大好き!


 卯月さんと一緒にいたいと強く願ったのは、私が彼を好きだからだ。
 じゃあ彼のどこが好きなんだろうと考えた時、何も頭に浮かんでこない。こういう所が好き、だと思う部分はあれど、それは人として好意的に思う部分であって、その部分に惹かれたという実感はない。
 もともと彼は、私の最も苦手とするタイプの人間だった。俺様気質で無愛想、口も悪くて上から目線の口調と態度。絶対好きにはならないと思う人。

 でも、好きになった。
 特別な人になってしまった。

 一緒にいる時間が増えて、見えていなかった彼の人となりが見えてくる。実は世話焼きで面倒見がよくて、几帳面で真面目な人。綺麗好きで家事能力に至っては完璧。私より、いや、そのへんの女子よりも女子力は強いと思う。
 そういう意外性に惹かれたのかな? とも思ったけれど、やっぱりピンとこない。
 人が人を好きになるのは、そのキッカケとか過程があるはずなのに、それもわからない。

 実際に離ればなれになってから、初めて彼の存在の大きさに気づかされた。
 ただ仲良くなれたから寂しいだけ、というだけの話であれば、彼が部屋に訪れた際、あんなに号泣するほど取り乱したりはしない。
 今までたくさんの出会いと別れを繰り返して、これほどまで離れたくないと願った人は、過去にいないと思う。
 卯月さんはやっぱり、どこまでも私の調子を狂わせる人だった。






 お風呂上がりに、隣同士でベッドに座る。
 卯月さんは上半身裸で、私はバスタオルを1枚体に巻き付けているだけの状態。うっかり落ちたりしないように、胸元でタオルの端を手で握った。
 緊張で体が強張っている。
 またこの人に抱かれるんだと思ったら、甘い鼓動が胸を打った。

 卯月さんの腕が肩に回る。
 引き寄せられて、間近にあった彼の顔が傾いた。
 あ、と声を掛ける暇もなく、唇が塞がれる。

「ん……っ」

 触れ合った場所から、熱が広がっていく。
 キスも、この人に抱かれるのも初めてじゃないのに、心臓がばくばくして落ち着かない。タオルを握る手にも、汗が滲む。
 変だ。こんなこと、もう慣れっこのはずなのに。
 「これが初体験です」みたいな、このただならぬ緊張感は何だろう。

 いつもみたいに、濃厚なキスができない。
 初々しい反応しかできない。
 初めて抱いてもらったあの日ですら、最初は上手く出来ていたような気がするのに。

 身動きできず、黙って彼のキスを受け入れている私から、唇がゆっくりと離れていく。
 私を見つめる卯月さんの、薄い唇が弧を描く。

「……顔怖いんだけど」
「う、だって」

 どもって、その後の言葉が続かない。
 なのに、卯月さんは更に追い打ちを掛けてくる。

「奈々からもキスして」
「っ、え」
「早く」

 私の意思なんて関係ないらしく、一方的な要望を押し付けて、卯月さんが瞳を閉じる。待ちの体勢になってしまった。

 目の前に、綺麗な顔がある。
 鼻がぶつかりそうなくらい至近距離に、卯月さんがいる。
 長い睫毛。端整な顔立ちに、今は閉じられているけど、透き通った青い瞳は少しだけ吊り目がちで、冷淡な印象がある。
 でも屈託なく笑うと目尻が下がって、ちょっとだけ可愛くなる。動物に例えるなら、猫みたいな。

 ゆっくりと顔を近づけて、その薄い唇に自らの唇を重ねてみる。
 すぐに身を引こうとしたけれど、唇を離した直後、卯月さんの唇がすぐ追っかけてきた。
 噛みつくようなキスを受けて、その勢いのまま、ベッドに押し倒される。

「……奈々」
「んっ」

 卯月さんは飽きることなく、上から何度も唇を触れ合わせてくる。
 求めるように貪られて、暴かれる。
 息が苦しい。
 酸素を求める口が僅かに開いた瞬間を狙って、今度は生温い感触が咥内に割り込んできた。

「ふ……ん、ぁ」

 艶かしい声が漏れる。
 舌を掬われて、絡め取られる。歯列も上顎もなぞられて、ぞくぞくしたものが背筋から這い上がってくる。
 咥内を侵す卯月さんの舌が気持ちよくて、私はすっかり翻弄されていた。

「……嫌?」

 唇が離れた直後に囁かれた声は、どこか不満げな響きを伴っている。

「え……?」
「なんか、奈々、乗り気じゃないから」

 軽く目を見張る。
 私なりに一生懸命のつもりだったんだけど、どうにも消極的だと思われていたようだった。

「き、緊張でうまく、できなくて」
「………」

 疑わしげな表情をされて、重い沈黙が落ちる。
 また卯月さんの顔が近づいてきて、こち、と額と額がぶつかった。
 探るような瞳は、私の言葉に嘘がないかを判断しているかのようで。

「……あ、あの、わたし」
「………」
「う、受け身、慣れてなくて」
「………え?」

 はたり、と卯月さんの瞳が瞬く。
 突然のカミングアウトに理解が追い付いていないみたいで、目を丸くして私を見つめている。
 変なこと言ってる自覚はあるけれど、本当のことだ。私はいつも、相手を気持ちよくさせてあげる側だったし、そうしてあげるのが好きだったから。
 言うならば奉仕系。
 最近じゃ、まともな愛撫すらされていない。濡れたらすぐ挿れちゃうのが常だったから。
 だから、主導権を相手に握られているこの状況自体、私にとっては慣れない経験だった。

「あの、私、何したらいいですか」
「何って……」
「わ、わかんないの。ほんとに」

 言ってるうちにだんだん不安になってきた。
 卯月さんに失望されたらどうしよう。
 満足してもらえなかったらどうしよう。
 もしかしたら、幻滅させちゃうかもしれない。

 思えば、初めて抱かれた日もそうだった。

 私のペースに持ち越そうとしても、卯月さんはそれに乗ってこない。主導権を握ってるのは自分だと言わんばかりに、私の身体を求めてきた。
 身体中にキスの雨を降らせて、指先や唇で私を翻弄する。激しさはあれど、暴力的ではない。
 自らの想いをぶつけてくるような触れ方は、今までされたことのない類いのセックスだった。
 あの未知な感覚は、今思えば、卯月さんの想いにあてられていたのかと気づく。

 私は心のどこかで、セックスはAVの一環だって思っていた部分があった。
 相手を気持ちよくさせて、自らも気持ちよくなるためにあるもの。
 その認識が間違っていたとは思わないけれど、卯月さんの抱き方は、それに当てはまらなかった。
 だから、あんなに動揺したのかもしれない。

 快感だけを求めるセックスと、好きな人と肌を通して触れ合うセックスって、全然違う。
 気持ちよさから来る幸せと、好きな人に抱かれる幸せも、全然違う。

 セックスはコミュニケーションだよね、なんて言っていた少し前の自分が恥ずかしい。
 私が望むセックスをしてほしいから、ただ自分のしてほしいことを相手に押し付けてるだけの、一方的なやり方だった。
 疎通を図ることは大事だけど、私のやってることはAVとおんなじだ。
 本当に恥ずかしい。
 どうして今まで気づかなかったんだろう。
 雑だって揶揄されても、仕方ないのかもしれない。

 どうしよう。
 卯月さんに失望されちゃう。
 そう思っただけで泣けてくる。
 悲しくて悔しくて、瞳に膜が張っていく。

「なんで泣くんだよ」
「う、だって、卯月さんに嫌われる」
「それこそ何でだよ」

 腕で涙を拭えば、手首を掴まれた。
 そのまま開かされる。
 見上げれば、卯月さんの優しい顔がある。愛おしげな瞳で見下ろされて、胸が高鳴りっぱなしだ。
 顔が近づいてくる気配に、反射的に瞳を閉じる。
 彼の唇が瞼に触れて、目尻に残る涙を舐められた。

「……う、卯月さ……!」

 驚きで声が裏返った。
 顔に熱が一気に上がる。

「奈々は結構、泣き虫だよな」

 小さく笑い声をたてる卯月さんは、何故かとても上機嫌で。
 嫌われたらどうしよう、なんて不安に襲われていたのに、結果的には真逆の展開になったようで安堵する。
 でも、どうして卯月さんの機嫌がよくなったのかはわからない。聞こうと思って開きかけた口も、結局塞がれて音にならなかった。

「……何もしなくていい」
「……うん」
「俺の事だけ考えてろ」

 俺様な態度は相変わらず健在で、彼らしい口振りに 安心してる自分がいる。
 ゆっくりと瞳を閉じれば、また唇に熱が落ちた。

 卯月さんの手が、バスタオルを解く。
 肌を撫でる指先が、卯月さんの唇が、ありとあらゆる場所に触れる。
 頬に、顎に、首筋に、耳の裏側。ちゅ、と愛らしいリップ音を奏でながら、卯月さんは私の身体にキスの雨を降らせていく。
 決定的な刺激は全然与えられていない。
 なのに、息が上がる。
 リップ音だけで、耳が犯されている感覚に陥る。

「あ……っ」

 その耳に、吐息が掛かる。
 生温い感触が輪郭を辿る。
 強すぎる刺激に、思わず声が上がった。

「……奈々」
「……っ」
「……好きだ」

 耳元で囁かれた告白に胸が熱くなる。
 初めて抱かれた時も、今も、卯月さんは言葉で、唇で、全身で私への想いを伝えようとしてくれた。
 今ならちゃんとわかる。
 セックスがコミュニケーションだって言われる意味。
 身体を重ねるって、こういうことなんだ。

 首筋から胸元へ、唇が滑っていく。
 もどかしいくらいの緩やかな刺激が襲う。
 初めて抱かれた時の激しさは、今日はない。
 優しい触れ方が嬉しかった。

「卯月さん……」

 名前を呼べば、彼の顔が上がる。
 目が合って、また唇を重ね合う。
 ちゅ、ちゅ、と何度も啄むようなキスを繰り返して、彼の唇が離れていく。

「卯月さん」
「ん?」
「あのね」
「うん」
「なんか、すごく幸せ」

 溢れそうな想いを口にする。

「俺も」

 即座に返された返事に笑顔が浮かぶ。
 胸に甘い感情が広がって、ああ、やっぱりこの人が好きなんだと実感した。
 卯月さんの首に両腕を巻き付けて引き寄せる。
 私からキスをせがめば、卯月さんも応えてくれる。
 深みと激しさを増してくる口付けに、徐々に身体が火照り出す。
 私も夢中でキスに応じた。

 もっと、たくさん触れたい。
 触れてほしい。
 訳わかんなくなるくらい、この人に溺れたい。

 AVの真似事をしてるんじゃなくて、私は今、好きな人に抱かれてるんだ。
 その幸せを噛み締めながら、彼に身を委ねた。



・・・



 初めて好きな人と迎えた朝。
 疲れきった身体に、早朝の冷えた空気は堪える。
 陽の光が眩しい。寒い。
 もふもふで温かいくまちゃんを腕に抱えて、私はくわ、と欠伸をした。

「一度帰って、そのまま出社するから」
「はあい……」

 部屋を出ようとする卯月さんを、眠気眼のまま見送る。欠伸が止まらなくて、またひとつ。
 眠くて眠くて仕方ない。
 体が睡眠を欲しているのがわかる。
 それもこれも、昨晩の情事が原因だ。

 改めて知った、受け身って大変だ。責めるよりも2倍体力が要る。
 全身にぐったり襲いかかる疲労感は、それだけ彼に愛された証拠。
 でも卯月さんを責める気はなかった。
 重い倦怠感すら愛おしく感じる。

 卯月さんはこれから自宅マンションに戻って、着替えてから会社に行くみたい。
 寝ててもいい、って言われたけど、今度はちゃんと見送ってあげたくて、私は腰を上げた。
 彼の帰る気配を感じ取ったのか、くまちゃんも目が覚めたようで、こうして一緒に見送っている。

 クゥン、と寂しげな鳴き声に応えるように、卯月さんの手が伸びてきた。
 頭を撫でられて、くまちゃんはすっかりご満悦だ。

「私も撫でてください」
「はいはい」

 ぐしゃぐしゃと、やや乱暴に撫でられる。
 この扱いの違いはどういうこと。
 む、と頬を膨らませた私に苦笑しながら、卯月さんの手が離れていく。

「今日、大学は?」
「やすむ……」

 こんな状態で行っても、1日中授業を寝て過ごすことになりそうだし。

「帰りにまた寄るから。体、休めとけ」
「うん……」

 返事をしながら、こく、と船を漕ぐ。
 苦笑混じりの声が頭上から聞こえたと思ったら、卯月さんの手が、今度は私の前髪をかきあげた。
 露になった額に、ちゅ、と熱が落ちる。
 一瞬で覚醒した。

「う、卯月さ……!」

 彼に思う存分愛された身体は、こんな些細な触れあいでも反応を示してしまう。
 顔が熱くて、沸騰するかと思った。

「起きたか?」
「なんて起こし方するの……」
「目覚めにいいだろ」
「心臓に悪いよ…………またやってください」
「はいはい」

 素直に要望を聞いてくれる卯月さんは大人だ。

「ちゃんと朝飯食えよ」

 ぽんぽんと頭を叩いて、卯月さんが部屋を出ようとする。
 その背に向かって叫んだ。

「卯月さん、大好き!」
「おい抱き締めたくなるからやめろ。ちゃんと戸締まりして俺の帰り待ってろよ」
「はい、お母さん」
「誰がお母さんだ」

 いつも通りのやり取りを交わして、卯月さんは部屋を出ていった。
 また1人ぼっちになってしまった空間。
 でも、もう独りじゃないから寂しくなかった。

 もう一眠りしようかとベッドへ戻る。
 くまちゃんを床に降ろして、布団の中に潜り込んだ。
 布の端を掴んでめくれば、くまちゃんも潜り込んでくる。
 一緒に眠りたいみたいだ。

「……あ」

 その時、視界に入ったもの。
 床に置いたままのノートに、私は手を伸ばした。
 ぺらぺらとページをめくれば、これまで卯月さんに教わった料理の作り方が書き込んである。
 そのひとつひとつを、くまちゃんと一緒に眺めていく。
 
「今日の夕飯はこれにしようか、くまちゃん」
「わうっ」

 初めて出会った日に卯月さんが作ってくれた、ナスと挽き肉のナポリタン。
 あれ以来、まだ食べていない。
 今までは一緒に夕飯を作ることが大半だったけれど、たまには私から先に作っちゃうのもいいかもしれない。

 帰ってきたら、どんな顔するかな。
 初めて会った日に食べたご飯だって気づいてくれるかな。
 喜んでくれるといいな。
 期待感を胸に、私は瞳を閉じた。



(了/次話から後日談)

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