おまえがいちばんかわいいよ


「相変わらず食べるの上手だね」
「おまえも相変わらずな食べ方してんなァ」
「だって焼き鳥って串持って食べると柄に近い方のお肉って食べづらいんだもん」

 片手で柄の部分を押さえもう片手に持った箸で焼き鳥の肉を一つずつ串から外しながら、名前は炭焼きで煙るカウンターの椅子に深く座り直す。焼き鳥の隣には中身が半分に減ったハイボールが並んでおり、彼女がこの店に来て間もないのが分かった。
 名前は左側を店の壁に、右側をつい十分ほど前に来た実弥に挟まれている。状況を見ればどう考えても一人で飲みに来たと分かるのに、会話を繋げようとした実弥の口からは分かりきった質問が転げた。

「一人か」
「うん、一人。いや、独り身かな」

 自ら独り身だと言い出した名前の声音に悲壮感は無い。
 思いがけず元交際相手の近況を聞いた実弥は自分でも気づかないうちに彼女の左手に目をやっていた。肌なじみの良いピンク色のネイルが施された細い指の根本は、実弥と名前が恋人という関係に収まっていた二年前と変わらずに空いたままだ。
 カウンター越しに運ばれてきたビールジョッキを受け取った実弥は心の中で安堵のため息をつき、すぐに「女の独り身を喜ぶ薄情な奴がいるか」と表情を険しくさせる。

「実弥は……わっおめでとう!」
「バカ、違ぇよ。これは外歩く時に声かけられないようにつけてるだけだ」
「付き合ってた時も私が離れて一人になった途端に女の子に声かけられてたもんね。色男は大変だあ」

 くすくす、笑い声を弾ませて名前は箸で掴んだ焼き鳥を口に運ぶ。
 一口食べて二度三度噛むと小さく頷く癖も、流れる髪を耳にかけると露わになる首筋の黒子も、元カレの結婚を手放しで喜べる竹を割ったような快活さも、全部あの頃のままだ。


 仕事終わりに偶然立ち寄った居酒屋だったが、実弥は名前の姿を見つけると驚きと共に吸い寄せられるようその隣に座ってしまっていた。他にいくらでも席は空いていたのに。
 喉の奥から絞り出した「よう」という声は真っすぐに名前に届いた。緊張を隠して椅子の背を引こうとした指先は空をきり何もない空間でこぶしを握る。気づいているのかいないのか判断の難しい上気した頬で実弥を振り返った名前は瞳を大きく開いた。驚きは短く、名前の瞳はすぐに実弥の心をくすぐる微笑みへと和らぐ。

「久しぶり、実弥」


 長い時間をかけて積み上げてきた二人の関係を終わらせたのは実弥の方からだった。
 お互いに会社勤めが始まり仕事とプライベートを行き来する足取りが重くなって、このままでは両方ダメにしてしまうと実弥が名前に別れを切り出した。名前は一時距離を置くのはどうかと提案したが、実弥はその言葉に首を縦に振ろうとはせず、名前は彼の前で泣いて泣いて、声を上げてもっと泣いて、最後に「分かった」と頷いたら後は風のように彼の前から消えた。電話番号やSNSのアカウントはそのままに、姿だけを鮮やかにくらませて。
 なのに彼女は自分を振った男にも笑顔を見せる。度量の違いを感じて実弥の肩がぐっと力んで、白いシャツに皺が寄った。

「女性避けに指輪してるってことは、今は彼女は募集してないの?」
「まぁな」
「私はついこの前別れたばっかだよ」
「そうかよ」

 どうでもいい風を装って傾けたジョッキで歪んだ名前の表情を窺う。焼き鳥を頬張り、頷いて、ハイボールの最後の一口を飲み干していた。気持ちの良い飲みっぷりだった。
 ふと、見覚えのないピアスが店の安い照明をやけに色濃く反射して見えて、実弥はガラスの粒に指を伸ばす。

「珍しくキラキラしたもん着けてんなァ」
「別れた彼からの贈り物、気に入ってるの」

 耳障りなフレーズに手の中の飾りがギリっと不穏な音をたてる。加減を間違えれば繊細なつくりのモチーフを砕きかねない圧に、終始にこやかだった名前もなにを頼もうか眺めていたメニュー表から顔を上げ、上半身を反らし実弥から距離を取る。

「ちょっとちょっと、気に入ってるって言ってるのに壊そうとしないで」
「俺がもっとイイもん選んでやる」
「誕生日なら半年先だから結構です」
「記念日なんて関係ねェよ、俺がおまえにやりたいんだ」
「実弥、まだ少ししか飲んでないのに酔った?お酒弱くなったの?」

 実弥はザルではないがアルコールに弱くもない、いたって素面だ。だから心配と困惑を半々に浮かべた名前の顔に自分の顔を少し寄せたのも、意図的なものだった。

 彼女と別れてからも連絡をしようと揺らいだことは何度もあった。
 生徒と上手く噛み合わずに仕事を終えドアノブを回して広がる殺風景な部屋を見た時、休日に予定もなくぶらついた街中で女性が好きそうな店を見つけた時、理由もなく隣に温もりを求めた時。どんな時も実弥の脳裏をよぎるのは名前のこの顔だった。

 実弥は手前勝手な苦しみから望んで名前に背を向けた。好きだ、別れたくないと泣いて引き留めたやわらかい手を拒んだ。あのまま彼女といたら自分の想いばかりが膨らんで、最後は仕事との板挟みで破裂し、修復できない関係にまで千々になってしまうと予感していたから。とうに二十を過ぎた大人の男が全くもって情けない事に、自身の破滅を危惧するほど、一人の女に夢中になってしまっていたから。

「なあ名前、おまえよォ今は一人つったなァ」
「そうだけど……」
「ならもうコレは必要ねぇな」

 それがどうしたと胡乱な目で見る名前の手元に、実弥は左の薬指から抜き取った指輪を乱暴に投げる。店の喧噪が遠のく二人の間でカツン、と高い音がした安物のそれは空になったハイボールのグラスにぶつかって回転を止めた。

「……それって期待してもいい、ってこと?」

 名前は鈍感な人間ではない。実弥の行動の意味をしっかりと読み取って、なお、言質をとろうと挑戦的に男の三白眼を見上げる。少し気の強い目じりの横で憎々しい輝きを放つピアスを再び弄って、実弥は彼女の耳の裏へと指を滑らせる。

「全部俺が悪い、言い訳もしねえ。それでも、やっぱり俺はおまえが好きだ」
「それで、実弥はどうしたい?」
「そうだなァ。今日は金曜日の夜だから、俺もおまえも問題無いだろ」
「……まだ別れた理由は納得してないからね」

 店に実弥が入って来た時に彼より早く存在に気が付いた名前は驚いた。相手は自分を振った男だ、こちらに気づいても声を掛けはしないだろう。心の中で唱えて、息を殺し店の壁に身を寄せた。
 そうやって二年間燻ぶり続けている気持ちに再び火が灯りそうになるのを必死で抑えていたのに、実弥の方から声を掛けて来たから。
 わざとらしい言葉で実弥を試した名前の目が湿気っぽくなる。

「これをくれた人、実弥よりも優しくて紳士だったんだから」

 らしくもない恨み言を吐きながらも、名前は実弥の手の上に自分の手を重ねてピアスを外す。

「それなのにこうやって実弥の言葉に喜んじゃうんだから、私も私だね」

 役目を終えた指輪の上に、名前は居場所を失ったピアスを落とした。