蕩ける熱で私を溶かして

 朝起きた瞬間から、体に違和感はあった。熱いようなだるいような何とも言えない感覚に頭を抱えて、普段は開けない薬やら絆創膏やらが入った棚を開け、体温計を手に取った。それを脇に挟んでいる間に今日の予定を頭の中で繰り返して、ああ、今日は七海とデートに行く日だったな、とため息を吐いた。ピピッと小さな機械音を合図に脇から体温計を取り出すと、表示されている数字にやっぱりと頭を抱えた。すぐにスマホを手に取って七海に電話をかければ、彼は3コール目で電話に出た。



『もしもし』

「七海ごめん、今日行けなくなった」

『……理由を聞いても?』



 呪術師として働く私たちはなかなか休みが被ることがなく、デートをするのは貴重な時間だ。七海が怒るのも無理はない。それに今日は七海が以前から行きたがっていたパン屋さんに行く予定だったのに。



「風邪ひいちゃって。本当にごめん」




 今度埋め合わせするからと付け足したら、電話の向こうで大きな溜め息が聞こえた。姿は見えないのに不機嫌そうな七海が目の前にいるような気がして、申し訳なさから正座をして背筋を伸ばした。今度休みが合うのはいつだろう、と考えてみても発熱した頭ではスケジュールなんて浮かばない。

 このところ任務が立て込んでいて忙しかったせいだろうか。多少無理をしている自覚はあったけれど、それは他の呪術師も同じ。体調管理も大人として当然の責務なのに何をやっているんだか。七海にお説教をされるまでもなく反省していると、七海は「そっちに行きますから、それまで寝ててください」とだけ告げると電話を切った。待って、七海、家に来るって言った?慌てて部屋の中を見渡したが、とても男性をあげられる状況ではない。下着は干したままだし食器は洗ってないし、床にも物が散乱している。最後に掃除機をかけたのはいつだっけ。夜遅くに帰ってきて朝早く出る生活を繰り返していたから、片付ける気力もなくて全てを放置したままだ。これはまずい。七海が来るまでに片付けなければ。そう思って立ち上がった瞬間、ぐらりと大きく視界が傾いた。あ、やばい、これ本当にダメなやつだ。運悪くベッドではなく床に倒れた体は力が入らず、この状況を七海が見たら驚くだろうななんて頭の中では冷静に考えながら、私の意識は薄れていった。







 額にヒヤリと冷たい感触がする。頭をグラつかせていた熱がその冷たい何かに吸い込まれていくように、少しずつ意識が覚醒していった。体は柔らかいものに包まれていて、床特有の居心地の悪さは感じられない。一体何が、重たい瞼を開けば、見慣れた天井が目に入った。ついでに私の額に触れる大きな手のひらも。



「やっと起きましたか」



 私の額に触れていたのは、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた七海だった。死んでるかと思いましたよと言われ、自分が床に倒れていたことを思い出す。いつの間にかベッドの上にいるのは、七海が運んでくれたからだろう。ごめん、と自分の額を確認すると、肌触りのいい感触に冷えピタが貼られているとすぐに分かった。部屋の中に視線を向けると、倒れる前は散らかっていたはずの部屋は綺麗に片付けられている。それも七海がやってくれたのだろう。干したままの下着が律儀にそのままにされているのがまた彼らしい。テーブルの上にはお粥が入っているであろう一人分のお鍋と、いつも私が飲む解熱剤が置かれている。さすができる男だ。



「どうせ薬もごはんもまだでしょう」

「よく分かってるね」



 はあ、と大きくため息を吐いた七海は私に体温計を渡して、その間にお粥をよそってくれた。それを脇に挟むと、わずか数秒で電子音がなる。最近の体温計は昔に比べてだいぶ時短に繋がっていて、技術の進歩を感じた。取り出した体温計の表示は38.7度、朝よりも上がっている。こんなに高熱を出したのはいつぶりだろう。私の手元を覗き込んでさらに大きなため息をついた七海は、体温計を奪うと代わりにお茶碗とレンゲを差し出した。



「え、あーんってしてくれないの?」

「効率が悪いでしょう。さっさと食べて、薬を飲んで寝てください」

「ええー…」



 看病といえばお粥、お粥といえばあーんだろう。そんなことわざは七海の中にはないようで、有無を言わさずに押し付けられた。仕方なくお茶碗とレンゲを受け取って口に運ぶ。程よく冷めたお粥は優しい味わいで、多少調子の悪い胃でもなんなく受け入れることができた。朝から何も食べていなかったお腹が少しずつ満たされていく感覚は心地よくて、ほんのり眠気を誘ってくる。さっきまで寝ていたのに、やはり体調が万全ではないみたいだ。お粥を食べている間に洗い物をしてくれる七海の姿はまるでお母さんのようだ。その様子に隠れて笑ったつもりだったのに、背中に目でも付いているのか「笑ってないで早く食べてください」と言われた。

 お粥も食べ終え薬も飲んで、あとは寝るだけ。汗でびっしょりだった服を着替えてもう一度ベッドに潜り込めば、七海は傍に座って頭を撫でてくれた。いつもはさらっとしているのに、こういう時だけ甘やかしてくれるんだから七海はずるい。リズムよく往復する手の感触が気持ちよくて、次第に瞼が重くなっていく。意識の半分は夢の中、もう半分は七海の手に。そういえば今日は七海とパン屋さんに行く予定だったんだった。意外とパンにはこだわる彼が行きたがっていたお店だから、相当美味しいんだろう。一か月も前からしていた約束だから七海も楽しみにしていたはずなのに。



「ごめんね、パン屋さん行けなくて」



 うとうとと視界が微睡む中で謝れば、七海は優しく微笑んでくれた。「パン屋なんていつでも行けますよ」と響く声は低くて心地良く、さらに眠気を誘ってくる。七海の手と声って、どうしてこんなに落ち着くんだろう。昔からそうだった、年下のくせにどこか大人びていて、私なんかよりも落ち着いている。そのすべてが居心地がよくて、大好きなのだ。もう私は七海なしでは生きていけないかもしれない。



「早く元気になってください」



 あなたに触れられないのは、私も辛いので。意識が完全に沈んでいく途中で、切実な七海の声と、額に降ってくる柔らかな唇の感触がした。





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