夜明けがつれてくる何かをずっと待ち続けている

「名前がふたりいるなあ! うむ、愛らしい顔が二つある、二倍愛らしい!」
「これは、あらまあ……」
「すみません名前さん、いつもなら煉獄さんもご自身の許容を越えることはないのですが……」
「ここ最近は任務で出ずっぱりでしたものね」

 名前は胡蝶しのぶの隣で喜色満面の笑みを浮かべながら自分を見上げる夫を見やり、頬に手をあてて眉を下げた。なかなか屋敷に戻らない杏寿郎を心配した妻の名前が店に来てみれば、この有り様である。彼の座る座布団のわきには空になった酒瓶が一つ、二つ、三つ……数えると目眩がしそうなぐらいの量が転がっていた。もちろん、煉獄一人で瓶を空にしたのではないにしろ、思い切った酒盛りだったのは想像に難くない。

 名前がこんなに酔っぱらった夫を見るのはずいぶんと久しぶりだった。大らかな人柄ではあるが規律には厳しく己にも厳しい煉獄杏寿郎も、神経をとがらせ夜ごと命の瀬戸際を渡り合う日々に疲れが溜まっていたらしい。へにゃりと唇を緩める煉獄の後ろには大の字に転がる大男……音柱の宇髄の姿も見える。これは相当に飲んで飲ませて、飲まされている。

「さあ、杏寿郎様。お水をいただいて、一緒に帰りましょうね」
「うむ、うむ!」
「それはお酒です。まったくもう、お水はこちら」
「うむ、うむ……」

 うむ、うむ。そればかり繰り返してさっぱり会話の成立しない煉獄は実年齢よりも幼く見えた。ぽやっと重たそうな瞼を下ろして、持ち上げて、また下ろすとそのまま開かなくなってしまう。名前に持たされた水の入った湯飲みの面が揺れて、こぼれかけたところで細い両手が煉獄の手の上に重ねられた。

「おおっと、すまない」

 戦いの時は覇気を表すつりがちな眉も、今は弱々しく下がり名前の手を借りて水を飲むのも覚束ない。湯飲みの底を抑えてやり、口からこぼさないようにと慎重に水を飲ませる名前はまんざらでもない気持ちと、どうやって屋敷まで帰ろうかという現実問題との狭間で思い悩んでいた。
 そんな妻の悩みも露知らず、煉獄は甲斐甲斐しく世話を焼かれる充足感からさらに頬をゆるめた。鬼殺隊にとどまらず市井にも名をはせる煉獄家に嫁いできてくれた名前に、煉獄は彼女の負担を増やさないようにと妻の前では立派な夫たろうと努めていた。
 その理性の砦も酒の前では崩れ去り、妻との蜜月を滅多に口にしない煉獄の惚気た様子を遠巻きに見つめ、継子の甘露寺などはつられて頬を染めている。

「少しは落ち着きましたか?」
「そうだなあ……」

 会話が成立しているのか図りかねる返事に名前は肩を落とした。この調子では、もうしばらく時間を置かないと彼を家に連れ帰れそうにない。義弟の千寿郎くんにもついてきてもらえば良かった……と後悔しても後の祭り。
 側にいた胡蝶にもう一杯新しい水を頼み再び振り向くと、名前の鼻先に煉獄のかわいた指先が触れた。その指は次に手のひらを広げ、名前のまるい頬にひたりと添う。体の端々にまで酒が回った煉獄の手はひどく熱かった。どくり、どくりと血液の巡りまで、触れ合う肌から聞こえてくる。

「こんな時間に名前をゆっくりと見つめるのは久方ぶりだ」
「杏寿郎様」
「夜はきみを一人にしてしまうから……この時間帯はいつも申し訳ない気持ちになる」
「それがあなたのお仕事ですもの、申し訳なくなんてありませんわ」
「だから今日は早く帰ろうと思ったのだが。いやなに、情けないが、妙に照れ臭くなってしまってな。つい酒ばかり飲んでしまった、ゆるしてくれ」

 きゃー! という甘露寺の身もだえる声が名前の耳にこだました。煉獄からただよう酒気と空気に飲み込まれ、ここには多くの人の目があるのを忘れていた。
 柱たちの存在を思い出し名前の顔がかっと赤くなる。幸いなのは、派手好きの音柱がまだ眠りの中にいることだった。起きていようものならば、嫌というほど二人を囃し立てたに違いない。
 恥ずかしいから止まってくれと念じて名前は煉獄の膝に手を置いて押したが、暖簾に腕押しであり、止まるどころか頬に触れていた親指がそっと彼女の下まぶたをなぞった。

 薄い皮膚から伝わる煉獄の温度がひりつほど熱くて、名前の喉が無意識に震えた。涙腺に直接触れるみたいに繊細な指づかいに名前の目から涙が出そうになる。体は熱いのに彼女を見つめる煉獄の目は凪いだ湖面のように静かだった。

「早く名前と二人で穏やかな夜明けを迎えたいものだな……そのためにも……」

 もっと多く鬼を倒さねば。
 かすれた煉獄の声は名前の耳元で細く消えた。
 前のめりに倒れた煉獄の分厚い体に耐えかねて後ろにひっくり返りそうな名前の背を側に駆け寄った甘露寺が支えて共倒れを防ぐ。力持ちの彼女は煉獄が名前を押しつぶさないように師の体を隣に寝かせた。
 燻ぶらせていた思いを解放して気が抜けた煉獄は健やかな寝息を立てて眠っている。

 頬の紅潮がおさまった名前の表情を甘露寺がそっと覗き見た。引いていく波が砂をさらうように、その場に満ちていた賑やかな空気も煉獄の言葉をきっかけに静まっていった。

 この場にいる誰もが、安らぎの夜を捧げて鬼と戦っている。
 愛する家族を、伴侶を、友を、仲間を守るために、永い夜明けを夢見て刀を振るってきた。
 煉獄の言葉は鬼殺隊に籍を置く皆の願いそのものだった。

「名前さん、大丈夫?」
「甘露寺さま?」
「泣いているわ」

 先に煉獄が触れた名前の瞼が涙でぬれていた。甘露寺はその涙をぬぐおうと手を伸ばして、しかして思いとどまり腕を下ろす。
 不謹慎だと分かりながら、甘露寺は自分の師を想って流れた涙を美しいと感じて、触れるのが恐れ多くなったのだ。
 だから甘露寺は流れる涙はそのままに、自分よりも薄い肩を抱き寄せて名前の背を剣だこのできた手でゆっくりあやす。

 せめて今夜だけは、師と彼女に優しい夜明けがやって来ますようにと願って。