きらめきをなぞる指先で

「名前さん」

 同じ苗字、同じ家に暮らす、同じ指輪をつけた主人に名前を呼ばれ、私は皿を洗う手を止めてリビングに顔を向けた。

「どうしたの?」
「あれが見当たらないんだ……どこにやったか知らないか?」
「それなら、寝室のサイドテーブルの上に置いてあったよ」

 リビングの棚を上から順に開ける杏寿郎さんにそう答えてあげると、彼は昨夜の自分の行動を思い出し、すっきりした面持ちで寝室に歩いて行った。
 あれ、とは杏寿郎さんがお母さまから就職祝いに贈られたネクタイピンのことで、節目の行事や大きなイベントの際には必ず身に着ける彼のお守り代わり。トップに掘られた繊細な細工に義理の母のセンスの良さを感じるシルバーのピンは、私と杏寿郎さんが初めて出会った日にも着けていた。


 あの日。数年前の夜のこと。
 体調不良に残業の追い打ちを食らいふらふらとアパートに帰る私と、父兄参観日にぴしっとネクタイピンを決めた仕事帰りの杏寿郎さん。
 二人は偶然同じ地下鉄に乗って、隣の席に座った。私は青い顔で舟をこぎ、彼はそんな私の頭の重みを肩に感じながら自分の下車駅を通り過ごした。厚かましくも私は自分の下車する駅の直前で目を覚まし、見知らぬ人の肩を借りた状況に動転して謝り倒したのが、情けない出会い方。
 その後杏寿郎さんは当然のように私と同じ駅で降りた。何度も頭を下げる私に気にするな! と笑顔で返してくれて、一緒に地上に伸びる階段を上る。翌々日、私とはまったく違う駅から乗ってきた派手な髪の人を見つけ声をかけると、杏寿郎さんは少し期待していたようにはにかんだ。
「昨晩はあなたともう少し一緒にいたくて、ついうっかりあの駅で降りてしまった」
 その言葉で私に淡い期待を芽生えさせた彼が年下と知ったのは、それから少し後だった。


 明日は彼の勤める学校の入学式だから忘れないように自分でテーブルの上に置いていたのに。教師になって何年経とうと、杏寿郎さんにとって桜の季節は浮足立ってしまうようだ。
 この調子だと他にも忘れ物が増えるかもしれないと予想して、泡のついた食器をさっと水ですすぎ私もリビングに繰り出して行く。あたりをつけてさっきまで彼が開けていた引き出しを再び開ければ、忘れられたハンカチと腕時計を発見した。
 ほうらね、ネクタイピンを探すのに気をとられて、手に持っていたものを引き出しの中に置き忘れてる。

 結婚する時に瑠火さんに言われた「杏寿郎はそそっかしいところがあるから」の言葉は、夫婦になって暮らしを共にすることでこんな風に生活の中に表れるようになった。それってなんだか、杏寿郎さんが私に気を許してくれているみたいで、呆れるよりも嬉しさが勝る。
 くすくす、笑いを頬の内側に押し込めてハンカチと腕時計のセットをダイニングテーブルの目立つ場所に置いてあげた。廊下からパタパタと忙しないスリッパの音がする。
 急がなくても今日はいちだんと早起きをして時間に余裕があるのに。新しい生徒たちとの出会いを待ち焦がれる杏寿郎さんの心は逸ってしまう様子。

「名前さん」

 リビングに戻った杏寿郎さんの下がり眉を見て、とうとう抑えきれない笑みを唇に浮かべた私は黙ってテーブルの上を指さした。
 あれとか、それとか。言葉以上に杏寿郎さんの考えをくみ取る私のほほ笑みに、彼は腕時計をパッと右手首にはめて頬を赤くした。

「さすがだな名前さんは、ありがとう!」

 名前さん。
 彼が私を呼ぶ特別で丁寧な呼び名につられて私の頬も赤くふやけてしまう。

―― 母に「槇寿郎さん」と呼ばれる父があまりにも幸せな顔をするから、俺も将来、大切な人の名前を大切に呼びたいと子ども心に思ったのだ。

 お付き合いをはじめても頑なに「さん」をつけて呼ぶ杏寿郎さんに理由を尋ねた時の、あの表情。
 やわらかで、あたたかくて、でもちょっと照れた口端がぎこちない表情に、私の方が年上だから遠慮しているのかと不満に思っていた気持はをあっという間に吹き飛んだ。
 だって、ねえ? そんな話を聞かされた後に、これからも「名前さん」と呼んでいいか聞かれたら、そんなのもう遠回しにプロポーズされてるようなものじゃない?

「気をつけてね、杏寿郎さん」

 ハンカチは私から手渡してそろいの指輪が光る左手にしっかり握らせた。
 もちろん私も、あなたの名前を大切に呼んで。