どこでもない世界に
二人もいらないね

 闇の底へ落ちていた。
 誰かの腕に抱かれているような安心感と、足に根が絡みついて立てなくなっていく予感だけがあった。
 穏やかで温かな心地だけど、どこか虚ろな。
 満たされたそばから、零れ落ちていくような。


 ここには、傷付ける愉悦も傷付けられる恐怖もないようだった。


 閉じた瞼の内側に無理矢理捻じ込まれる昏い世界の印象が次々わたしに注がれていく。
 広がっていく世界。ただ広いだけだ。
 周りには誰もいない。見渡す限り無人の闇。
 炎が舐めていったように赤く染まった地表を俯瞰しながら、ふと視線を奥にやる。

 山があった。
 人間の山である。


 わたしがつくる山なんだろうと思った。


 そっとそれに歩み寄り、食い入るように頂上を見上げる。
 見知った顔ばかりが積み重なるそれに心を掴まれながら、同時に凍り付いてしまったように視線はおろか指一本ですら動かせなくなった。
 足元から血液が逆流してくるような不快さと背筋を這いあがっていく恍惚。視界が揺れる。

 理由なんてわかりきっていた。
 間接的に死と喪失に触れ歪んだわたしの奥底に眠っていた醜い獣性を暴いた者がいたからだ。
 わたしが決して認めたくなかった、決して表に出したくなかったほんとうのわたしは、人と傷付け合うことでしか他人を感じられないという人間として欠陥した本性そのものだった。

 本当は傷付けるのも傷付けられるのも恐ろしい。
 けれどそれを上回る渇望と愉悦が恐怖をいとも簡単に塗り潰していく。わたしの人間的な感情をなかったことにしてしまう。
 ということは結局、わたしにとって大きな比重を占めるのは他人を傷付けることをこの上なく愉しむわたしの人格ということで。
 わたしはそういう最悪な生き物だということで。

 それってなんて嫌な事実だろう。
 こんな風に生きていかなきゃいけないなら、いっそ******いたかった。

 でもそういうわけにはいかない。わたしは生かされてしまった。
 だから散り散りになるわたしを繋ぎとめた『救世主』と聖人達の前ではせめて、救われるに足る善人でいようと努めていた。
 歪み、捻じれ、どうしようもないくらい空っぽで他の誰かを求めてやまない浅ましいこころに蓋をして目を逸らしていれば、きっとわたしもみんなと同じように、絵にかいたような平穏で退屈な日常に溶け込めるはずだと。いずれはわたしも日常に成れると信じて。
 欠けた魂でも、完成された本物の敷島睦月にんげんに至ることが出来ると信じて。


 でも、あの時。
 ――殺されると痛感した瞬間。……あんなに胸が苦しかったのは生まれて初めてだった。


 迷いなくわたしの頭上に振り翳された刃の銀の輝きを目にした瞬間、わたしは愚かにも、自らの内に掲げた信仰を棄ててしまった。
 信仰を棄てればただの化け物に戻ってしまうとわかっていたのに、わたしは胸を打った愉悦の予感に負けたのだ。



「 その先は 地獄よ 」

 底に落ちゆくわたしを観測する声があった。
 引き留めるでもなく咎めるでもなく、ただ平坦に事実を述べる声を意識だけで振り返る。

「 この幸せな世界を手放して どこへ行こうというの 」

 わたしがつくる愛しい死体の山を指さして、もう一度「幸せな世界よ」と声は繰り返した。
 これのどこが幸せなのかと、問うことはしなかった。
 できなかった。


 誰かを傷付けることは愉しい。
 わたしの手によって生まれる傷口で他者が生きていることを実感できる。流れ出るのは命の証だ。
 わたしも傷付けば一時的に同じものが流れるから安堵出来る。同じつくりをしているんだと安心出来る。わたしも生きているし、相手も生きている。

 触れるだけでは物足りない。薄い肌越しに体温を感じるだけではわからない。
 肌の下を駆け巡る血を感じ、脈打つ鼓動の一つ一つを数え、苦しみに呻く吐息を共有して初めて、生きていることを信じられる。
 何もかもが違っているわたしという生き物が、みんなと同じように呼吸をして血を流して生きている生き物なんだと錯覚出来る。

 これだけ数を重ねれば、いつかきっとわたしのこの胸に巣食う虚ろをわかってくれる人が現れるんじゃないかという期待もあった。
 誰かにこの渇望と葛藤をわかってほしかった。おかしいことじゃないんだと手を握ってほしかった。
 何度手を振り払ってもそばにいて、わたしのこの矛盾した殺意を解いてほしかった。


 だから、ここは幸せな世界。
 いつか本当に人を殺しかねない加虐衝動を堪える必要が最早ない。自ら打ち立てた信仰の名のもとに磔にされる心配すらもない、これ以上ないくらいわたしにやさしい世界だ。
 だってもうここにはわたし以外に誰も生きてはいないから。

 みんないなくなってしまえば、誰かを求めて血を流すことはない。
 この暗い場所にひとりでいれば、もう誰かを傷付けることを堪える必要がない。
 死んでいるか生きているかもわからなくなるけど、もともとそんな物差しはわたしには不相応だし。

 ずっとここでひとりでいればいい。
 葛藤も渇望も後悔もない幸福を孤独に噛みしめればいい。
 永遠に。


「仲間が死ぬところなんて、もう二度と見たくねえ」

 ずっと。

「ずっとずっと生きていて」

 ……ずっと。


 ――落ちる先は、きっと現実じごくだ。
 先に天に昇ったあなたから見れば、きっとそこは地獄だろう。

 でも、あなたは意味があるからわたしを棄てていったんじゃないの?
 意味があるから、こんな地獄が生まれたんじゃないの?
 地獄から生まれたわたしがここに留まってしまったら、わたしは本当に生まれた意味を失ってしまう。それだけは駄目だ。
 だってみんなわたしに「生きていろ」って言う。だから生きていないと。

 わたしはもう取り返しのつかないところまであなたと別たれてしまったけど、それでも生きていないといけないから。

 いつか誰かを傷付けるかもしれないなら、その時はこの腕を斬り落とす。
 いつか誰かを踏みつけにするかもしれないなら、その時はこの足を折ってしまえ。
 いつか誰かの涙を悦ぶかもしれないなら、その時はこの両目を潰せばいい。
 いつか誰かの死を望むなら、その時こそわたしは死ねばいい。

 この幸福な世界を現実にするくらいなら――もう一度信仰を棄てるくらいなら、わたしは、地獄で生きる方がましだ。


 空の玉座に信仰を捧げて。
 孤独のなかでいつまでも、喪失に喘いでいる方がましだ。

 この暗がりで、永遠に。




 うおーーーーーーーーーーん。


 頭を覆っていた機械から解放され、蘇った五感の感触に辟易しながら目を瞬かせる。
 わたしを取り囲むように並んでいた機械達はすでに撤収済みで、あとはわたしがこの検査台から降りればいいだけの状態だった。

 両腕を上げて伸びをすると、阿近がこちらを覗き込んで瞼を押し開き小さなライトを当ててきた。予告もなしに眩しかったので非難代わりに白い実験着の脇腹をバシバシ叩く。

「おはよう。気分はどうだ?」
「……普通」
「眩暈・頭痛、その他不調はないな?」
「うん」

 頷きながら上体を起こす。検査着から覗く両腕を確認するが、針の刺さった痕らしきものはどこにもなかった。抜いた瞬間に直ったんだろうか?

「……結局刺さったの、検査針」
「刺さってねえよ。血液採取は無理だってんで隊長カンカンだったぜ」
「それは……なんかごめん」

 熱が下がってから卯ノ花さんに薦められたのは十二番隊での精密検査だった。
 四番隊で出来るのはあくまでも治療と看護が主。わたしの隅々まで検査・分析をしているわけじゃない。
 わたしがなかなか平常を取り戻さなかったことを考慮して、「どうせなら帰る前に一度隅まで調べてもらったらどうか」という提案に頷いたことによって十二番隊に打診が行き、十二番隊の隊長がかねてから興味のあったわたしの身体を(常識の範囲内で)自由に権利が一日与えられるということでそれを受け入れ……。

 そういうわけで、今日はほとんど一日技術開発局で検査だった。

「まあ他の検査は滞りなく終わったから心配すんな。血液検査は別に現世でも出来る」
「あ、そうなんだ」

 全身麻酔で検査機に入れられる前に血液採取とかなんとかで注射針を何本か向けられたのだけど、そのどれもがわたしの肌を傷付けるには足りなかったらしかった。
 鋭利な先端をものともせず、ただ肌で切っ先を押し返すだけの状態で結局注射は断念されたようだ。
 まあ、血液採取とか言いつつ同じ注射器で血液の代わりに何を入れられるかわかったものじゃないので針が刺さらなくてよかったと思わなくもない。

「じゃあ四番隊に帰っていいぞ。外で旅禍……お前の友達が待ってる」
「友達?」


 隊長であるマユリが引っ込んでから検査を主導していた阿近に促され開発局を出ると、入口の脇に茶渡が立っていた。
 意外な顔に「お」と声を上げると、茶渡もわたしを見下ろして「お」という顔をした。

「どうしたんだ、お迎えがなくても帰れるけど」
「石田がどうしてもと言うから……」
「石田ぁ?」

 件の本人はどこにも見当たらない。
 茶渡は若干困った様子で説明してくれたが、どうも十二番隊の隊長と石田はひと悶着あったらしい。卯ノ花さんの推薦とは言えわたしを十二番隊にやるのが心配だが自分が行くのは不服なので茶渡にわたしを迎えに来させた、ということらしい。
 茶渡は本当にただ善意でいつ出て来るかわからないわたしを待っていたようだ。
 どれくらい待ったかと問いかけると、首を左右に振られたから大して待っていないということなのか、それとも気を遣われているんだろうか?

「……どうだった、検査は」
「注射針が刺さらなくて文句言われた。結果は明日四番隊に行くって」
「そうか」
「なんかすごく……個性的な感じだった。確かにあれは石田と相性よくなさそうだ」
「石田の嫌がりようも凄まじかったな」

 のんびり歩きながら十二番隊の隊舎を抜けたところで、ふと茶渡が「どこか寄るところはあるか」とこちらを見下ろしてきた。
 もう身体には問題がないって言うのに、彼らはいまだわたしに対してどこか過保護だ。
 茶渡はもともと優しい性格だから単に長時間の検査を終えたばかりのわたしを案じているだけかもしれないけれど、井上をはじめとした仲間達がみんな幼児を相手取るような過保護さでわたしに付き添うものだから、こっちも若干辟易していた。

「どこも行かないよ」
「……、そうか」

 答えるわたしの声音が硬さを纏ったものだったからか、茶渡が気にするようにちらりとわたしの顔を窺う。
 ……別に困らせるつもりはなかった。ただ、いつも雑なくらいの扱い方なのに急にみんな優しくなるから戸惑っているだけなのだ。
 これじゃあまた気を遣わせてしまうか、と逡巡して、思い切って茶渡の太い腕に手を回してぴったりとくっついた。
 茶渡がぎょっとする。

「こんないい男を隣に侍らせて歩き回ったら目立つからな。大人しく帰って養生するよ」

 茶化しながら小さく笑うと、茶渡は口をへの字にして「ム……」と短く唸った。

「なんだよ嘘じゃないよ、茶渡はいい男だよ。かわいいし」
「かわいくない」
「なんで? かわいいって」

 身を寄せると、低い声が「敷島」と仕方のない子供を呼ぶような響きでわたしを窘める。顔を上げたわたしの額を茶渡が抱き着いているのと反対の手で軽く小突いた。
 けれど離れろとは言われなかったので、褐色の肌に頬を寄せもう慣れてしまった仕草で顔を緩めた。

 ……触れたところから温もりが伝わってくる。
 大丈夫。恐ろしい感情は湧き上がってこない。この温度を疎ましくなんて感じない。
 だから大丈夫。わたしは現実でも生きていける。


 それから四番隊の病室に着くまでじゃれあっていたわたし達を見て井上が「いいなー!」と声を上げると、茶渡は無言でわたしを井上に押し付けて去ってしまった。
 多分照れていたんだと思う。かわいいやつめ。


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