あの夜の夏祭の匂いを覚えている

《井上視点の最後の夏休み》

 たつきちゃんと並ぶあたしの一歩先を、茶渡くんと並んで歩く睦月ちゃんをこっそり窺い見る。
 短い髪の片方を耳にかけ、修行のときとは少し違った感じの"教室にいる睦月ちゃんっぽい"イメージぴったりの淡い花柄のワンピースを着た睦月ちゃんが、至って普通の様子で歩いている。

 話しかけられて快く応えるときの微笑み。困っている誰かに当たり前に手を差し伸べる優しさ。
 いつでもしゃんと伸ばされたうつくしい背中。友達と喋るあたしを、おかしそうに見つめて笑う夜の澄んだ海の色の瞳。
 まだ出会って一か月やそこらの短い時間を共にしただけだったけれど、あたしのなかの睦月ちゃんの記憶は、どこをどう切り取ってみても美しい。

 でも――ああ。
 あたし、今ならわかる。

 窓際で太陽の光にきらきら溶けてしまいそうに微笑む睦月ちゃんのすべては綺麗だったけど、同時に底なしの空っぽだったっていうことを。



 初めて睦月ちゃんを見たのは、五月のはじめ。
 先生の横に並んで立っている睦月ちゃんを、なんだか瀟洒な絵本でも見ているような気持ちであたしは見ていた。
 小さな顔に桜色の唇。肌は淡雪みたいに白くて、太陽の光があたると透けてしまいそうなくらい。
 何よりあたしの目を惹いたのは、ガラス玉みたいな碧い目。
 実は御伽噺に出ていたのよって言われても信じちゃうなって思うくらい――現実感のない美しさ。

 でも、みんなが口々に『深窓の美少女』とか『お姫様みたい』って睦月ちゃんを褒め称えているのには、あれれと首を傾げたっけ。
 みんなの言う睦月ちゃんの評価は間違っていなかったけど、どれもあたしにはしっくりこなくて。
 確かに睦月ちゃんはお人形みたいに綺麗で、慈愛に満ちた表情でいつも微笑んでいたけど、たった一つ。
 きれいな碧の目だけが、こちらを見ているようで実は興味がなさそうに時々逸らされることを知っていたから。

「……まったく別人ってわけじゃないから、そんなに怖がるな」

 あたし、睦月ちゃんが綺麗なままでぶっきらぼうに喋ったのを見て、「ああやっぱり」って思ったんだ。
 びっくりしたけど、それ以上に安心したの。
 自分でもよくわからなかった小さな違和感が消えたようにしっくりきて、きっとこれが本当の睦月ちゃんなんだってわかった。
 今まで睦月ちゃんに感じていた漠然とした"作り物"の印象ですら正しいものだったんだ。

 

 茶渡くんと言葉を交わす睦月ちゃんの後ろ姿。
 いつも優しく微笑んでいる、学校ではほんのちょっぴり遠巻きにされている睦月ちゃんに、修行で時々はほんの少しだけ笑ってくれた睦月ちゃんが混ざり合った不思議な雰囲気。

 あたしは多分、睦月ちゃんのことをまだよくわかってなんていない。
 それだけはこの数日間で嫌っていうほどわかっていた。

 あたしたちには見えない喪失感にいつも囲まれていて、それに時折首を絞められて、睦月ちゃんの姿は蜃気楼のように揺らめく。
 日陰であたしたちをじっと見つめる瞳。
 何も思わず、何も語らず、ただそこにいるだけの、太陽に焼かれて焦げ付いた影みたいなかるさ。

 それをわかってあげることは、あたしにはまだできっこない。


* * *


「――きれい」

 空を見上げる睦月ちゃんが洩らした呟きを、打ち上がる花火の轟音のなかで鮮明に聞いていた。
 そっか、記憶がないって言ってたっけ。
 じゃあ睦月ちゃん、これが生まれて初めて見る花火、ってことになるのかな。

 そんなことを考えながらも、あたしは心の中で睦月ちゃんの呟き、…その意味を探っていた。
 色とりどりの光に鈍く照らされる白い横顔は、ただ初めて見る花火に心を打たれているという風ではなかったから。
 あたしより睦月ちゃんの近くにいた茶渡くんもそう感じたみたいで、……でもなんて声をかけたらいいかわからなかったみたいで、一言「そうだな」と言って頷いた。


 記憶がなくなるって、どんな感じなんだろう。


 例えばずっとずっと昔の、小さい頃の思い出とか、ついさっきまで考えていたはずなのに突然どこかに忘れ去ってしまった考え事とか。
 どんなに些細なものでも、自分の思う通りに思い出すことが出来ないとちょっと不安になる。
 心のあちこちに穴が開いてしまったみたいな、不安と恐怖と、どうしようもない淋しさが溢れ出すような。

 今の睦月ちゃんを形作るものはそれだ。
 だって彼女は自分が大事なことを忘れてしまったことさえ、わからなかっただろうから。
 だから睦月ちゃんを最初に形作ったのは不安と淋しさ。どうしてそう・・なのかもわからないまま、ひとりぼっちで。

 それは、とても悲しい。

「――ああ……」
「……敷島」
「……どうしてわたし、こんなにひとりなんだろう……」

 睦月ちゃんは音もなく、食い入るように空を見上げている。見開かれた目に花火が映り込んで一つ、また一つと消えていく。
 いつもは鋭い横顔が、今は夜空に溶けて消えてしまいそうなくらいおぼろだ。
 そのただならぬ様子に、あたしまで何だか物悲しいような、息苦しいような気持ちにさせられる。

 理由は沢山あったと思う。
 飾らず、繕わずに人とこんなに話すのは初めてだと自分で言っていた。きっとこんなに人が沢山いる場所に来たのも初めてだったろう。
 そもそも、まったく別の人間として生まれ直した睦月ちゃんは、ここ数週間であまりに多くの変化に晒されてきた。
 どんなに強く、……どんなに関心がない風を装っていても、彼女は人間だ。
 積み重なった小さな苦しさや淋しさが溢れたって不思議じゃない。


 本当は今にも崩れ落ちてしまいそうな表情で空を見上げる睦月ちゃんに駆け寄って、その薄い肩を抱いてあげたかった。でも同時に、そうすべきではないということも痛いくらいにわかっていた。
 今駆け寄ってしまったら、苦しいながらに睦月ちゃんが必死に押し隠していた胸の孔が、その空洞が、みんなに異変として知られてしまう。
 だからあたしも、茶渡くんだって、睦月ちゃんの背中を擦ってあげることも出来なくて、その場に立ち尽くしたままでいることしか出来ない。

 指先から力が抜けていくような泣き声にも似た呟きを憐れむのは、きっとこの数日間の間に僅かでもあたしたちに心を開いてくれた睦月ちゃんへの裏切り行為に他ならない。
 だからあたしも空を見上げた。
 開いては散っていく花火の光が、せめてこれ以上淋しい心を貫いてしまわないようにと祈りながら。


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