序章 side F
◆夏のはじまり
火の神ライデンシャフトの威光が輝き始めた日、神殿では下町の洗礼式が行われていた。
神官であるフェルディナンドはいつもと同じように慣れた手付きで流れ作業のごとく子供たちの手をとってはメダルに血判を押し、領民の登録を済ませていく。そうして最後尾の者の小さな手をとった時、フェルディナンドは僅かに魔力の反発を感じて身構えた。
驚きを隠しつつ視線をゆっくり上げて見ると、目の前には紺色の髪をした幼子が顔を背けてプルプルと震えている。どうやら血判が苦手で目を背けているらしい。確認のため、軽く握りしめた手の平に少量の魔力を流してみると、やはり平民には無いはずの反発がみられる。それでいて身の内で小さな実が弾けたような違和感があり、思いがけず手元が狂って彼女の血液に触れてしまう。
その瞬間、彼はフェアドレンナの雷に打ち抜かれたような衝撃を覚え、激しく動揺したのだった。
血液が触れた時、ほんの一瞬だったが確かに浮かんだその印――望んでも得られぬ邂逅がまさか。その相手がこんなにも幼い平民の娘だというのか。
――あり得ない。
そう考えても心と体が否定する。本能が内側を暴れるように掻き乱す。胸のうち奥深くに隠していた、諦めていた感情までもが騒ぐ。どうにも抑えが効かず、己がそれを渇望し、ずっと待ち望んでいたことを知るのだった。
たった一人、自分を求め、必要としてくれる存在。自分を信じ、疎まず愛しんでくれる絶対的な存在。
光の女神のように暗闇や道筋を照らし、水の女神のごとく変化を与えて癒し、風の女神のように敵から守り、土の女神のような寛容さで己を包んで受け止めて、幸福を与えてくれる……そのような存在であると、なぜか確信している自分がいる。
――なんと素晴らしい。まさに奇跡だろう。
彼女は私のものであり、私の全ての女神なのだ。ならば私も己の全てをかけて守らなければならないだろう。
歓喜とともに力が漲ってくる。幼い頃からずっと耐え忍び、身を削るようにして生きてきた。父のため、兄のため、エーレンフェストのために尽くすことは、私の義務であり生きる意味であったのだが……ここにきてようやく、私は己のために生きる理由を見つけた。生きて良いのだと、小さな女神に知らされた。
神々に認められた対なる者。生涯の伴侶を守ることは、夫として当然の義務であり、彼女を守り慈しむことは、己にだけ許された特権なのである。
古の神話のなかにしか存在しないと思っていた。神の意志によって導かれるとあるのみで、探し方についての明確な記述は見つけられなかった。
それでも、そのような絆がある相手なら、私のような者でも受け入れてくれるのだろうかと、遠い昔に貴族院の書庫でふと考えたものだった。儚い夢だと知りながら。
その証として現れるという紋様が、まさか命の神の属性なるものだったことには驚きだが、神の意志を通じて魂ごと身を縛るような御力といい、生死を司る神であることからも、嫉妬深いエーヴィリーベの性質からも、当然のことかもしれぬ。
なにしろ出会ったばかりであるにもかかわらず、己はすでに執着めいたものを抱えているのだから。
集団のなかに戻っていく姿を目で追いながら、彼女の名はなんというのだろうかと考える。彼女の全てを知りたい。
平民ならば身食いということになるが、貴族の落とし胤という可能性もある。早急に調べなければ……あぁ、それより何よりも離れがたい。
フェルディナンドはかつてないほど俊敏に、彼女を取り込むための策を脳内で巡らせていた。
火の神ライデンシャフトの威光が輝き始めた日、神殿では下町の洗礼式が行われていた。
神官であるフェルディナンドはいつもと同じように慣れた手付きで流れ作業のごとく子供たちの手をとってはメダルに血判を押し、領民の登録を済ませていく。そうして最後尾の者の小さな手をとった時、フェルディナンドは僅かに魔力の反発を感じて身構えた。
驚きを隠しつつ視線をゆっくり上げて見ると、目の前には紺色の髪をした幼子が顔を背けてプルプルと震えている。どうやら血判が苦手で目を背けているらしい。確認のため、軽く握りしめた手の平に少量の魔力を流してみると、やはり平民には無いはずの反発がみられる。それでいて身の内で小さな実が弾けたような違和感があり、思いがけず手元が狂って彼女の血液に触れてしまう。
その瞬間、彼はフェアドレンナの雷に打ち抜かれたような衝撃を覚え、激しく動揺したのだった。
血液が触れた時、ほんの一瞬だったが確かに浮かんだその印――望んでも得られぬ邂逅がまさか。その相手がこんなにも幼い平民の娘だというのか。
――あり得ない。
そう考えても心と体が否定する。本能が内側を暴れるように掻き乱す。胸のうち奥深くに隠していた、諦めていた感情までもが騒ぐ。どうにも抑えが効かず、己がそれを渇望し、ずっと待ち望んでいたことを知るのだった。
たった一人、自分を求め、必要としてくれる存在。自分を信じ、疎まず愛しんでくれる絶対的な存在。
光の女神のように暗闇や道筋を照らし、水の女神のごとく変化を与えて癒し、風の女神のように敵から守り、土の女神のような寛容さで己を包んで受け止めて、幸福を与えてくれる……そのような存在であると、なぜか確信している自分がいる。
――なんと素晴らしい。まさに奇跡だろう。
彼女は私のものであり、私の全ての女神なのだ。ならば私も己の全てをかけて守らなければならないだろう。
歓喜とともに力が漲ってくる。幼い頃からずっと耐え忍び、身を削るようにして生きてきた。父のため、兄のため、エーレンフェストのために尽くすことは、私の義務であり生きる意味であったのだが……ここにきてようやく、私は己のために生きる理由を見つけた。生きて良いのだと、小さな女神に知らされた。
神々に認められた対なる者。生涯の伴侶を守ることは、夫として当然の義務であり、彼女を守り慈しむことは、己にだけ許された特権なのである。
古の神話のなかにしか存在しないと思っていた。神の意志によって導かれるとあるのみで、探し方についての明確な記述は見つけられなかった。
それでも、そのような絆がある相手なら、私のような者でも受け入れてくれるのだろうかと、遠い昔に貴族院の書庫でふと考えたものだった。儚い夢だと知りながら。
その証として現れるという紋様が、まさか命の神の属性なるものだったことには驚きだが、神の意志を通じて魂ごと身を縛るような御力といい、生死を司る神であることからも、嫉妬深いエーヴィリーベの性質からも、当然のことかもしれぬ。
なにしろ出会ったばかりであるにもかかわらず、己はすでに執着めいたものを抱えているのだから。
集団のなかに戻っていく姿を目で追いながら、彼女の名はなんというのだろうかと考える。彼女の全てを知りたい。
平民ならば身食いということになるが、貴族の落とし胤という可能性もある。早急に調べなければ……あぁ、それより何よりも離れがたい。
フェルディナンドはかつてないほど俊敏に、彼女を取り込むための策を脳内で巡らせていた。
2023/04/02