おとなに成り下がる

「上手い言い訳があるのならば今のうちに聞かせてくれ」
「杏寿郎くん待って、お願い」
「待たん」

 帯の解かれた名前の着物を剥ぐのは容易い。布団の上に組み敷いた操を守るのは襦袢一枚になり、彼女は胸を大きく上下させて俺の両肩に爪を立てた。隊服の繊維がぎりぎりと皮膚を薄く削り取っていくじわじわとした痛みが走る。
 それを歯牙にもかけず上体を持ち上げようとした名前を左腕一本で布団に縫い付け、露出させた鎖骨に噛みつくと彼女は腰をよじって逃げようと試みる。
 詮無い抵抗だ。本部の厨に勤める一介の飯炊き女でしかない彼女の力などで害せる俺の体ではない。
 こんな爛れた初夜になるぐらいなら、いっそ、もっと早くに名前の全てを自分のものにしておくべきだった。

 大人になったら。柱になったら。亡き母に恥じない己に成ったら。
 名前を本当の意味で自分のものにしよう。

 彼女を大切にするあまり自身に科した枷のせいで見ず知らずの男につけられた白い首筋に咲いた鬱血痕。忌々しい。自分のものに泥を塗られた不快感で視界が暗んだ。
 大人になれば自身を苛む多くのものから解放され、何事も上手くいくと思っていた。幼き日のおぼろげな大人への期待が、俺と彼女の今を苦しめる。

「話を聞いて」
「俺の知らぬ君の話など聞きたくもない」

 俺から「言い訳を聞く」と述べておきながら素気無く名前の言を切り捨てると、気の強い彼女の眉根が寄る。
 ああ、気分が悪い。
 嫉妬の炎で焼け付く喉を唾液で無理やり潤しいつもの笑顔を用意する。
 日陰を感じさせぬ人徳者の光を前面に塗りたくって。

「君は、俺が好いた女の不貞を許すような寛容な男だと思っていたのか?」
「不貞じゃない、私はあの人に自分の何一つも許してない。あの人が無理やり……」

 無理やり侵そうとした。弱者を気取って名前の優しさに付け入り、不貞行為に及ぼうとした恥知らずな下の位の隊士。俺の目を盗んで彼女の働く厨に顔を出し、時間と心を消耗させた男。
 物音に気が付いた胡蝶が男を昏倒させなければ最悪の事態が引き起こされていたろう。任務を終えた俺が本部に戻った時点でその男は除籍処分となったが、残された名前と顔を合わせた今、俺は完全に冷静さを欠いていた。

「無理やり、私を捕まえて、触れてきた」

 ひゅっ、と、泣く直前の短い喘ぎが名前の口からこぼれた。しかし彼女は気丈にも奥歯を強く噛みしめそれをこらえる。こちらにも歯が軋む音が聞こえるぐらい強く。

「杏寿郎くんが今まで私を大切にしてくれたから。男の人の欲とか、気づかせないようにしてくれてたから、油断してたの……。男が本気を出したら私みたいな女じゃどうにも出来ないんだって分かってなかった。杏寿郎くんはいつだってこんな風に私を抑えつけられたのに、そうしなかった優しさに甘えてた」

 俺の肩に乗せられていた指が外され、彼女はその手を自らの首に持っていき憎々しい痕へと被せ、覆った。汚された皮膚を爪で掻きむしりこそぎ落として無かったことにしようとする。
 ぎりぎりと、噛みしめ軋む歯と赤く血を滲ませた傷の音が、名前の痛ましくも純真な態度が、嫉妬で狂った俺の神経に平常を取り戻させる。

「ごめん、杏寿郎くん。やっぱり杏寿郎くんの言う通り、私が悪いんだ。ごめん、ごめんね、ごめんなさい」

 左の手のひらの下、薄い肉づきの中に感じる細い骨まで震わせて謝罪を繰り返す名前。
 なんと弱々しい存在だろう。
 だから守ってきた。誰にも脅かされぬように、己自身からの欲からも、すべてのものから。
 それを今ここで俺が台無しにしてどうするのだ。
 今一番傷つき怯え、取り戻せないものを失いそうになっているのは俺ではないだろう。

「……すまない」

 呼吸を正し精神を正すのは柱である自分の得意とするところだ。大きく息を吸い込んで、細く長く肺から吐き出す。そうしてやっと真心を思い出した俺は名前を押さえつけていた腕をどかし、青白くなってしまった彼女の頬を指の背で撫でた。

「君はなにも悪くない、だというのに俺はひどいことをした。許してほしい」
「ちがう、杏寿郎くんは悪くない」
「いいや、俺は未熟さから自分を見失った」

 首を掻きむしる彼女の手に手を重ねてそっと握る。鬱血痕の上の皮膚が擦れて血のにじむそこに唇で優しく触れると一瞬名前の体が強張るが、目の前の男は煉獄杏寿郎だと分からせるように何度も名前を呼んで頭を撫でると、ゆっくりと力が抜けていった。
 握った手の内側でやわらかくほどけていく名前の拳が、やがて俺の手のひらと重ね合わされる。

「杏寿郎くん」

 ごめんね、ありがとう、大好きだよ。
 三つの言葉を繰り返し繰り返しつぶやいて泣きじゃくってしまった名前を胸に抱いて思う。
 大人になるということは、子どもの頃に想像していたよりも難しい。