可愛い獣に咬まれる

 五条悟という男は、顔よし、家柄よし、実力よし、年収よし、性格は……まあ置いておいて、申し分ないパーフェクトガイとして呪術界では有名である。彼と直接関わったことのある術師や生徒からの扱いはひどいものであるが、彼を知らない人からはなかなかに人気を集めている。その証拠に、仕事で東京校を訪れる職員のほとんど(主に女性)が五条悟を見にやってくる。東京校の窓口担当である私は、週に2回ほど、その対応に追われるのだ。



「すいません、今日って五条さんはいらっしゃいますか?」



 かけられた声に顔を上げると、カウンターの向こうには補助監督だろうか、スーツ姿の女性が立っていた。溢れだしそうな胸はもうジャケットからはみ出てしまいそうで、思わずそちらを凝視してしまった。なんて柔らかそうなお胸。あの、と再びかけられる言葉に咳払いをして、慌てて予定表を確認する。いけない、いきなり胸を見るなんて失礼すぎる。



「五条先生でしたら、本日は急な任務のため不在で、」

「お疲れサマンサー!!」



 バン!と扉が勢いよく開く音と共に、今日はここにいないはずの五条悟が姿を現した。そのハイテンションな姿にきゃあっと目の前で上がる黄色い声に目もくれず、五条先生はこちらまでやってくるとハイこれお土産ねとカウンターの上に紙袋を乗せた。ピーナッツサブレ、千葉の定番土産だ。



「五条先生、今日は神奈川でもう一件あるはずでは?」

「あんなの恵に任せたよ。僕が行くほどじゃないしね」



 自分の任務をさらっと生徒に投げるのは本人曰く愛のムチらしいが、それならせめて予定の変更届を出してほしい。職員のスケジュールを管理するのも、私の仕事なのだ。毎回こうして勝手に任務を生徒に押し付けるものだから、五条悟はどこにいるのかという問い合わせが後を絶たない。振り回されるこっちの身にもなってほしい。



「ところで名前、今夜空いてる?」

「そんなことより、五条先生にお客様です」



 カウンターに身を乗り出して顔を近づけてくる五条先生を押し返して先ほど訪ねてきた女性を紹介すると、渋々と体を離した五条先生は「キミ誰?」と首を傾げてその女性の方を向いた。目が合っただけで嬉しそうに頬を染めた女性は恥ずかしそうに手をもじもじとさせ、上目遣いで五条先生を見つめる。可愛らしいその姿は私でも胸がときめいてしまうようだった。



「私、京都校で補助監督をしている佐々木と申します」



 ぺこりと頭を下げた拍子にシャツの隙間から美しい谷間が覗いて、思わず「おお」と声を上げてしまった。なんて立派な谷間、女である私でさえ見てしまうのだ、男の五条先生には最高のラッキーハプニングだろう。そう思って五条先生に目を向けると、一瞬谷間を見たようだったけれど、意外にもすぐに視線を逸らした。「佐々木さんね、どーも」と適当に挨拶を済ませると、あっという間に会話を切り上げて何事もなかったかのように私に向き直った。



「それで、今夜どう?」

「すみませんが、今日は用事があります」

「ええ〜どうせ一人で映画とかでしょ?」

「何で分かるんですか」

「だってデートに行くような相手なんていないだろ」



 馬鹿にするようなその言い方にムッとして「五条先生には関係ありません」と立ち上がる。もうすぐ夜蛾先生と打ち合わせの時間だし行かなければ。では私はこれで、と軽く会釈をして荷物をまとめる。その間にチャンスだと目を輝かせた佐々木さんは五条先生の腕を掴むと、男を落とす武器であろう大きな胸を彼の腕に寄せた。



「五条さん、よかったら今夜、私と食事に行きませんか?」



 語尾にハートがつきそうなほど甘い声を出した佐々木さんは、誘うように五条先生の胸に手を滑らせた。またか、と五条先生と彼を誘惑する女性という何度も見てきた光景にため息を吐いて、さっさと邪魔者は消えようとカウンターを出ると、長い腕が伸びてきて、気づけば私は五条先生に肩を抱かれていた。突然のことに抵抗することもできずにいると、五条先生はまるで恋人にでもするかのように私に身を寄せた。



「ごめんね。他の子とデートすると僕の名前が怒っちゃうからさ」

「はい?」

「それに、僕の時間はずぇ〜んぶ名前のものだから」



 だから他を当たって?と気持ち悪いくらいの笑みを張り付けた五条先生は、トドメと言わんばかりに私の頬に口づけた。違うんです佐々木さん、こんなの冗談です。それを見てわなわなと震えた佐々木さんは、私が弁明する前に失礼します、と悔しそうに顔を歪めて去っていった。可哀そうに、佐々木さん、涙目だったな。



「私、五条先生のものじゃないんですけど」



 佐々木さんの姿が見えなくなるのを確認してから五条先生の腕を振りほどくと、彼は「なんで離れちゃうの?」なんて不満そうに声を上げた。そういう軽薄な態度をとっているから生徒から尊敬されないんですよ、と思ったが面倒くさいので言わないでおく。相変わらずべたべたとくっついてくるこの人は、パーソナルスペースというものの存在を知らないらしい。



「佐々木さん、可愛かったじゃないですか。何で断ったんですか?」



 スタイルだって良かったのに、と単純な疑問を口にすると、五条先生は何を今さらと呆れた顔をした。思い切りため息を吐かれて、五条先生の指がするりと私の毛先をいじる。



「僕はナイスバディじゃない名前の方が好きだよ?」

「自分でも分かってるけど、五条先生に言われると腹立つな」



 頭の先からつま先まで舐めるように見られるのはさすがに居心地が悪い、というか、これはセクハラでは?いつものようにハイハイと適当にあしらうと、つまらなそうに口角を下げた五条先生は私を無理矢理壁まで追い詰めると、両手をついて私を腕の中に閉じ込めた。急に距離を詰められて息を飲むと、目の前でするりと目隠しが下ろされ、青い瞳と目が合った。



「僕はさ、本気で名前のこと好きなんだよね。君の時間は全部欲しいし、僕の時間だって全部あげるよ」



 彼の太くて男らしい指が私の目元をなぞって思わず俯くと、目を逸らすのは許さないとでも言うように顎を持ち上げられる。いつもは見上げるほど高い位置にある顔が目の前にあって、自然と頬が赤くなった。離してください、そう言いたいのに声が出なくて、浅く息を吐くので精一杯だ。「だからさ、」と呟く声は近くで鼓膜を震わせて、心臓がどくんと脈打つ。



「さっさと諦めて、僕のものになってよ」



 すっと端正な顔が近づいてきて咄嗟に目を閉じると、唇の端の方に柔らかいものが触れる感触がした。てっきり口にキスされるかと思ったのに。恐る恐る目を開けると、そこには「抵抗くらいしろよ」と少しだけ困ったように頬を染めた五条先生がいた。



タイトルは「溺れる覚悟」より


prev | index | next
[bookmark]



- ナノ -