人差し指が触れて拭ってくれた。

「……泣くな、って言いたいけど。今日は泣いてもいい」
「っ、ふぇ……、」
「泣いていいから、泣き終わったら寝ろ」

 ぶっきらぼうな言葉に反して、頭を撫でる仕草が優しくて涙を誘う。ぽろぽろと泣き続ける私の体を包み込むように、卯月さんはずっと抱き締めていてくれた。

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