スタートライン

「なんだよ、わざわざ呼び出して」



 もう何度も通った居酒屋の暖簾から顔を覗かせたゲンマは、カウンターに座る私の隣に腰掛けると早速ビールを頼んだ。もう結構な遅い時間だし明日も任務があるというのに、呼んだらすぐに来てくれてお酒まで付き合ってくれるのがゲンマらしい。つまみのメニューを広げながら頬杖をついたゲンマに、私は先に飲んでいた自分のお酒を流し込むと同じものをもう一杯頼んだ。



「別れたの」

「は?別れたって、あの一般人の男と?」

「そう。あの大通りで鍛冶屋やってるアイツと」

「付き合ってどんくらいだっけ」

「…二ヶ月、くらい」



 枝豆を一つ一つ丁寧に口に運びながらも、眉間に皺は寄ったまま。そう、今日ここにゲンマを呼び出したのは他でもない、私のやけ酒に付き合ってもらうためだ。つい先ほど別れたばかりのあいつのことを思い出すと胸がチクリと痛む。

 好きだったのか、そう聞かれてしまえば正直答えに困る。くのいちなんてやっていると忙しいし、危険だし、怖がられるし。任務に明け暮れていれば出会いも必然と少なくなるわけで。気づけは年齢だけを重ねて困っていたところを、あいつに声をかけられて、そのうち告白されて。もちろんそれなりに好きではあった。それでもやはり、一般人と忍とでは溝があるんだろう。いまいち心を開くこともできず、こうして独り身に逆戻りだ。



「もっと時間を作る努力をしてくれてもいいだろって。私、忍だよ?そんなの無理に決まってるじゃん」

「で、努力したわけ?」

「……してない、けどさあ」



 ゲンマに痛いところをつかれて、う、と喉から声が漏れる。確かに、私は彼と会う時間を作る努力はしなかった。忍だから仕方がない、その言葉に逃げていたし、甘えていた。そもそも時間を作ってまで彼と会いたかったのか、そんな疑問さえ湧いてくる。

 届いたビールに口をつけながら、ゲンマは呆れた顔をして私を見た。この顔は、私が失恋をするたびに何度も見てきた。私だって、自分が恋愛に向いていないことくらい自覚している。でもやっぱり恋人くらい欲しいと思うし、振られたらそれなりに悲しい。またかよ、なんて顔に浮かべるゲンマは、いくつかつまみを頼むと額当てを外した。



「そもそも、好きだったのかよ?」



 前髪をかき上げながらそう聞いたゲンマは、咥えていた千本を仕舞うともう一度グラスに手を伸ばす。今日はやけにペースが早い。それに倣って私も新しくもらったグラスに口をつけると、炭酸に混ざって仄かなアルコールの味が舌の上に広がった。お酒はあまり得意ではない。それでも何かと一緒にこの行き場のない気持ちを流し込まなければ、いつまで経っても消化できない気がして、こうしてお酒に頼るのだ。



「よく、分かんない」

「なんで好きでもない奴と付き合うんだよ」

「これから好きになるかもしれないじゃん」

「そこまでして恋人が欲しいか?」

「欲しいよ、そりゃあ。ゲンマだって人恋しくなったりするでしょう」

「俺は、好きなやつとしか付き合わねーよ」



 運ばれてきただし巻き卵に醤油をかけながら、ゲンマは横目で私を睨んだ。言われてみれば、ゲンマが女の人を連れて歩いてるところなんてもう長い間見ていない気がする。よく見れば割とかっこいいし仕事はできるし、くのいちの間でも人気らしいのに、最近はあまりそういう噂を聞かなかった。遊んでいそうに見えるけど、意外と真面目らしい。

 私だって好きな人と付き合えるのならそうしている。けれど、好きって一体なんなんだろう。ドキドキする?落ち着く?キスしたくなる?守りたくなる?どれも本の中でしか知らない感情で、実際に体験することはほとんどない。



「つーか、俺と飲む時間はあるのに、恋人に会う時間はないんだ?」

「そりゃ、ゲンマと飲んでる方が楽しいもん。気遣わないし、楽だし、話も合うし。私にとってはいっちばん大事な時間なの」

「ふうん」



 普段は見慣れない、髪を下ろしたゲンマが頬杖をついたまま私を見上げる。お酒に口をつけながら「何?」とゲンマを見ても、彼は「いや…」と言葉を濁すだけだった。いつもはズバズバとものを言うくせに、珍しく言葉を探しているゲンマに首を傾げる。追加で頼んだ唐揚げを口に運びながら視線を送っても、彼はただ私を見つめるだけだ。

 ちらりと時計を見上げれば、もうすぐ短い針がてっぺんを指す頃だ。今日はフラれた微妙な気持ちのまま1日が終わっちゃうなあなんて思っていたら、ゲンマはグラスの中身を飲み干すとこちらに体を向けた。



「俺、今日誕生日なんだよね」



 なんの脈絡もない突然の言葉に、「へ?」と間抜けな声が漏れる。たんじょうび。そういえばゲンマは確か夏生まれだった気もするけど、もうそんな時期だったか。年齢を重ねるほどに存在感が薄れていく誕生日。わざわざ祝うような年齢でもないし自分の誕生日も忘れるくらいだ、同僚の誕生日なんて覚えていなかった。



「ごめん、忘れてた。誕生日おめでとう」

「どーも。それより、俺欲しいものあるんだけど」

「えーなに?私の給料で買えるものにしてよ」



 去年も、一昨年も。多分みんなで飲んで祝ったくらいで、プレゼントなど碌にあげたことがない。そういえばゲンマは毎年律儀に私に何かしらプレゼントをくれてたっけ。そう考えると申し訳なくなってきて、私は自分の貯金額を思い返した。そんなに物欲があるタイプじゃないし、高価なものじゃないといいんだけど。



「お前、俺と付き合えよ」



 私の聞き間違い、だろうか。そういえばさっきからお店の中が騒がしい気もするし、お酒も回ってきているから幻聴でも聞こえたのかもしれない。



「え、なんて?」

「だから、誕生日プレゼント。俺と付き合えよ」

「誕生日プレゼントって…もうすぐ誕生日終わるよ?」

「ばか、今日限定なわけねえだろ。そうだな…とりあえず来年の誕生日まで。どう?」



 突然何を言い出すかと思えば。やっぱり酔ってるのかもしれないとお水を勢いよく流し込んで、もう一度ゲンマを見る。彼の様子はいつもと変わらない、ように見える。それでも私を見つめる瞳の奥に、ほんの僅かな熱が見える気がして、私は目をそらした。



「どうって。ゲンマは好きな人としか付き合わないんじゃなかったの?」

「だから、そういうことだろ」

「そういうことって?」



 彼の言わんとすることは分かっている。分かっていて、ちゃんとした言葉を引き出そうとする私はずるいんだろうか。

 じっとゲンマの瞳を見つめると、さっきとは打って変わって目を逸らされた。少しだけ色づいているように見えるその頬は、お酒のせいだろうか。



「だから、お前が好きだって言ってんの。人恋しいなら俺でもいいだろ」



 頬をかきながら仕舞っていた千本を再び咥えたゲンマは、もう一度私を見ると真剣な顔をした。最近のゲンマは、女の人を連れて歩かない。私の誕生日には毎年プレゼントをくれる。私が失恋したって呼び出せば絶対に来てくれるし、また恋人が出来るまでは飲みに付き合ってやるよって笑ってくれる。

 当たり前のことすぎて気づかなかったけれど、ゲンマはいつも私のそばにいてくれた。



「い、いきなりそんなこと言われても無理だよ!」

「なんで?」

「なんでって、ゲンマのこと、そういう風に見たことないし…」

「でも、これから好きになるかもしれない、だろ?」



 私がさっき口にした言葉を囁きながら、ゲンマは私の髪に指を通すとそのまま口元を寄せた。少し色の抜けた毛先にキスをされて、ボッと顔が熱くなるのが分かる。



「俺、好きにさせる自信あるんだけど」



 確かに、ゲンマは私のことをよく知っているし、同じ忍だから仕事に理解もあるし、何より一緒に過ごす時間を作りたいと思える。

 でも、でも、ゲンマってこんなに“男の人”だったっけ?

 ドキドキと心臓がうるさいくらいに鳴っている。さっきまで頭の中は嫌な記憶でいっぱいでモヤモヤとしていたのに、今は別の感情がぐるぐるとまわっている。こんな感情、初めてだ。



「返事は?早くしないと誕生日終わっちまうんだけど」



 有無を言わさない瞳に、私は頷くしかなかった。

 かちりと時計の針が鳴る。その音と共にゲンマの逞しい腕に引き寄せられて、私の新しい一年が幕を開けた。

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