きみは女のこ

昨晩、とても些細なことで彼女と言い争ってしまった。小さな苛立ちだったものは、お互い口を閉ざす頃には大きな不満に変わってしまっていて。思ってもいないような、彼女を傷つける為だけの言葉も口をついて出てしまった、最悪なケンカをした。振り返れば、ここまで感情のままに相手の心に自分の心を振りかざすケンカを彼女としたのは初めてだった。幸か不幸かオレも彼女も自分自身のコントロールが他の人より少し上手くて、踏み込んではいけない場所も引き際も弁えているタイプだったから。彼女は最後にきつくオレを睨んで寝室に引っ込んだ。オレはそのままリビングのソファに身を沈めて、浅く不快な眠りについた。
後悔先に立たず。練習終わりに鍵を回した空っぽの部屋の入り口で立ち尽くし、呆然とする。
今朝早くに家を出た時には寝室のベッドに丸まった背が見えた。なにも話さなかったから、寝てるのか起きてるのか、無視されてるのかも分からない。彼女からの言葉の代わりに、冷蔵庫にぶら下がる小さなホワイトボードに書かれた一週間分の予定表で、大学の講義は昼からであるのを知る。アルバイトは休み。出かけの予定も今のところは空欄。であれば、自分より後に部屋を出た彼女が先に部屋に帰る。はずだった。

「名前」

彼女の名前を呼ぶ。今日はじめて声に出して呼んだ名前に返事はない。練習中はおろか今日一日開きもしなかった携帯電話をかぱりと開いたが、メールも電話の着信も来てはいなかった。じわじわ、鳩尾にたまっていく焦燥感。手のひらに汗がにじむのに足の指先は冷えていく。じりじりと、ひたひたと、取り返しのつかない気配が全身を舐め上げる。
彼女に、見放されたのではないか。

「なに、そんなところ立ってるの」
「っ!」
「うわ」

勢いよく振り返る。そこには彼女が立っていた。昨晩ぶりの彼女は片手にバイト先の紙袋を持ってオレの背後に佇んでいる。目が合って、すぐに逸らしたのに、再びオレを見上げる。

「そこ、立ってると中入れない」
「……ごめん」
「ん」

呆気なく口にしたごめんという言葉に彼女は小さく頷いて、体を横にずらしたオレの横を通り抜けてしまう。テーブルに紙袋を置いて椅子に座り、彼女は大きく息を吸った。

「……わたしも、ごめん」

眉間にこれでもかと皺を寄せてオレを見る……いや、半分睨む彼女の唇がそう告げるものだから、虚をつかれてまたその場から動けなくなってしまった。
いや、さっきのオレのごめんは入り口に立っててごめん。昨日のことを謝ったわけじゃなくて。オレはまだなにも謝れてなくて。

「店長からヘルプ入ってバイト行ってた。夕飯食べた?」
「まだ、だけど」
「サンドイッチ貰って来た」

玉子サンド好きでしょ、と紙袋からサンドイッチの入ったパックを取り出す彼女の向かいにどうにか座って、じっと黒い瞳を見つめる。少し、腫れてる。少し、赤い。

「昨日、」
「ごめん」

意を決して口を開いたにも関わらず彼女の硬い声音に遮られた。カタカタと、サンドイッチを持つ手が震えている。

「まだちょっと、昨日の一成のこと思い出すと……こわい………。ごめん、ごめんね」

ごめん。そう繰り返す彼女の両目に怯えが膜を張ってしたたり落ちる。ケンカというどこか角の丸い言葉を使えば聞こえがいいけれど、実際にオレと彼女がしたことは、見えない刃と刃を交互に突きさし合った暴力だ。男所帯で育ち加減を誤ったオレは、自分が想像するよりはるかに大きな恐怖を彼女に与えていたのだと、ここでようやく自分が何をしてしまったのか気づかされた。

「きらいになったんじゃないの。一成いつも私にやさしくしてくれてたんだって逆に、わかったから……。なのに、こわいとか……ほんとにごめん」
「あやまらなくていい、オレが悪かった」
「ちがう。それは絶対、ちがう」

彼女の震える指が玉子サンドから離れてこちらに向かう。オレはすこし躊躇って、同じようにおずおずと手をのばした。細い指。爪まで小さい。握りこんで力を入れたらあっさり壊れそうな繊細さに今頃たじろぐ。指先は触れ合わない。あと数センチの場所で見えない行き止まりに遮られる。
オレはどうしようもなく男の体で、きみはおそろしいほどに女の体だった。


はじめてのケンカだったから、仲直りの仕方も分からない。
なんの手立ても思いつかず、重い紙の辞書のページをペラペラと繰る。な、な……なか……なかな……あった。
【仲直り】仲が悪くなっていた人達が、もとのように仲よくなること。
仲が悪い。その言葉に胸がズンと重くなる。オレが知りたいのは仲直りの意味ではなく仲直りの仕方だが、最後の例文の一字一句まで読んだところで正解は紙の上に刷られていなかった。

「浮かない顔だな」
「………松本は今日も男前だピョン」
「なんだよ突然、気味悪い」

机にべたりと頬をのせてうな垂れるオレを人は遠巻きに見ていたが、声を掛けて来た人物がひとり。首をひねって見上げた先、唯一同じバスケ部から進学した松本稔の苦笑い。少し伸びた髪をかき上げる姿はそこそこ(あくまでそこそこ、だ)女子に人気で、鼻持ちならんとそっぽを向く。松本はオレの不貞腐れた態度にも慣れた様子で隣の椅子をひき、そこに座る。もう一度首をひねる。彼の愛用しているアウトドアブランドのリュックを眺めた。彼女がプレゼントしてくれた、なんてはにかんだ笑顔を思い出してしまい彼の幸福に向かってため息を吹きかける。
この男も、彼女とケンカをするのか。

「松本」
「ん?」
「ケンカしたピョン」
「誰と」
「彼女と」
「えっ」

松本のかたい尻がかたい座面から僅かに浮いた。この大学の椅子はどの教室も硬くて座り心地が悪く、意地でも生徒を寝かせないという学校側の無駄な気合を感じる。

「おまえが、おまえの彼女と?」
「オレが、オレの彼女と」
「おまえもケンカとかするんだな……」

自分が松本に抱いていた気持ちをそっくり返されて口元で笑ってしまった。

「ケンカらしいケンカは初めてした、しかもかなりトゲトゲしたやつ」
「マジか……だからそんな落ち込んでたんだな」

松本の表情が一気に同情の色に染まる。バスケも勉強も万能型、人も良く適度に冗談も通じる男の虚飾のない憐れみを受け入れ、オレは自身では持て余し取りこぼしてしまいそうな悩みを声に出した。

「仲直りの仕方がわからない、ピョン」
「仲直りの仕方って、ひとまず謝らなきゃ。謝ったんだろ?」
「謝った……といえば謝った、でも正しく受け取ってくれたかは微妙ピョン」
「難しいな。普段ケンカしない奴のケンカほど拗れるとは聞くけど、おまえまさにそのタイプか。まさかおまえ、それで政経の講義前に国語辞書開いてるのか?」

呆れたような表情の後、腕を組んだ松本は真剣な表情で眉を寄せ、貴重な昼休みを割いてオレの話を聞いてくれる。かいつまんで説明した事の次第を噛み砕き、考え、悩み、松本が出した答えは。

「もっとケンカすればいいんじゃないか?」
「は?」
「お互いに謝ったならもう仲直りはしてるようなもんだろ。二人に必要なのはもっと自分の感情とか気持ちとか、そういうのを見せることじゃないか?」

深津はさ、キャプテンとかいろいろ責任負う立場で自分を抑えるのが癖になっちまってるから。彼女もおまえと似たタイプみたいだし。二人でそういうの取っ払ってみたらどうだ? ……って、オレが言えた事じゃないか。

「自分の感情を見せる……ピョン……」



あれからバスケやバイトで彼女とすれ違う生活が続き、あっという間に五日も経っていた。
きつい練習を終えて這うように帰ったアパート。シャワーを浴びた記憶もおぼろなまま寝室に入る。小さくまるいシーツの山が見えたら、にわかに目の奥が熱くなった。
どう接して良いのか、どうやって触れたら良いのか分からなくなって。同じ部屋で暮らしてるのに不器用に遠ざけてしまっていた彼女の形に、ゆっくりと覆いかぶさる。体重をかけないようになけなしの力を手足に込めて、布団から覗く髪に額を寄せた。よく知ったシャンプーと石鹸の香りも、耳の裏の体温の香りも久しぶりで膝が折れそうになる。

「………かずなり?」

うすく瞼を開けた彼女の体がオレとの距離に瞬間、かたく強張った。
本当は今すぐにでも抱きしめて、謝って、許されたい衝動をぐっと堪える。
まずは。

「……起こしてごめん」
「ううん、さっき布団に入ったばっかりだよ」
「うそ、もうこんなに温かい」

布団越しにも感じる温もりが彼女の気遣いを暴く。オレはほんの少しだけ肘を曲げて彼女に近づいた。

「……かずなり?」
「こわがらせて、ごめん」
「だから、それはいいって」
「よくない。だってオレは、ナマエを怖がらせたくない。だけど、もっと近くにいきたい」

彼女の水っぽい寝起きの瞳が丸く開かれるのを、その虹彩の中心で見守った。肩の力を抜き彼女の隣にごろんと寝転がる。同じ視点で横並び、そっと、慎重に、薄い肩に布団越しに触れた。

「わがままでごめん。……これぐらいなら怖くない、ピョン?」
「……っふふ」

手のひらに伝わるくすぐったげな身じろぎに胸のつかえが融けていく。彼女がシーツを軽く引っ張るので一度ベッドから下りたら、内側へと手招かれた。初めて一緒に寝た時以上の緊張に支配されぎこちなく彼女の側に身を横たえたオレの手が、やわらかい手にくるまれた。

「もうこわくない。でも、今はまだちょっと驚いちゃうから、今日はここまででもいい?」

こくりと頷く。彼女はもう片方の手もオレの手に重ねて瞳を閉じた。

「今日はもう寝て、明日起きたらたくさん話そう」
「ああ」
「おやすみ、一成」
「おやすみピョン」