君がいるから、僕がいる

 純潔を表したかのような真っ白なドレスに身を包み、鏡に映る自分の姿を見つめる。女の子なら誰もが一度は憧れるこの姿なのに、まだ実感が湧かない。夢を見ているようなふわふわとした心地の中、動くたびにシルクの裾が揺れる。私はこれから、他の人の苗字を名乗って生きていく。プロポーズされた時のことを思い出すと、自然と口元が緩んで肩の力が抜けた。



「結婚おめでとう、名前」



 式が始まるにはまだ早い時間。控室に響くよく見知った声に振り返ると、結婚式に参加するには相応しくない、けれど見慣れた仕事着に身を包んだ男が立っていた。



「五条、先生…今日は来ないんじゃ、」

「うん、式には参加できないんだけど。おめでとうくらいは直接言ったほうがいいと思って」



 事前に出した招待状への返事は欠席。特級術師とは忙しいもので、元々割り当てられた任務だけでなく、他の術師が対応できなかった案件の処理にも向かう。だから彼が参加してくれるとは正直思ってもいなかったし、そんなものだと、どこか諦めていた。なのに彼は、今私の目の前に立っている。小さな小さな、真っ白な花束を持って。

 私のドレスを上から下まで見つめた五条先生は、「似合ってるね」と口元を綻ばせた。その表情に、昔のことがついこの前のことのように蘇ってくる。初めての学ランに身を包んだ私を、あの時もこうして褒めてくれたっけ。私は高専に入学したばかりで、そして彼は、まだ教壇に立ったばかりの新米教師だった、あの頃。もう大人になってお互い一人前の術師として働いているけれど、私にとっては、今でも尊敬する先生だ。



「そのお花、私に?」

「うん。名前が好きそうだったから」

「なんていうお花?」

「イベリスだよ」



 小ぶりな花束を受け取れば、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。小花が集まって一つの花房を作るその姿はまるでブーケのようで、すごく、綺麗。五条先生からお花をもらうなんて、なんだかすごく不思議な気分だ。



「ありがとう。嬉しい」



 今日は私の結婚式なのに、2人でこうしていると卒業式みたいだ。五条先生には本当にお世話になった。呪術師というものがなんなのか、一から教えてくれたのは五条先生だ。それに同級生が1人もいなかった私にとっては唯一のクラスメイトみたいなもので、高専時代の思い出も、ほとんどが五条先生で出来ている。そして、私に恋を教えてくれたのも、先生。ほとんど憧れに近い形だったけれど、異性を意識したのも、ドキドキしたのも、恋が楽しいものだって知ったのも、全部が初めての感覚だった。もちろん先生は私のことを教え子としてしか見ていなかったけど、それでもすごく貴重な経験だった。そのおかけで、私はこうして大人になって、素敵な人と出会って、このドレスを着ている。初恋は特別で、いつまでも色褪せることなくキラキラと胸の奥で輝いている。

 私はこれから、夫となる人と一緒に暮らすために京都へ行く。それに伴って、東京校を離れ京都校所属の術師になる。同じ呪術師であることに変わりはないし、五条先生は全国を飛び回ってあるから、会えなくなるわけではない。それでも、その頻度は少なくなるわけで。なんだか卒業の日よりも寂しく感じる。



「私、五条先生のことずっと好きだった。初恋だったの」



 初めて五条先生にもらった花束を見つめる。今日のドレスみたいに、真っ白で綺麗。本当はずっと伝えたかったけれど、最強の隣に並ぶ自信と覚悟なんてなくて言えなかった言葉。このまま隠しておこうとも思ったけど、なんだかずっと奥底に眠らせたままだと呪いに転じてしまいそうな気がして、呟いた。もう結婚するんだし、この気持ちも成仏させなくては。少しの緊張を乗せて五条先生を見つめれば、彼はふっと笑った。



「うん、知ってたよ」

「…なんだ、知ってたの?」

「あんな熱い視線で見つめられたら、誰だって気付くよ」

「気付いてて知らないふりしてたんだ」

「教え子に向かって、僕のこと好きだろなんて言う大人とかヤバイでしょ」



 ククッと喉の奥を震わせて笑った五条先生は、やっぱり子供に対する視線と同じものを私に向ける。それはそうだけど、と頬を膨らませると、より一層笑われた。そんなところも五条先生らしくて、おかげで私の初恋は明るい思い出として残りそうだ。

 いつもみたいに軽口を言い合っていると、控室の扉がトントンと叩かれた。扉の先から顔を覗かせたのは、五条先生の付き人のようになっている伊地知さん。これから任務でまたどこかへ行かなければならないらしい。式には参加出来ないけれど、忙しい合間を縫ってお祝いを言いに来てくれるなんて本当にどこまで生徒思いなんだろう。



「じゃあ、そろそろ行くよ。今日は本当におめでとう」

「こちらこそ、ありがとうございます。今日だけじゃなくて、今までも、いろんなこと教えてくれて」



 深々と頭を下げた私に、五条先生は「お幸せに」と微笑んだ。背中を向けて手を振る五条先生の後ろ姿を見つめて、すとんと肩の力が抜ける。今やっと、私の不器用だった初恋が思い出に変わった気がする。別にもやもやとしていたわけではないけれど、妙に胸の奥がすっきりとした。大好きだった。憧れだった。全部全部、綺麗だった。あの頃の何も知らない私にとって、何もかもが輝いていた。



「…大人になったんだなぁ」



 小さな独り言は、静かな部屋の隅に消えていく。もうすぐ式が始まる時間。試着の時しか見せていないこのウェディングドレス姿を見て、あの人はどんな顔をするだろうか。きっと綺麗だって言って、笑ってくれるんだろうな。ドキドキとは違う、ぽかぽかと胸が温かくなるような感覚が心地いい。恋ではない、もっと大切で愛しい感情。あの扉の向こうで、幸せが待っている。ドレスの裾を持ち上げて一歩踏み出せば、ドレスに合わせた真っ白なヒールがカツンと音を立てた。










 窓の外を流れる景色は次々と姿を変えていく。それでも透き通るような青空はどこまでも変わらず、ずっとそこにあり続けている。



「ドレス姿、綺麗でしたね」



 前を見つめたままハンドルを握る伊地知は、赤信号で車を停めると口を開いた。伊地知の言う通り、名前のウェディングドレス姿は、とても綺麗だった。ついこの前まで学ランを着て、僕の後ろを不安そうについてくるばかりだった彼女とは思えないくらい。あれから何年も経って、当たり前のことだけれど、彼女は大人になっていた。僕に可愛らしい恋をしていた名前はいつの間にか本物を見つけて、あっという間に僕を乗り越えて先へ行ってしまった。それが少し寂しくもあり、けれどもそれを見届けることができたのも教師の醍醐味とも言えるだろう。



「名前はさ、僕の初めての教え子なんだよね」



 僕には夢がある。その夢のために教鞭を取ったけれど、正直具体的に何をどうしたらいいかなんて分からなかった。全てが手探りで、本当に生徒が僕についてきてくれるのか半分は賭けだった。そんな時に僕の前に現れたのは、不安そうに教室の真ん中にぽつんと座る名前だった。彼女はこれから、一生徒でありながらも呪術師としていろんな悪意に触れて生きていく。普通の高校生ではきっと経験することのない、辛く厳しい現実が待っている。そんな彼女を、僕が守って、導いて、支えてあげなければならなかった。毎日が試行錯誤の連続で、どんな結果が待ち受けているかなんて想像もできなかったけれど。



「教え子第1号は、どうでしたか?」

「…うん、幸せそうだった。ちゃんと心の底から笑ってるって感じで」



 真っ白なドレスに包まれて、いつもみたいに無邪気に笑って、でもすごく綺麗で。わざわざ寄り道をしてまで会いに行くなんてどうかしてるとも思ったけど、ああ、僕は、この笑顔が見たかったんだって。呪術師になって、泣いてしまうことも多かった。誰かが死んで、仲間が死んで、自分の未熟さに打ちのめされて。辞めたいと、弱音を漏らしたこともあった。それでも彼女は今、一人前の呪術師として強くなって、仲間に囲まれて、世界一幸せそうな笑顔を見せている。僕は微力だったけれど、名前の青春の支えになることが出来たんだろうか。



「それは、良かったですね」



 いつもは震えている伊地知の声が、今日はやけに穏やかだ。雲はゆっくりと流れて、乱れることはない。僕の心も、珍しく凪いでいる。名前は僕にありがとうと言っていたけど、感謝するのは僕の方だ。名前には、たくさんのことを教えてもらった。人を導くことの難しさも、同じ場所を目指す心強さも、人に愛されることの心地よさも。初めてのことだらけで、毎日がドキドキして、新鮮で、確実に自分にとってはなくてはならない思い出だ。生徒を好きになる、なんて今までもこれから先もきっとないけれど、あの日々はある意味僕にとっても初恋みたいなものだった。思い出すと気恥ずかしいような、温かいような、大切な大切な思い出。



「僕まで幸せになっちゃったなぁ」



 別れ際に見た、花のような笑顔。僕が目指していたものがようやく形になった気がして、自然と口元が緩む。名前がひとつひとつを積み上げて大人になったように、僕も少しずつ、教師として成長していくんだろう。その実感を与えてくれたのは、紛れもなく名前だ。ありがとう、誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟いた僕を、青空だけが見つめていた。


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