剥製の獅子には牙が足りない
「――へえ、じゃあ睦月ちゃん、ちょっと休憩?」
「うーん、休憩って言うのかこれ。……荷物の受け取りだからすぐ戻ってくるだろうし」
手でぱたぱたと顔を扇ぎつつ井上の問いかけに答えていると、薄桃色のタオルが差し出された。ありがたくそれを受け取って肌に浮いた汗を拭う。
すると何故か井上がゆるゆると顔を綻ばせていくので、ほんの少し後ろ手を組んだ彼女の様子を訝しんだ。
今の短く簡素なやり取りのどこに楽しい要素があったのかわからなかったからだ。
わたしの表情を見て井上は「いやぁ」と照れ臭そうに頬を掻く。
「なんか、今の感じすごい友達っぽかったなぁって思って」
「……すごく抽象的だ。ここ数日はずっとこんな感じだったろ」
「ううん、全然違うよ!」
井上が急に身を乗り出して迫ってくるので、わたしは背中を反らしてギリギリ密着を回避した。……まだこの距離感には慣れない。
井上、茶渡、そしてわたしの三人が夜一と修行を初めてからはや数日、飽きるほどの快晴が続いている。
井上と茶渡はそれぞれ特殊能力とかいうものにしっかり覚醒し、その能力を伸ばす為の訓練を続けているようだ。
わたしはと言えば、浦原の読み通り特に目立った特殊能力とやらが発現するわけでもなく、夜一と文字通り鬼のような速度の鬼ごっこを繰り広げたり、合間に茶渡と本気のステゴロ勝負を強制されたり。
正直二人とは正反対な――本当に身一つで戦えるようにする為の特訓を受けていた。
「睦月ちゃんね、自分の顔は見えないからわかんないだろうけど! 毎日ちょっとずつ喋り方とか表情とか、優しくなってるんだよ。初めて会った時と全然違うよ」
「……そんなに酷かったかなぁ」
「ひ、酷くはないけど! ちょーっと睨んでるみたいだったって言うか、怖い顔してたって言うか……」
言い淀む井上。頭を掻くわたし。
井上達とこのわたしが"はじめて会った"時、正直夜一や井上が言うほど彼女らを警戒しているつもりはなかった。仲良くなるつもりもないが、険悪になるつもりもなく。
一種の警戒と諦念が混ざり合った微妙な心地でこの数日間を過ごしていたのだけど、目に見えて好意的ではなかったと言うのなら多少の反省もしよう。
常に口数の少ないわたしと何とかコミュニケーションを取ろうと井上と茶渡があくせくしているのは見ていたわけだし。
いやまあ、でも、
「――わたしだって人の心くらいあるから、緊張はする」
「……へ? ………緊張?」
「…だから、こうやって喋り方とか気にしないでこんなに長く人と喋ったのは初めてだったから……」
「あ、それで緊張……」
「……ああもう、この話もういいだろ。行ってくる!」
井上の絶妙に生暖かい視線に背筋がうずうずしてくる。何だかとてつもなく恥ずかしいことを言ってしまった気がして、いてもたってもいられず立ち上がって廃ビルの屋上から飛び降りた。
頭上で何やら井上が叫んでいる気がしたけれど無視だ。これ以上喋っていてもわたしが恥を重ねるだけである。
十分ほど前、携帯にメールが届いた。
差出人は、いつの間にわたしのアドレスを知ったのか浦原。
曰く、『わたしの武器が仕上がったから取りに来い』と。
『本日閉店』の張り紙がされたシャッターを叩く。数秒の間を空けて灰色の壁が持ち上がり、閉店にも関わらずしっかり濃紺のエプロンをしたテッサイが出迎えてくれた。
いつかの雨の日のように小さく会釈をして店の中に入ると、地下空間に続いているらしい梯子のかかった穴からは金属のぶつかり合う音と土埃のにおいが微かにした。
「よくぞおいで下さいました睦月殿。ただいま店長をお呼びしますので少々お待ちを」
「いや、取り込み中なら待…」
「店長ォ! 敷島殿ご到着ですぞ! 店長ォーー!!」
「あー……」
これは最近覚えたことだが、浦原商店の奴らは基本的に人の話を聞かない。
制止の声が呆気なく掻き消える大音量で地下に向かって叫ぶテッサイを数歩離れた場所から眺めていると、すぐに「ハーーーイ!」と返事が返ってきた。
それから何やらドッカンドッカンと騒音が激しさを増し、……急に静まり返る。
あまりにも唐突に訪れた沈黙に思わずテッサイと並んで穴を見下ろすと、何事もなかったかのように梯子を上ってきた浦原がひょっこり顔を出した。
「イヤ〜こちらが呼びつけた側なのにお待たせしてスイマセン!」
「ああうん、別にそんなに言うほど待ってない…」
「そうっスか? まあどうぞ、詳しい話は奥で」
座敷に上がるよう促されたので大人しく靴を脱いで畳に正座する。
浦原がわたしの正面に腰を下ろすと、テッサイが風呂敷包みと一振りの刀をわたしと浦原の間に差し出した。
『武器が出来た』と言うんだからきっと刀か何かなんだろうなぁと想像してはいたけど、この風呂敷は一体……?
「……まさかとは思うけど、この風呂敷ごと持っていけって言うのか?」
「いやいや! こんな大荷物持っていったら荷物になっちゃうデショ。こっちは後で説明します」
風呂敷が脇に退けられ、代わりに黒い鞘の刀を差し出される。
抜いてみろと言われたわけではなかったけれど、何となく受け取ったそれを慎重に鞘から引き抜いてみる。刀なんて持つのは初めてだったから、ほんの少し手に力が籠った。
するりと抜けた刀身は、光を反射する銀色の刃に花弁が重なり合ったような刃文が見える。
生まれてから刃物を鑑賞物として見たことはなかったけれど、目の前にある刀はまるで手をかけて生み出された芸術品のようにわたしの目を奪っていた。
「……綺麗」
思わずぽつりと呟くと、正面で浦原がほんの少し笑う。
「ホントですか? それは良かった。こうやってシンプルな刀を造るのなんて初めてだったんですごーく苦労しましたよ。女の子が持つなら見た目にも気遣わないと、と思ったんですけど、正解でした」
浦原の声を聞きながら、煌めく刃の鋒から指を這わす。音もなく薄皮が裂かれ、ぷつぷつと玉のように血が膨らんだ。
何となく――本当に漠然としたイメージだったけれど、この刀さえあればわたしはきっとどんなものでも斬ってしまえる予感がした。
今まで微塵もなかったはずのモノを斬るという実感が急に降って湧いてくる。不思議な心地で血の滲む指先と刃を見ていた。
「死神で言うところの斬魄刀……の代用品っス。霊子を含んではいますが成分的にはほとんど普通の刀です。無茶な使い方をすればもちろん刃が欠けたり、最悪折れたりもしますから扱いには気を付けて」
「……うん」
呆然としながら頷いて刀を鞘に戻そうとしたわたしに、浦原が「あ、ちょっとそのまま」と待ったをかける。
先端だけ鞘に差し込んだ状態で視線だけを投げて寄越すと、浦原は笑みを深くして下を指さした。
「夜一さんの方に戻ってその刀振り回すのはちょっと難しいでしょう。どうですか、ちょっとここで、試し斬り」
◇
「くっろさっきサーン! ちょっとは休めましたー?」
「ゲッ戻り早いじゃねーか……」
数分前、「ちょっとお客さんが〜」と言って上に戻った浦原さんは、思っていたよりもすぐ地下に降りてきた。
鬼のような猛攻を繰り広げていたくせにあっさり俺をいなして上に戻った下駄帽子の背中を恨めしく見送った俺からすれば、「戻るの早すぎんだよもうちょい休ませろ」以外の何者でもないのだが、少しでも弱音を吐くと一滴も汗をかいていない涼しそうな顔で煽られること必定だ。
無駄に煽られて血管が切れる前に、と渋々寝転んでいた身体を起こすと、浦原さんの後ろに小さな人影があることに気付く。
顎下で乱暴に切り揃えられた黒髪を揺らして気怠そうな目をしたそいつは、その華奢な立ち姿に似合わぬ刀を手に握っていた。
「敷島……!」
「よ、黒崎。……だらしないぞ、そんなに前を開けるなんて」
敷島の視線がすぐに俺の胸元と腹を行き来し、数秒もしないうちに見咎めるように細められる。慌てて死覇装の襟を正すと、「よろしい」と言わんばかりに目を眇めて頷かれた。
散々下駄帽子に追い立てられ、動きっぱなしで暑かったのだと言い訳してもよかったが、敷島の本気で着衣が乱れていることに対する呆れの眼差しみたいなものの前では何を言っても通用しない気がしてやめた。
思えば敷島が服装を乱して着ているところは見たことがない。制服だってスカートは折らずに校則通りの着こなしを守っていた気がする。
口調こそ乱暴だけど、そういうところには厳しいところが何だかアンバランスでおかしかった。
「浦原さんから聞いてたけど、本当にお前も行くんだな。……で、何で敷島がここに?」
地面に突き立てた斬月を杖に立ち上がりながら問いかけると、敷島が小さく「武器の贈呈」と答える。
あまりの簡素さに思わず聞き返すと、敷島はやれやれと首を振った。
「……だからさぁ」
からん、といつの間にか刀を抜かれた鞘が足元に転がる。目の前には剥き出しの刀を無造作に握った敷島。
……唐突に空気が変わる。
その豹変に少なからず覚えがあって反射的に斬月を引き抜いたが、その瞬間敷島の姿が視界から消える。
……いや、消えたと言うのは本当は正しくない。
消えたと錯覚するほどの速度で、敷島が接近してきて―――
「――試し斬りだ!」
この数日で培われた本能が敷島を迎撃する。迷いなく頸を狙って突き出された鋒を斬月で弾くが、すぐに振り下ろされ再び押し合いになった。
鋭い音を立て咬み合った刀同士の隙間を敷島の細腕が突き破ってくる。
身を退いて伸ばされる手を避けようとするが、俺の雑な回避行動よりも敷島の躊躇いのない腕の方が数段速い。
死覇装の胸倉を容赦なく掴まれ軽々押し倒された。強く背を打った衝撃で肺の空気を吐き出すと、俺の上に圧し掛かった敷島が顔を綻ばせるがお前、細っこい腕でなんつー怪力してんだ…!
いつの間にか左手に持ち替えた刀を逆手に握って振り下ろそうとするので、敷島を振り払おうと腕を振るう。
が、一度上体を反らしただけで軽々避けられてしまう。
俺は避けられずこうなっているのに敷島には避けられたという事実に、浦原さんと戦って多少芽生えつつあった自信みたいなものがガラガラと崩れていくのを感じた。
完全に"試し斬り"などでは断じてない爛々とした眼差しで刀を振り被る敷島に対して俺が出来る抵抗と言えば、あとはコミュニケーションくらいなものだ。
「おまっお前! 殺す気かァ!!」
「何言ってんだ黒崎。刀を抜くってことはどちらかが死ぬってことだろ。斬れば人は死ぬんだから」
「"試し"じゃなくなってんだよ! どうでもいいけど早く退け!」
俺の言葉など意にも留めず、眼前に迫った刃の鋒を見つめながら、この修行の日々の間に敷島も尸魂界に行くと聞いて心配していた自分を強くぶん殴りたくなった。
――あの心配は訂正しなければならない。
こんなに嬉々として人を斬ろうとする女の心配をしていたなんて、我ながら頭がおかしいにも程がある。心配するのならその鋒を向けられる自分に対してだ。
思えば、敷島が快不快の指標だけで生かすか殺すかを決めてしまえるような、易しすぎるルールの下で生きていることなんて、俺はあの日に嫌と言うほど識ったはずなのに。
「大体その刀どこで手に入れたんだよ……!」
「浦原にもらった。さっき」
「アンタの仕業か!!」
敷島の両腕を握って刀を押し返しながら俺達のやり取り(命がけ)を見守っている諸悪の根源に向かって怒鳴る。
「え〜黒崎サン、まさか敷島サンを丸腰で尸魂界に行かせるつもりだったんスかぁ? 女の子を? 丸腰で?」
「クッソがぁ……!」
「今まさに斬られようとしてるのに余所見なんて随分余裕なんだなぁ、黒崎はすごいなぁ」
「アッ待て敷島……敷島―――!!」
自らを『がらんどう』と評した敷島が笑っている。
多分息をしているだけでも生きていけたはずで、本当はそれだけでよかったはずなのに、目の前の敷島は刀の握り方を知っていて、持つ必要のなかった牙を研いでいる。
本来持たなくてもよかったはずの白く小さな手に与えられたそれは、どうやら敷島の心に光をもたらしたらしかった。
がらんどうに差し込むその光が良いものか悪いものかは、俺にはまだわからなかった。
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