宇宙の終わりを知っていた
「敷島殿、違いますぞ! ただ力を籠めるだけではいかんのです、籠めるのは霊力!」
「…」
「あぁあぁいけません、霊子が疎らになっております……散らすのではなく固めるのです、さあ!」
「……ぐぬ…」
「闇雲に握り込むだけでは霊子は動きませんぞ! おのれの周囲にある霊子を――」
「で、出来るかァ!!」
両手で握り込んでいた霊珠核を思い切り地面に投げつける。ガツン、と鈍い音を立てて半透明な水晶が床にめり込みクレーターが出来た。
器物破損だ、と冷静な自分が小さく囁いたが、今はそんなことに構っている余裕がない。
「そもそも霊力を籠めるって何なんだ!? 霊力って何!? わたしはただの生身の人間で霊力だの霊子だのなんて全然わからないんだが!?」
「ただの人間は床が抉れるほどの力で物を投げたりはしませぬぞ敷島殿!」
「……お前ら、あんまり刺激してるとマジで床ぶち抜かれるぞ」
「そいつ瀞霊門に穴開ける女だぜ」と傍らで同じく虫の息だった黒崎が呟く。
それを聞いた金彦と銀彦が震えながら後退し始める。一体どんな想像をしたかは知らないが、そういう素振りを見せるならこっちだって期待に応えてやらなければ。
完全に頭に血が上ったわたしと大男二人組による無益な追いかけっこが始まった。
空鶴の指示によって、わたし達は瀞霊廷突入の為の霊子壁を作る特訓をしていた。
霊珠核とか言う未知の物体を渡され、かれこれ数時間『霊子』とやらを固める練習をしているけれど、なかなかどうして上手くいかない。
そもそも、『霊子』や『霊力』を意識的に使ってきた茶渡・井上や、そもそも霊子操作が主な力だと言う滅却師の石田と比べ、わたしは今までそういうものを意識したことがまるでなかった。
自分の怪力や不死身の仕組みだって多分わたしよりも浦原の方が詳しいだろうし、つまりわたしはわたし自身の不思議について全く理解がなかったのである。
そういうわけで、ずぶの素人であるわたし(と黒崎)が突如出現した新概念に大した説明もされないまま「やってみろ」と放り出されたところで、いい結果が出るわけもなかったということだ。
加えて指導役として残された金銀コンビと岩鷲からは有用なアドバイスなんてもらえないし、口頭で感覚的なことを解説されてもちんぷんかんぷん。
最初から無理がありすぎると思う、この訓練。
「……あー、睦月チャンよォ」
「なに?」
とっ捕まえた金彦にヘッドロックをかけ、銀彦に降参宣言を受けていると、それまで床に寝そべってだらけながらわたし達を静観していた岩鷲が身体を起こす。
出会い頭の取っ組み合いで黒崎とのいがみ合いは一応ひと段落したようだったので、もうわたしに岩鷲に襲いかかる理由はないのだけど、そちらに視線を流すとちょっと身構えられてしまう。
「死覇装着てねぇからわかんなかったけどよ、……その才能の無さ、まさかオメーもにわか死神か?」
「だから正真正銘人間だって。……井上達みたいな『特殊能力』ってやつもないし、この中じゃわたしが一番能無しかもな」
片手間に近くに転がしていた刀を鞘ごと投げ渡してやる。
岩鷲は刀を抜いてその様子を確認しながら、「確かに浅打でもなければ斬魄刀でもねぇな…」と独り言のように呟いたのだった。
その様子を見ているとほんの少し冷静さが戻ってきた気がする。
ようやく金彦の首回りを絞める腕を緩めると、「だから能無しは地面抉らねえし自分よりデカい男にヘッドロックかけて本気で落とそうとしたりしねえって」と黒崎が突っ込んだ。
「能無しとは思うけど非力とは言ってないよ」うわー、ドン引き、みたいな顔をされた。
「俺ぁてっきりそこのタンポポ頭と同じなのかと思ってたぜ。揃って才能ねーからよォ」
「……黒崎、その霊珠核貸せ。床を砕く前に骨を砕いてみよう」
「目の前で犯行予告されて誰が渡すか! お前も煽るな! マジで殺されるぞ!?」
腹立つ顔目がけて投げてやろうと思っていた霊珠核は黒崎に死守されてしまった。
仕方がないので腰に手を当てて息を吐く。
あれだけ煽ってきていた金銀コンビも静かになったし、練習を再開するなら今なのだけど、結局行き詰った状態にあることは変わらない。
目にも見えない、感覚もわからない『霊力』と睨み合っていても埒が明かないのはこの数時間でわかりきってしまったし。
先に成功させて今頃食事中の井上達にコツでも訊きに行こうかな。
訓練場の出口に向かって歩き出すと、ごろりと寝転がっていた黒崎が身体を起こす。
「おい、どこ行くんだよ」
「井上達のところ。わたしは才能ないからな、才能なしがここで唸ってても仕方ないから、優秀な先輩に指導を仰ぐ」
片手を振って地下練武場をあとにするわたしの後ろ姿を、岩鷲と黒崎の二対の目が見送っていた。
◇
「……なんだ、ありゃ」
「あ?」
敷島の背中を見送った岩鷲がふいに大きな溜め息を吐く。
呆れたような、驚いたような不思議な表情で敷島が消えていった方向を見たまま、ガシガシと頭を掻いた。
「昨日の夜は鬼みてえな奴だったのに、今日はただの子供だな。拳が出なきゃ本当にただの人間って言われても頷けるぜ」
「ああ、そうだろうな」
納得と同意の籠めた深い肯定をする。
修行を経て尸魂界に入った敷島は、現世にいた頃に見せていた魔性の雰囲気と暴力性を上手く隠しているように見える。
もちろん未だに考えていることはよくわからないし、未知の存在であることに変わりはないのだが、それでも研ぎ澄まされた殺意に彩られた攻撃的な表情は鳴りを潜め、より"生き物らしい"人間性を獲得したようにも思えた。
感情を剥き出しにした、こちらがぞっとするほど穏やかな微笑みを浮かべる敷島。
気の抜けた無表情で、人並みにムキになったり怒ったりする敷島。
それらを目にした順番が同じだったからか、岩鷲の言いたいことはよくわかる気がした。
多分その不思議な違和感は、同じものを同じ順序で目にした俺達にしかわかるまい。
「昨日の様子から考えて、俺ぁ出会い頭に殴りかかってくるのはお前じゃなく敷島の方だと思ってたんだがな」
「どうだかな。……俺にもよくわかんねえよ、アイツのことは」
記憶の奥底に焼き付いた過去――血の気のない顔は今や薄れつつある。
出逢ったばかりの頃は異質な雰囲気と混じりけのない殺意の籠った眼差しに若干の苦手意識を持ったこともあったが、今はもうそれもない。
敷島は変わった。
「殺せるなら殺しておこうと思った」と言いながらうっそり笑っていたと思えば、今は「ケガがないならいいんだ」と俺を案じているような素振りを見せる。
初めて会った頃は、前者の思考が敷島のすべてだったように思う。気に入らないものを壊す、殺す、それだけで満足している、という感じの冷たく滑らかな意識の壁があった。
別にその物騒で無垢な狂気が消えたわけじゃない。
ただ、修行をして、井上達にもある程度心を許して、多分あいつは他人を心配する感情を獲得したのだろう。
何かを壊すことだけを悦ぶ、単純でごく狭い世界で生まれた敷島が俺達のことを仲間として認識した結果、ささやかだけれど強い変化を起こしているのだとしたら。
自らを「がらんどう」だと評した敷島が、その淋しい空洞に何かが入り込んだのだとしたら、それはきっと良いことであるはずだ。
だって、ここに来てからの敷島の表情には、人らしい温もりがある。
あの華奢な身体の内側を満たす虚ろを打ち消すにはまだ足りない、些細な灯りだけど。
「わかんねえって、……お前ら仲間なんだろ」
岩鷲の言葉にぱちりと瞬きをする。
岩鷲の指す仲間は、多分俺とたつきか、はたまたチャドのような関係のことを言っているのだろう。決して短くない時間を共に過ごした相手。気心の知れた存在のこと。
そういう風に見えたんだろうか。俺と、敷島が?
……いまいちピンとこない。
別に敷島のことが嫌いなわけでも苦手なわけでもない。
ただ、今の敷島が誰かに心を開いて、日常に溶け込み、…例えば朗らかに笑っている姿を想像すると、まるで蜃気楼のようにイメージがぼやけてしまうのだ。
心の底でそれが最良の未来だと思いつつも、同時にそんな距離まで敷島に近付けば、敷島自身の空洞に吸い込まれてしまうと、漠然と危機感を覚えた。
アイツを人間だと認めておきながら、心のどこか別のところでは、わかり合えることはない何か別の次元の生き物だと諦念しているような。
そばにいて、精巧な人形のような横顔を見ていると、何だか敷島の心の深いところにある闇の痛みや苦しみを、自分の内側にそっくりそのまま映し込んでしまうような。
そんな危うく、破滅的な予感が……。
「――敷島のことは前から知ってっけど、アイツと会ったのはつい最近。だからよくは知らねえ」
「前から知ってるのに会ったのは最近、ってなぞなぞかよ。その説明が意味わかんねえ」
「いーんだよ、別にわかんなくて」
……そうだ、わからなくていい。
両手で掴んだ霊珠核に力を込める。
敷島は多分、練武場に戻ってくる頃には霊力の操作なんて簡単にマスターしてくるだろう。そういう化け物じみた成長力を持ったやつだ。
……敷島がどうなるとか、これから何に成っていくとか、それで俺達がどうなるとか、そういうことはどうでもいい。
あの物静かの皮を被った姿を誘蛾灯のようだと、そして歪は更なる歪を惹きつけるのだと痛感させられたあの日を忘れたわけではない。
雪の日に宙を舞った姿を完全に上書きしたわけでもない。
破滅と痛みと淋しさが、今もあいつの主構成成分であることに間違いはないだろう。
それでも、例え何もかもが変わるとしても、何も変わらないのだとしても。
この命懸けの旅を通して、ルキアを救う道筋を辿りながら、敷島が自分の"空"を満たし、痛みを安らげる何かを見つけられればいいと、そう願う。
きっとその役は俺では務まらない。
自分の意志で現実を生きる彼女をこの目で見てもなお、非現実的な『終わりに最も近い姿』を連想しては恐怖に駆られる俺なんかでは、きっとあの虚ろは埋められない。
「全部わかる必要なんかねえんだ。俺達はただ、仲間であればいい」
そう呟いて再び霧散する霊力を霊珠核に込め始めた俺に、岩鷲はやけに神妙な顔をしてそういうもんか、と呟いた。
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