正しくなくても祈って

 朽木が消えた世界にも、当たり前だが朝はやってくる。

 そろそろ慣れてきた日常行動を一通り反復し、特に何か目新しいことが起こるわけでもなく通学路を行く人波を辿り、学校へ。
 自分の席に着いてからざっと教室を俯瞰する。わたしの席は一番後ろの窓際だから、簡単に教室のほとんどを眺めることができた。

 ――そして、すぐに愕然とする。
 実際この目で見るまではそこまで大事だとは感じていなかったけれど、朽木が"いた場所"にぴったり、余分なく収まっている見知らぬ誰かを見た途端、胸に空いた孔を否が応でも意識してしまう。
 ようやく実感が生まれ始めていた真新しい日々が、よく知りもしない奴らに音もなく横から掻っ攫われていったのだという実感。それはどうしようもない虚しさと、臓腑を焼くような怒りだ。

 けれどもわたしはこの虚無と怒りを消化する術を持たないので、そこら辺は一切おくびにも出さず一日を過ごした。
 夏休みの気配を間近に感じ、浮足立っているクラスメイトの声を躱し、居心地の悪くなった教室を後にする。
 夜一には「放課後に迎えに行く」と言われているから、大人しく帰って家の前で黒猫がやって来るのを待ち構えていようと思ったのだ。


 制服を脱いで私服に着替え、屋根の下に座り込んで人待ち(猫待ちか?)をするわたしの前に、やがて「待たせたの」と予定通り黒猫がやって来る。


 ――が。



「えーっ!? どこ行くのかと思ったら睦月ちゃんのお家だったんですか!? ってことは睦月ちゃんも行くの?」
「……井上、落ち着け。敷島が固まったまま動いてない」

 塀に背を凭れて立ち尽くすわたしの目の前には、喜色を前面に押し出して笑う井上と、その横で佇む茶渡。
 当然のようにやってきた夜一の後ろを歩いてきたクラスメイト二人の存在はどう頑張っても無視出来るものじゃない。何せわたしは彼女らが来ることを知らなかった。
 慌てて二人の手を引いて家からの死角になる塀の外側に隠れると、わたしが何をしているのか大体察しはついている、と言わんばかりの呆れた眼差しの黒猫を振り返った。

「説明が必要か?」
「詳しいことは後でもいい、とりあえず要点だけ確認しよう。井上と茶渡も行くのか? 尸魂界に、朽木を取り戻しに?」
「然様。誰もお主と黒崎だけとは言っとらんからの」
「……」

 いや、確かにそれはそうなんだけど。
 尸魂界の戦力は未知とは言え、わたしと黒崎の二人だけで朽木奪還が叶うとは考えにくいし。追加戦力はあって然るべきと言うか妥当と言うか。
 でも、それにしたって……。

「睦月ちゃん、なんかいつもとちょっと雰囲気違うような……?」
「ああ、まるで別人だ……」

 確かに出会ってから今まで敷島睦月はクラスメイトのことを苗字で呼び捨てたことなんて一度もなかった。ああそうさ、今のわたしは動揺しているから、そんな簡単なことすらも取り繕えなくなっている。
 でもこればっかりは十五歳の敷島睦月として生きるうえでは決して無下に出来ない問題だって言うのも確かだ。
 未成年の子供は、基本的に保護者の監督下から外れられないのだから。

 わたしの喋り方や佇まいが教室と百八十度違うことに多少なりとも驚き、ひそひそ話をする二人のうち、即決で井上の手を取った。
 茶渡ではいけない。男子生徒がいると解ったら、きっと許可が下りる可能性が比喩じゃなく消失してしまう。

「井上、ちょっと手伝え。わたしに話を合わせて頷いているだけでいい」
「えっえっ? 睦月ちゃん? どこ行くの!?」
「茶渡と夜一はここで待ってろ。出来るだけ家の中から見えないように」

 そう言い残して、何が何やらわからないと言った感じで呆けている茶渡と大人しく座っている夜一を置いて、井上を引き摺ったまま家に逆戻りした。
 玄関の扉を閉めると、大声で母を呼びつける。
 帰り道を途中まで共にする程度のクラスメイトの家に急に引き込まれた井上は見るからに困惑していたけれど、「適当でいいから調子を合わせて」と囁くとかろうじて頷いてくれた。

 ややあって母が顔を出し、わたしの隣にいる井上を見て「あら」と目を瞠った。

「どうしたの、今さっき出たばかりじゃないの? その子は? お友達?」
「伝え忘れたことがあったのを思い出して。旅行に行くんです。彼女、織姫ちゃんって言って、クラスメイト」
「ク、クラスメイトです!」

 何故だか胸を張って敬礼をした井上に、母はちょっとだけ戸惑ったようだったが「睦月と仲良くしてくれてありがとうね」と模範的な受け答えをする。

「織姫ちゃんと、あと数人……クラスの女子で夏休みの間、一週間くらい旅行に行く約束をしてて。今日はみんなと一緒に買い物に行く予定だったんです」
「あら、そうなの」
「ちょっと帰りが遅くなるかもしれないけど、連絡するから」
「わかった、行ってらっしゃい。織姫ちゃん、睦月のことよろしくね」
「あ……は、はい! お任せください!」

 淀みなく母が頷いたのを見届けると「じゃあ行ってきます」と会話を切り上げ、不自然ではない程度の早足で再び家を出た。

 過保護すぎる両親――と言うか一人娘の交友に厳しい母から外出、そして長期外泊の許可をもぎ取る為には男子の不介入、そしてわたし以外の証人が必要だったのだ。
 わたし一人であれば「心配だから」とか「まだ遠くに行かせるのは不安だから」とか言って旅行の嘘すら却下されかねなかったが、井上が隣にいてくれたおかげで「クラスメイト達との約束を破らせるのはいかがなものか」という良識的な思考が勝利した。
 そこら辺を考えると、やっぱり黒崎以外に女子の同行人がいなければわたしの出撃は詰んでいたんじゃないだろうか? 井上がいて本当に助かった。

 夜一達のもとへ戻って井上を解放すると、わたしを訝しむ井上と茶渡の視線は一層顕著になる。
 いよいよいたたまれなくなったので、観念して目を逸らした。

「無断で家を空けると捜索願を出されかねない家なんだ。理由付けが必要だった」
「……ってことは……」
「……やっぱり敷島も行くんだな、尸魂界に」

 頷くと、井上が喜色満面で「やったー!」と喜ぶ。何が「やったー!」なのかはわからないが、とりあえず拒否されなかっただけよしとしよう。
 茶渡は井上に両手を掴まれぶんぶん振られるわたしを見て静かに頷いているが、やっぱりわたしには二人のリアクションの理由がよくわからない。
 何だか居心地が悪くて眉を顰めると、足元で夜一が「朴念仁め」と笑った。




「さ、もたもたしている時間も惜しい。早速修行を――」

 あれよあれよと言う間に知らない場所に連れて来られ、先頭を歩いていた夜一が足を止め振り返る。

「――と、言いたいところじゃが、わしも鬼ではない。少し待ってやろう」
「あ?」「え?」「ム?」
「揃いも揃って阿呆面をするでないわ。お主ら、これから先同じ戦場へ赴く同士だと言うのに、今日会ったばかりのような余所余所しさ……見ておれぬと言っているのじゃ」

 夜一の容赦ない言葉に井上と茶渡が顔を見合わせる。
 余所余所しいと言うか、…回収されてから一言も話さないわたしをどう扱えばいいのかわからない、といった困惑の色が強い。

 そもそも数週間前教室にやって来たばかりのわたしと違って、二人は入学当初から同じクラスにいたのだから少なからず面識はあるはずだし、そうなるとわたしが一番部外者と言うか、外側に位置する人間になるわけで。
 どう考えても、わたしという想定外の異分子が混ざったがゆえの空気の堅さ。
 けれどわたしも素を晒して人と向き合うのは、ほとんど事故だった黒崎・朽木の二人以外に経験がない。
 結果的に、お互いがお互いにどう触れればいいかわからない、という感じで言葉に詰まってしまっていた。

「……えと、睦月ちゃんは……」
「……」

 夜一に促され、素直に井上がわたしの方を見る。
 井上が口をもごもご動かすのをわたしはただじっと見つめているが、心なしか井上の顔が徐々に強張っていくように見えた。
 井上がわたしに名指しで何かを言おうとしているから待っているのだけど、わたしは何か先んじて新しい話題を提供するべきなんだろうか? 井上が今必死に練り上げている何かを押し潰して? ……まずい、人との交流をほとんど浅いところで受け流してきた弊害が現れてしまっている。

「…………あは、あはは! なんか照れちゃうね! ……ええと、」
「敷島も戦うんだな」

 妙な動きをしながら狼狽え始めた井上を制して、それまで黙っていた茶渡が口を開く。
 大して興味もない世間話で様子を窺われるよりは、そうして本題から入ってくれる方がわたしも余計な気遣いをしなくていいのでありがたい。

「うん。朽木を取り戻す」
「そ、そっか……。あ、さっき…睦月ちゃんを迎えに行く前ね、石田くんにも声かけたんだけど、行かないって言われちゃって」
「そう」
「…………えっと、えっと……」
「目に見えて警戒心剥き出しにするでないわ、少しは会話の努力をせんか!」
「いてっ」

 おろおろする井上を見つめていたら、夜一にふくらはぎの辺りを容赦なく噛まれた。
 そうは言っても、人間歴の浅いわたしにこの状況対応は難易度が高すぎる。

 会話の努力と言われたって、わたしは別にあの教室の中に収まる関係以上の仲になるつもりはない。
 むしろ、本当のわたしを知る人間が増えれば増えるほど、日常の中で敷島睦月の振りをするのが難しくなっていってしまう。切り替えスイッチにバグが生じれば、わたしは生活が困難になるわけだし。
 黒崎と朽木に関してはもう事故だと思って割り切っているけれど、きっと目の前の二人ともこのひと夏――朽木日常を取り戻すまでの短い繋がりになるだろうし。
 だって言うのに、ここにわたしが容量を割くのはいかがなものか……。

 …と思うのだけど、目の前で気まずそうな、申し訳なさそうな表情で手を握る井上を見ていたら、何だかこっちが悪いことをしているような気になってしまう。
 肺の底からすべての空気を吐き出し尽くすような深い深い溜め息が洩れた。そして観念の意を込めて再び新鮮な空気を吸う。

「……今のわたしも敷島睦月。教室のは、…ああしてる方が生きるのに色々都合がいいから。……まったく別人ってわけじゃないから、そんなに怖がるな」
「こっ怖くなんかないよ、全然! ……ただちょっと、びっくりしちゃっただけなの」
「俺も、別に。随分印象が違うが、今の方がわかりやすくていい」

 教室の敷島は完璧すぎて逆に少し不気味だった、と零した茶渡に、井上が応えるように曖昧に笑った。

「今までの睦月ちゃんも友達だけど……今の睦月ちゃんのことも、あたしはきっと好きだと思う」
「え、いや、別に好きにならなくても――」
「睦月ちゃんも修行一緒ってわかってびっくりしたけど、すごい嬉しかった! 上手く言葉に出来なくてごめんね、でもあたし、もっと睦月ちゃんと仲良くなりたい!」

 食い気味な井上が前のめりになってわたしの両手を握った。
 すっかり驚いてしまって、わたしは井上が迫ってきた分だけ背中を反らして何とか距離を捻出する。

「だから、さっきお母さんに言ってた旅行も嘘にしないで、絶対みんなと一緒に行こうね!」

 井上が屈託なく笑う。
 そこには最早驚愕はなく、諦念も疑念も嫌悪もない。

 ――覚えのある眩暈に襲われた。それと同時に、胸の底から込み上げるどうしようもない可笑しさにも。
 黒崎と朽木と家で話した時にも同じむず痒さがあった。

 井上と茶渡は、二人と同じように、まるでそうすることが当然であるかのようにわたしを受け入れる、と言葉と態度で示してみせた。
 今まで直視も出来なかった遠い場所の温度がわたし自身に少しずつ沁み出し、緩やかに同化していくような感覚。
 それは胸の内を覗き込まれるような空虚も伴った温もりだったけれど、この可笑しさにもいい加減慣れてきた。

「……まったく、嫌になる。どうしてこうわたしの周りには聖人しかいないんだ」
「へ? せいじん?」

 自嘲気味に呟いて顔を逸らすと、足元の夜一だけがすべてを知っているような表情で笑う。

「別にこやつらが際立って聖人なわけではない。お主が拗らせすぎた天邪鬼なだけじゃ」
「天邪鬼って、誰が。わたしはこの上ないくらい正直に生きてるって言うのに」
「どの口が言うやら」

 夜一の口調があんまりに容赦ないので、それが一周回って心地よく、気付けばわたしもつられて笑みを浮かべていた。



「………なんかよくわかんないけど、睦月ちゃん、笑ってくれたね」
「そうだな」
「……頑張ろうね、茶渡くん」
「…そうだな」


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