夕焼けルフトクス

 机の上には、山積みの報告書。連日続いた任務は休む時間すら与えてもらえず、報告書はただ溜まるばかり。ようやく訪れたしばしの休みにそれらを片付けてしまおうと机に向かって、もうどれくらいの時間が経ったのだろう。気付けば電気すらついていない部屋は茜色に染まっていて、どこか寂しさすら感じさせる。チクタクと時間を刻む時計の音と、隣から聞こえるペンを走らせる音だけが響いて、私のため息はそこに混ざっていった。



「あーもう無理。終わんない。腱鞘炎になる」

「だからタブレットを借りなさいと言ったでしょう」

「なんかああいう電子機器ってどうも苦手で……」



 机に頬杖をついて隣の七海を見れば、彼は呆れたように溜め息を吐いて再びペンを動かす。珍しく私の手伝いを買って出てくれた七海は、「もうこんな時間か」と壁に張り付いた時計を見ては目頭を押さえた。報告書を書き始めてもう5時間ほど経っただろうか、よくもまあこんなにも溜められたものだ。ようやく半分ほどになった報告書を眺めながら凝り固まった背筋を伸ばす。溜めた本人が手を止めているというのに、真面目な七海はそのまま続きを書いていた。綺麗な字。彼の性格からして丁寧に書くのだろうとは思っていたけれど、あまりにも予想通りの綺麗な字はおかしくもあった。ふふ、と一人で笑みをこぼせば、さすがに手を止めた七海は私を見ると同じように背もたれに体を預けた。



「何一人で笑ってるんですか」

「いや、七海の字があんまりにも綺麗でさ」

「それのどこに笑う要素があると?」



 体を七海の方に向けて窓の外に視線をやると、見える景色はどこも赤く染まっていて綺麗だ。手前は少し青空を残して、奥は夜を思わせる深い青。まばらな雲はピンクやオレンジとカラフルで、まるで絵本の中に見る景色のようだ。土曜の今日は授業もないせいか、校庭には誰もいない。事務室や職員室にはそれなりの人がいるんだろうけど、この教室からはずいぶん離れている。ハリボテの塔や寺院は見慣れているはずなのに、夕焼けに染まるとどうしてこうも別の景色に見えるのか。目の前の七海もそうだ。いつも見ているはずなのに、今日はなんだか大人びて見える。いや、彼はもう立派な大人なのだけど。私の中ではやっぱりかわいい後輩で、その目線はなかなか変わらない。同じように私の方を向いて背もたれに肘をかけた七海は、足を組みなおして窓の外に視線を投げた。



「そろそろ切り上げましょう。このままではせっかくの休日が報告書だけで終わってしまう」



 この数分で少しだけ顔を出していた夕日も見えなくなって、だんだんと外が暗くなっていくのが分かる。もうあっという間に夜になってしまうのだろう。明日になればまた任務三昧で、また別の報告書が積みあがっていく。次の休みはいつだろうか、せめて今日見たいに1日で終わらない、なんてことにはならないといいけど。



「七海、ごはんでも食べに行こうよ」

「今からですか?」

「うん。ちょっとは休日らしいこと、したくない?」

「……まあ」

「手伝ってくれたお礼に奢るよ。何食べたい?」



 早々に散らかった机の上を片付けていつでも出られるよう準備をすると、七海は私を見て止まったまま、「じゃあ」と口を開いた。洋食か、和食か。彼が普段どういう料理を食べているのかは知らない。見た目はグルメそうだし、あんまり高いところじゃないといいんだけど。手を止めて七海と向き合えば、彼は少し悩んで、私をまっすぐに見つめて言った。



「名前さんの手料理が、食べたいです」



 思ってもいなかったリクエストに「え?」と間抜けな声が静かな部屋に響く。私の、手料理が、食べたいと七海が言った言葉を繰り返すと、彼はこくりと頷いて視線を反らした。少し照れたようなその反応になんだかこちらまでムズ痒くなって、すでに揃えられた報告書をトントンともう一度机に叩く。角はもう十分に揃っている。それでも、その手を止められなかった。



「えっと、じゃあ、家くる?」

「いいんですか?」

「え。うん、まあ、いいけど」



 目線を合わせないままに早口で答えると、七海は私に倣って帰り支度を始めた。自分が想像していたのとは違う展開に戸惑いながらも荷物を鞄に詰め込む。手料理か、私の手料理が食べたいなんて、七海も物好きだな。そういえば最近料理なんてしていなかったけれど、キッチンはどうなっていただろうか。散らかっていないといいけど。そもそも手料理って何を作ればいいんだろう。そんな考えを頭の中で巡らせていると、七海は荷物をまとめて再びこちらを向いた。



「自分から言っておいてこんなことを言うのもなんですが、もう少し危機感を持った方がいいのでは?」

「危機感って?」

「男性をそう簡単に家に招くな、ということです」

「やだな、誰でも家に上げるわけないじゃん。七海だからだよ」

「私は襲わないとでも?」

「だって、七海だし…」



 七海はそんなことしないでしょと笑い飛ばしたら、ぱしりと腕を掴まれて急に視界が真っ暗になった。バサバサと報告書が床に落ちる音、唇に感じる柔らかい感触、目の前には七海の顔。突然の出来事に固まっていると、七海は少しだけ体を離すと眼鏡を外してもう一度顔を寄せた。「目くらい、閉じてください」と耳のすぐ横で囁かれて、思わず目を瞑ると再び柔らかい感触が降ってくる。ちゅ、とわざと音を立てて離れた唇が熱い。ゆっくりと目を開けると、夕日のせいか頬を赤く染めた七海がいつもよりも熱い視線で私を見つめていた。



「私だって男です。それに、私は貴方のことが好きなので」



 す、と目じりを撫でられて、今まで固まっていた体がピクリと動く。呆然とする私の代わりに床に散らばった報告書を集めた七海は、「すみません、大丈夫ですか」と罰が悪そうに私を見つめた。大丈夫ですかって、そんなの大丈夫じゃないに決まってる。そんないつもの憎まれ口すらも出てこなくてただ口をパクパクと動かせば、七海はフッと笑みを零すともう一度私の頬に手を伸ばした。



「案外、可愛いところもあるんですね」

「案外は失礼じゃない…」

「キスひとつでこんなに真っ赤になるとは思いませんでした」

「これは、夕日のせいで」

「夕日なんて、もうとっくに沈んで外は真っ暗ですよ」



 七海の言葉に視線を窓の外に移せば、先程まで茜色に染まっていた空はもう深い青に包まれていて真っ暗だ。薄暗い部屋の中、廊下から漏れる明かりにほんのりと照らされた七海の目は至って真剣で、冗談やめてよ、なんて頭の中に浮かんだ言葉をごくりと飲み込む。もう帰り支度は済んでいる。それに七海は可愛い後輩だ。あとは席を立って、そろそろ行こうかと誘うだけ。それだけ、なのに。「家、行ってもいいんですね?」と再度確認する言葉にもう一度その意味を噛み締めては、途端に別人に見える彼に心臓が痛いくらいに跳ねた。私の手料理を振る舞って、その後は。その意味が分からないほど鈍感でもなければ子供でもない。七海の唇は思っていたよりも柔らかくて、温かかった。私を見つめる目は男らしくて熱い。その先で七海は、どんな表情を見せるのだろう。



「………いいよ」



 不安は少し、それを上回る期待と好奇心に勝てず、私はこくりと頷いた。





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