夏が終わる

 ふと空を見上げたら、今日は雲一つない快晴だった。セミの声と葉の擦れる音が開けた窓の隙間から流れ込んできて、目を閉じると少し冷たくなった風に夏の終わりを感じる。この学校に来て、もう三度目の夏が終わろうとしている。それまでに積み上げてきた思い出が頭の中を過って、最近自分を悩ませている感情を必死に押し留めようとしていた。いつの間にか色彩を失った日常の中で、唯一私が落ち着けるのは、たった一人の同級生の前だけだった。



「夏油くん、花火とか興味ある?」

「一緒に見る人によるかな。どうして?」

「今週の土曜に河川敷で花火大会があるんだけど、よかったら一緒にどうかなって…」



 いつも遅刻ギリギリの悟と硝子がまだ来ていない教室で、静かな教室に名前の声が響いた。窓の外を眺めていた視線を名前に向けると、彼女は少し恥ずかしそうに俯いて、駅前に貼られていた花火大会のポスターの写真を見せて「きっと綺麗だよ」と笑う。そういえば、そういう世間のイベントにはなかなか参加できていなかったな。特に、この一年は。このところボーっとすることが増えた私を心配したのだろうか、名前は様子を伺うように私の顔を覗く。



「うん、楽しそうだね。行こうか」



 いつもの笑顔を見せてそう言えば、名前は嬉しそうに笑った。









数少ない同級生として三年間過ごしてきて、二人きりで出かけるのは初めてだった。河川敷の草むらに百円ショップで買った少し小さめのシートを敷いて、お祭り遊びもそこそこに花火が上がるのを並んで待つ。今日のために用意してくれたのか、名前は薄紅色の花が咲いた浴衣に身を包んでいた。いつもは下ろされている髪が小さなお団子を作り、ところどころ零れる後れ毛が色っぽい。お囃子の音やお祭りの喧噪も聞こえなくなるほど、名前の姿だけがくっきりと浮かんで見える。ずっと一緒にいた、特別な関係ではなかったけれど、それなりの想いをもって接してきた彼女が、今日は綺麗で、いつもより遠くに感じる。世間話に笑う横顔も、射的でとった小さなマスコットを撫でる指先も、動く度に揺れるその後れ毛も。夢を、見ているかのような心地だった。



「夏油くん、楽しんでくれてるみたいで良かった」

「ちゃんと楽しいよ。気を遣わせちゃった?」

「ううん、私も楽しい。ただ…最近元気がないみたいだったから」

「………そう、だね」



 いつからだろう、自分の根幹にあった“正義”が揺らぎ始めたのは。呪術師としてやるべきことを何の疑問も持たずに、時折同級生に説教を垂れるほどに信じて疑わなかった自分の中の確かにあった信念。たくさんの醜悪を目の当たりにして、少しずつ、少しずつ。真っ白なキャンバスに真っ黒なインクを垂らすように、侵食してくる感情。同じ呪術師として責務を全うする仲間を見て、死んでいく仲間を見て、いつからか枠の外にはみ出してしまった私。みんなで過ごしている希少な時間でさえ、私とみんなの間にある深い深い溝に戸惑うばかりだった。そんな私を、名前はよく見ていた。本音を話したことはないし、悩みがあるなんてことも打ち明けてはいない。それでも、彼女は私を見ていた。無理に聞くこともなく、ただ傍に寄り添っていた。



「本当はね、夏油くんとずっと前から行ってみたいって思ってたんだ、この花火大会」



 膝を抱えて下駄の鼻緒を撫でた名前の顔は、こちらからはよく見えない。それでも結われて露になった耳が真っ赤に染まっていて、なんとなくどんな顔をしているのか分かる。少し汗ばんだうなじまで染まって、思わず手を伸ばしそうになった。



「私、夏油くんと、もっと近づきたいっていうか、その―――」



 ドン、と胸の奥に響くような低音が聞こえて、わあっと回りから歓声が上がる。それにつられて顔を上げれば、雲のない夜空に黄金色の大輪が咲いていた。ひとつ、ふたつ。ドンと咲いて、パラパラと散るように消えていく姿に思わず見とれる。



「始まった、ね」



ふと隣を見ると、何かを言いかけていた名前も同じように空を見上げていた。大きな瞳に花火が反射してキラキラと光っている。少し開いた唇は途中食べたりんご飴のせいか赤く染まっていて、綺麗だ。会場にはたくさんの人が集まっているはずなのに、聞こえるのは花火の音と自分の心臓の鼓動だけ。パッと咲いて、散っていく。美しくも儚いその様子は、この何もない平和な日々との別れが近づいていることを予感させた。名前の隣は心地いい。それも長くは続かないと、なんとなくそんな気がした。



「夏油くん、すごく綺麗だね――…」



 花火を見上げる名前の視界を遮るように顔を寄せて、そっと唇を重ねる。同時に握った名前の左手が、ぴくりと揺れた。少しの間押し付けて、ゆっくりと離れる。名前は驚いて大きな瞳をより一層大きくさせて、私を見つめていた。キラキラ、キラキラ。名前の瞳の中で色とりどりの花火が光っては消えていく。



「―――――……」



 いつもより小さな声で名前に送った言葉は、たくさんの花火の音にかき消された。それが聞こえたのか聞こえなかったのかは分からないが、名前の瞳から大きな雫が零れて、頬を伝っていった。最後の花火が上がって、ほんのりと明るかった会場が暗く静まり返る。私の夏が、終わった。



企画サイト「僕らの夏は色褪せない」提出作品






prev | index | next
[bookmark]



- ナノ -