未遂のままではいられない

 私の世界には、音がない。それは生まれた時からで、今さら寂しいなんて思ったりはしない。けれど、セミはどんな声で鳴くのか、花火はどんな音がするのか、最近気になるものが増えた気がする。彼に、出会ってから。

 校舎の裏にある小さなお寺の階段。普段人の寄り付かないこの場所は、私と狗巻くんのお気に入り。この場所なら、誰かに会話を聞かれることもない。普段は隠している口元を寛げた狗巻くんは、ふうと息を吐いて先程買ったばかりのお茶を流し込んだ。




−−−今日は、暑いね。



 未だ拙い発音を喉の奥から絞り出せば、彼はすぐにこちらを向いて“そうだね”とゆっくり唇を動かした。呪言師である狗巻くんは普段語彙をおにぎりの具に限定しているらしいけれど、私の前ではありのままの言葉で話してくれる。私は、耳が聞こえないから。唇の動きを読まないと会話ができない私と、術式を発動しないように口元を隠す狗巻くんとでは、うまくコミュニケーションが取れなかった。そんな私たちを見かねた真希ちゃんからのアドバイスで、私たちはこうして二人きりの時間を定期的に作るようになった。まるで秘密会議のようなこの時間が、私は好きだ。



−−−最近どう?皆んなと話せるようになった?

−−−真希ちゃんはゆっくり話してくれるようになったよ。パンダくんはまだ難しいかなぁ。



 高専に転入してもうすぐ半年。同級生の子たちは耳の聞こえない私に最初は戸惑っていたけれど、私でも分かりやすいようにとゆっくり話してくれるようになった。それでもパンダくんだけは難しくて、というか人の言葉を喋っているというのも未だに信じられなくて、なかなか苦労している。大変だねと笑った狗巻くんは、よしよしと労るように私の頭を撫でた。それがどうにも恥ずかしくて目を逸らすと、まだ話し足りないのか狗巻くんはトントンと私の肩をつついた。



−−−もっと話してもいい?



 私の様子を確認するように首を傾げた狗巻くんにこくりと頷くと、彼は嬉しそうに笑ってつい最近あったことなどを話し始めた。

 いつだったか真希ちゃんが言っていた。「棘は普段誰とも話せないから、名前が居てくれて助かるよ。たくさん聞いてやって」って。いつもは何でもないような顔をしているけど、本当はもっと普通に話したいのかもしれない。私も、みんなが知らない、ありのままの姿でお喋りをする狗巻くんを見られるのは嬉しい。他の人よりもゆっくりとしたスピードで進む会話が、とても心地良かった。



−−−あ、名前、葉っぱついてる。

−−−え、どこ?



 ふいに狗巻くんの視線が私の頭で止まって、そう呟いた。さっき風が吹いた時についたのかな、と頭に手をやって葉っぱを探すけれど、それらしき物の感触はしない。どこだろうと必死に探していると、ふっと二人の距離が縮まって、狗巻くんの鎖骨が視界に入った。突然のことにドキドキと心臓が動いて、顔が熱くなる。ちらりと視線をあげたら、狗巻くんが葉っぱを指で摘んで“取れたよ”と笑っていた。いつもより近くにある狗巻くんの顔。吐息まで感じてしまうほどの距離にこくりと唾を飲み込むと、それに気づいた狗巻くんもぼっと頬を赤く染めた。誤魔化すように“今日はほんと暑いね”と言ってみたけれど、狗巻くんは私を見つめたまま何も言わない。なんだか彼の視線も熱い気がして思わず俯いたら、狗巻くんの少し冷たい手が私の頬に触れた。ぴくりと肩が揺れて、余計に頬が熱くなる。狗巻くん、と彼の名前を呼びたいのに、喉が乾いて声が出ない。どうしよう。どうしよう。恥ずかしくて心臓が口から出てしまいそう。どうしていいか分からずにぎゅっと目を瞑るとさらに距離が近付く気配がして、唇同士が触れ−−−−−−なかった。

 頬に触れていた手もいつの間にかなくなっていて、そっと目を開けると、狗巻くんは私ではなく階段の下の方を見て「しゃけ!」と叫んでいた。慌てて視線を追うと、階段の下ではいつから居たのか真希ちゃんとパンダくんが手を振っている。行こうか、と狗巻くんは立ち上がると私の手を引いて彼らと合流しようと歩き出した。

 びっくりした。キス、されるかと思った。ほっとしたような、少し残念なような、何とも表し難い感情が頭の中をぐるぐると回る。真希ちゃんとパンダくんは先程のやりとりは見ていなかったようで、早く行くぞと校舎へ向かって歩き出した。その背中について行きながら未だ騒がしい心臓を落ち着かせようと深呼吸をしたら、隣の狗巻くんがつんつんと私の袖を引っ張った。どうしたの、と顔を向けると、ちゅ、と唇に柔らかい感触がして、視界いっぱいに狗巻くんの顔が広がった。え、今、わたし、狗巻くんと。



−−−内緒だよ。



 ぽかんと立ち止まってしまった私に、狗巻くんはくすりと笑って口元のジッパーを上まであげた。その少し意地悪な表情に、静まりかけた心臓がまた速いリズムを刻み出した。





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