パンドラの箱を開けたなら、2


 突然豹変した彼の、荒々しい一面に戸惑いを隠せない。動揺している間も松永さんの勢いが止むことはなくて、何度も角度を変えて繰り返される口づけに、次第に頭が蕩けていく。
 ワンナイトラブなんてしたくない、なんて言っても、目の前にいる人はずっと憧れていた先輩だ。誰もが彼の恋人を切望するような、それこそ雲の上のような存在だった人に激しく求められたら、私みたいな庶民では成す術もない。驚きつつも彼のキスを受け止めていたら、不意に熱い舌先が唇の隙間をなぞった。

 つい肩がぴくっと震える。本能的に開きかけた唇を、慌ててぐっと固く閉じた。気を緩むと流されてしまいそうな自分を律し、なけなしの理性を総動員して我慢する。たった一夜だけなら……なんて、邪な感情が脳裏を掠める瞬間もあったけど、彼と爛れた関係にはなりたくない気持ちの方が、最終的に勝った。

 次第に息苦しさを感じてきて、彼の胸板を押し返す。ゆっくりと唇が離れていき、新しい酸素を吸い込めることを許された。新鮮な空気を肺へと送り込み、そこでやっと一息つく。うっすらと瞳を開けば、不満そうに表情を曇らせている松永さんが見えた。

「……本当に空気読めない子だね。口開けなよ」

 初めて聞く冷徹な声に心臓が縮み上がる。濃厚なキスを交わしていたくせに、囁かれる言葉は甘いものとは程遠い。頑なにガードを貫き通す私は小さく首を振ることしかできなくて、私の必死な抵抗に、松永さんの纏う空気がまた変わった。

「なんで出来ないの? 簡単でしょ?」
「だ、って」

 口を開くだけなら、確かに簡単だ。簡単だけど、そういうことじゃないじゃん。勝手に機嫌悪くなられても困るし、どうして私が悪いみたいに責められるのかも納得がいかない。

 そもそも私が松永さんの誘いに乗ったのは、彼が全然引いてくれないからだ。抵抗しても無駄なら、どうせ一夜だけだし彼に付き合おうと決めたのは他でもない私。その決意を途中で放棄したのは悪いと思うけど、この気まずい雰囲気の中で抱かれる身にもなってほしい。いい雰囲気だったのは最初だけで、途中からはもうグダグダだ。
 だから言ったのに。気分が乗らないから、こんな事しても互いの身にならないって。いい先輩と後輩のままでいたいって伝えたはずなのに、私の主張を無視したのは松永さんの方だ。

 いつも優しく接してくれて、後輩にも常に気遣って声をかけてくれる、私から見た松永さんはそんな人だった。面倒見が良くて、爽やかな人柄が魅力的だと思っていたのに、それはあくまでも社内で見せていた一面に過ぎなくて、プライベートではこんなにギャップがあるのかと知ってショックを受けた。理想と現実が欠け離れているのは仕方ないとはいえ、無理やりキスしたり、意味もわからずに機嫌を損ねたり、冷たい言葉の刃を私に切り刻む松永さんの姿は、あまりにも冷淡すぎて恐怖すら覚えた。

『そろそろ空気読もうよ、椎名さん』
『本当に空気読めない子だね』

 ……どっちが、だよ。
 空気を読んでいないのは、そっちじゃない。
 女慣れしてるなら、私が嫌がってることも目敏く察してよ。

「……なんで、泣くの……?」

 耐えきれず零れた涙に、松永さんは動揺していた。私を見下ろす瞳に怒りの感情はなく、戸惑いに揺れる光が次第に温度を取り戻していく。涙で濡れた目尻に、松永さんの指がそっと優しく触れた。
 辿々しい動きで涙を何度も拭ってくれる。女慣れしているはずなのに、全く女慣れしていないような不器用な動きに、一気に涙腺が崩壊した。ポロポロと零れ落ちる涙は止まることを知らなくて、「え、」と松永さんがあからさまに狼狽え始めた。

「……うち悪くない」
「………」
「嫌やって言うたもん……! なのに、なんでそないなこと言うん……松永さんのこと嫌いになりたないのに、こないな事しとない……っ、」

 口調が素に戻ってしまう程、余裕がなくなってしまうなんて情けない。23歳にもなって、私は子供みたいに泣きじゃくって松永さんを困らせている。しかも素っ裸のままだし羞恥心も半端ない。それでも涙は止まってくれなくて、悲しみと悔しさが入り乱れて私の心を締め付ける。

 グズグズと泣き続ける私に、松永さんは何も言わない。言葉を押し殺すように口を閉ざし、苦しそうに眉を潜めているだけ。どうして彼がそんなに辛そうなのか、松永さんの考えてることが全然わからない。自らの腕で乱暴に涙を拭い、彼の言葉をひたすら待つしかなかった。

 不意に、目の前の影が動く。松永さんの顔が近づいてきて、またキスされると身構えた私に落ちてきたのはキスではなかった。ふわっ……と空気が揺れ動いて、松永さんの頭が私の胸に埋まる。

「……酷いのはどっちだよ……俺だってこんなこと言いたくなかったのに、言わせたのは椎名さんじゃん……」

 今にも泣き出してしまいそうな声で、松永さんは絞り出すように言葉を紡いだ。

mae表紙tugi

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