炉にくべた体温さえ呪いだった

 四十度あった熱が三十七度より下に下がり始めた頃、井上が病室を訪ねてきた。

「睦月ちゃん! あのね、ちょっと外出てみない?」

 扉を開け放ち、意気揚々と開口一番に外出を促してくる。そちらに顔を向けて、今日も元気そうで何よりだなぁなんていう呑気な感想を抱いた。
 本当は言葉で答えてやりたかったけれど、脇に体温計を挟んでいて少しでも身動ぎをすると卯ノ花さんに見咎められてしまうので、井上の方を向くだけに留める。
 すると井上は寝台の側まで歩いてきて、再び同じ言葉を一言一句違わず繰り返した。聞こえなかったのだと思われたんだろうか?

「聞こえてるよ。わたしは別に構わないけど、隣の医者がゴーサインを出してくれるかどうかに懸かってるなぁ」
「あら、私が外出を咎めたことがありましたか?」
「毎日目で訴えてただろ、『ベッドから離れたら殺す』って」

 おかげで本当に必要最低限以外の時間はすべてベッドの上で過ごしてきた。心なしか全身の筋肉が落ちた気がする。
 卯ノ花さんはわたしの言葉に減らず口を笑うような目つきになって、井上に「…ご覧の通り、大分回復しています。近場の散歩程度でしたら結構ですよ」と頷いた。
 井上がぱっと笑顔になったのを見届けて、体温計を回収すると卯ノ花さんは病室を後にした。

 他の患者の回診ついでにわたしのところを訪れただけだったので、滞在時間自体は極短いものだった。
 体温は三十七度程度。
 平熱にはあと一歩及ばないけれど、四十度あたりを彷徨っていたことを考えると四捨五入すれば平熱だ。

「えっとね、お散歩って言っても朽木さんのお家に向かって、そのまま戻ってくる感じなんだけど……」
「朽木って、あの朽木? なんでまた」

 首を傾げながら井上が取ってくれた菫色の羽織を入院着のうえに羽織る。
 寝台から降りるのには井上が手を貸してくれた。

「朽木さんがねぇ、白哉さんが睦月ちゃんとお話したいみたいだから調子がいい時にでも顔を出してくれないかって言ってたの。で、朽木さんもまだ色々検査とかあって忙しいから、不肖この井上織姫が案内を任されたというわけです」
「……まあ、よくわからないけどわかった。着いたら十一番隊でしたみたいなドッキリは無しだよ」

 朽木に書いてもらったという手書きの地図を片手に「お供しますぜ!」と謎テンションの井上に手を引かれ、見知らぬ朽木家へと歩き出した。
 お供じゃなくて案内してくれ。


 瀞霊廷に出ると、ナビゲーション井上は務めを果たそうと片手でわたしの腕を掴み、もう片方の手で地図を持ち、思いのほかしっかりとした足取りで道を選んでいった。

「くらくらとかしない? 平気?」
「うん。でもやっぱり体が鈍ってる感じがする。退院許可が下りたら喧嘩を吹っ掛けにいくよ」
「そ、それはどうなのかな……!?」
「大喜びだろ。剣八とか。切望されてるって聞いたけど」
「……それは……確かに……」

 渋い表情をした井上に思わず噴き出す。

「石田くんがね! あたし達用に洋服作ってくれてるんだって!」
「へえ」
「まだ途中みたいだったけど、やっばり石田くんって器用だねえ」
「そうだな。ああいうのってセンスなのかな」
「かもねえ。あたしじゃ真似出来ないや」

 のんびり歩きながら、井上の家庭科の授業にまつわる不器用話に耳を傾ける。

「あ、そう言えば。茶渡くんがお見舞い行ってもいいかって言ってたよ」
「わたしの許可なんかいらないだろうに。勝手に来たらいいよ」
「岩鷲くんはお家に帰っちゃったんだって。また会えるといいね」
「うん、そうだな」


 ――やがて、武家屋敷のような立派な家屋"群"が現れる。
 初めて見るその光景にぼんやり既視感を抱いた。目を覚ましたばかりの頃に見せられたアルバムの中の実家の写真、こんな感じの建物だった気がする。
 目の前のこれは絶対他人の家に決まっているのだけど、妙な懐かしさが拭い切れない。知らない記憶の足音によって洞の輪郭がより鮮明になって気分が落ち込みかける。

 開かれた門の前で「ごめんくださーい!」と井上が威勢よく声を上げると、しばらくして中から使用人が現れた。
 玄関で靴を脱ぎ、磨き上げられた板張りの廊下を進む。

 朽木白哉――朽木の義兄は、わたしよりも先に退院を許され、現在は自宅で療養しつつ隊長業務に精を出しているらしい。
 なかなかの大怪我をしていた気がするけれど、そんな状態でも静養よりも後処理を与えられるなんて死神業はなかなかブラックなんだな、と言ったら恋次に苦笑されたっけ。

 長い廊下をくねり歩いていると、やがて襖の開け放たれた広い部屋に辿り着いた。
 使用人は部屋の一歩手前で朽木白哉に声をかけるとさっさと仕事に戻ってしまう。残された井上がわたしと朽木白哉を見比べておろおろと挙動不審になり始めた。

「あの、井上です! 睦月ちゃんと一緒に来たんですけど、お時間は……」
「――問題ない。入れ」

 簡素な文机と布団以外なにもないがらんとした部屋の中央に、朽木白哉はいる。
 まだ包帯やガーゼやらに塗れ、「黄色人種率三十パーセントくらいだな」と冗談を飛ばしたくなるほど怪我の痕跡が強い。座椅子を使っているところを見ると、やっぱりまだ脇腹の傷が塞がっておらず本当は座っているのも苦痛であることが判ってしまう。

 誰が見ても明らかに怪我人であるその様子にどうリアクションをすればいいのか、……はたまたしない方がいいのか、よくわからなくて無言のまま敷居の外側で立ち尽くした。
 そんなわたしと朽木白哉の沈黙に耐えかね、井上がわたしの手を取って控えめに(けれどしっかり)敷居を跨ぐ。
 二人して勧められた座布団に腰を下ろす。

「……よく退院許可が下りたな。全身包帯だらけでミイラみたいだ」
「ちょ、ちょっと睦月ちゃんミイラはよくないよミイラは……」

 相手が何も言い出さないので仕方なく思っていたことを口にすると、隣の井上が両肩を掴んで揺すりながら「睦月ちゃん!?」と窘めるので口を噤んだ。
 見た目は全快なのに病室から出られないわたしと、見た目は重傷なのに病室から出ている朽木白哉はある意味対極的だった。

 今までは仲間達の身を案じる以外の心の動きがほとんどなかったわたしだけど、流石にこんな風に怪我人を目の前に差し出されると多少は感じるものがある。
 つい数日前までは敵だったというフィルターを取り払われてしまったら、別にわたしが負わせた傷でもないのに何故かわたしが悪いような気さえしてくるような……。
 罪悪感とも寂寥感とも違うこれは一体何なんだろう。
 わたしの語彙では今の気持ちを表せそうにはなかったから、ただじっと朽木白哉の目を見つめ返した。

「脇腹、刺されてただろ。まだ治ってないように見えるけど」
「問題ない。この程度で病床に伏しているわけにはいかぬ」

 愚問だった。この程度、なんて軽く言えるほどの怪我じゃないくせに、と内心虚ろな気持ちでその姿を眺める。
 本当は目の前の男は安静にして、周りの奴らに労わられて然るべきの怪我を負っているし、全身めった刺しにされたわたしや上半身と下半身が千切れそうになった黒崎だってこんな風に外を出歩いていいはずがない。
 本当は一生治らないような傷で、簡単に忘れて元気になっていいような怪我じゃなかった。

 普通は、こんな風に、傷は時間と命で埋め合わせるもの。
 わたしはそれをずるしているだけ。

「――怪我をしたら、簡単には治らないんだものな」
「……」
「そっか。……そうだよな」

 それは純然たる事実で現実だった。言葉にしてみると急に貶むような冷たさと妬むような湿度が混ざり込んで、どうにも井上にはわたしが余計なことを考えているように聞こえてしまったらしい。
 そっと井上が眉を曇らせたので、慌てて「大変だな」と付け加えて誤魔化した。やっぱりろくな言葉選びが出来ない。駄目なやつだなわたしは……。
 こっそり目を伏せて落ち込んでいるわたしを見て、白哉はぽつりと「感謝している」と呟いた。

「感謝? ……どうして?」

 感謝される謂れなんてないと思った。心当たりもない。黒崎と違ってわたしと白哉の直接のやり取りはなかったはずだ。
 きょとんとして視線を上げると、ほの蒼い双眸が真っ直ぐこちらに向けられていて、それが彼の言い間違いでもわたしの聞き間違いでもないことがいやでもわかってしまった。

「ルキアの為に、黒崎一護と共に藍染に向かっていったと聞いた」
「……あ」
「何度も、何度も。致命傷を負ったと聞いた」

 白哉の視線が首に逸れて、それから肩、腹へと滑り落ちていく。
 あの双極の丘で直接何かのやり取りをしたわけではなかったけれど、瓦礫の山に埋もれて死んでいるわたしを目にしていたのかもしれない。

 三分の一抉られていた首はもう元通りになった。斬魄刀で執拗に貫かれた腹部は破壊された臓器ごと復元されたし、肩や脇腹の傷に関しては井上の治療を待つことなくある程度治っていた。

 もう戦いの痕跡はわたしの身体のどこにもない。
 だって言うのに、白哉はまるでそこにまだ傷があるような、微かな痛ましさすら感じられる表情でわたしを見る。

「……致命傷って言ったって、おまえや黒崎の言う致命傷とはわけが違うよ。怪我がどの程度だろうと、何度傷が開いても、結局なかったことになるんだから、わたしにはないのと同じだし」
「今そこに傷が在るかどうかではない。兄が耐え難い痛みを負ってもなお戦った、という事実を語っている」

 いよいよ面食らって口を噤んだ。
 この男、まるで黒崎みたいなことを言う。

 朽木白哉。
 妻の忘れ形見としがらみとの間で葛藤していた、不器用な義兄。
 黒崎から様々なことを聞いた。一度だけ病室を訪れた朽木からも、義兄について聞いた。
 本当は優しいひとなのだと何度も聞かされた。だからそういう男なんだと認識していたけど、予想以上だ。


「例え兄自身が献身それを認めないとしても、ルキアのために兄がその身を賭して戦ったのは事実だ。それ故、感謝している」


 ――そんな目でわたしを見ないで。

 わたしはどんなに無茶をしたって直るから、人より沢山怪我をするのは当然なのに。
 わたしは『敷島睦月』を犠牲にして生まれた生き物だから、苦しみも痛みも報いとして受け入れることが生きるための条件なのに。

 そうすることで、ようやくわたしは生きることを許してもらえるのに?

 ……勘違いしてしまう。
 こうして感謝され、温かい眼差しを向けられるに足る人間がわたしだと言うのなら、わたしが身を擲って戦ったことに許しを乞う以外の価値があったんじゃないかって。

 またいろんな方向から叱られそうだけど、ひとりでは何も変われない、どこにも行けない何にもなれないわたしの行為に価値が与えられたことが、こんなにも温かくて嬉しい。
 すべてが失われ更地になったはずの敷島睦月わたしの内側に新しい価値が与えられたことが、こんなにも―――。


「……、……感謝される謂れは、やっぱりない」

 焦点が定まらない。膝の上でぎゅっと両手を握りしめ、小さく呼吸を繰り返す。

「……でも、その言葉は受け取っておく」

 そう囁くだけでわたしには精一杯だった。
 視線を逸らしながら項垂れたわたしを見つめ、白哉は静かに首肯した。


 ――ひとりに満たない欠けた魂。
 ――空の体には、新しいわたしとしての記憶を詰め込まなければ

 ――ただそこにいるだけの、幽霊みたいな生き物。
 ――空の心には、新しいわたしとしての信念を流し込まなければ


 自分のなかで孤独を育てながら捜し当てるものだと思っていたわたしという生き物のすべてをほんの少し満たす、温かい声や眼差し、手つきや感触。
 美しいそれらでいずれわたしが完成するんだとしたら、それはなんて幸せな夢なんだろう。




 朽木邸を後にした帰り道も、井上はわたしの手を握ったまま離さなかった。
 夕陽に照らされてわたし達の影は伸びていき、握った手は汗で少しふやけている。わたしと井上の体温が融け合って、ちょっぴり暑いくらいだった。
 それでも、井上は手を離さなかった。

「白哉さん、はやく元気になるといいね」
「元気いっぱいになってあの顔でウキウキしてたらそれはそれで怖いけど、そうだね」
「睦月ちゃんも、元気になってね」

 どちらともなく足を止める。
 きょとんとして井上を見ると、井上もわたしを見る。
 夕焼けに照らされた井上の白い肌は発光しているように見えて、柔い頬がすぐに微笑みを形作る。

「わたしは元気だよ」

 そう言うと、橙色の丸い瞳が何かを祈るように細められる。
 わたしの言葉を井上は肯定も否定もしなかった。

「――睦月ちゃん、元気になっても、怪我しないでね。死なないでね。約束だよ」
「……黒崎といい井上といい……。わたしが死ぬって一番ありえないことだよ、月と太陽くらい離れてて縁がない概念みたいな」
「うん、睦月ちゃんが死なない身体なのはわかってるけど。……それでも、死なないで。出来るだけ痛い思いしないでほしい」

 回想する。
 ……あの時。剣八の一太刀を避けなかったわたしを黒崎がひどく怒った時に言われた言葉。
 出来るだけ怪我すんな、と祈るように言った黒崎の言葉と、今井上が言った言葉はとてもよく似た響きをしている。

 わたしは今、同じ約束を、同じ響きで、同じ眼差しに迫られている。
 ――わたしが今後少しでもこの身を軽んじれば、今握っている手の温度がわたしを責め立てるのだ。
 このどこまでも温かで優しい記憶が、他でもないわたしの選択を嫌悪する。

 そう確信するほどに、優しいはずの井上の眼差しは力強く、約束と言うくせにわたしに有無を言わせない強制力を纏っていた。

「あたし、睦月ちゃん大好き。来年の夏も一緒に遊びたいし、再来年も、その次だって、大人になってからも……」
「は、話が飛躍していくなぁ」

 苦笑すると、井上はちょっとだけ眉を下げて微笑んだ。

「だから、ずっとずっと生きていて。それで、ずっとあたしと友達でいてね」

 繰り返されるそれはもはや呪いのようだった。わたしの頭に刷り込まれて、約束は縛りとしてわたしに刻まれていく。
 そんな聖なる呪いを二度もかけられては、わたしはどんな致命傷を負って「もういっそ死にたい」と願ったって死なせてはもらえない気がする。
 優しいんだか残酷なんだかわからない未来の想像があまりにおかしくて、手を繋いだまま堪えきれず哄笑した。


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