星よ



 星がきれいな夜だった。
 ただ、それだけの夜だった。

 広い駐車場の出来るだけスーパーに近い場所に軽トラックを停めてあたりを見回す。夜七時を過ぎた秋田の屋外はひどく静かだ。いや、正確に言えば人の気配はなく密やかで、草むらに潜んだ虫やカエルの鳴き声は賑やか。そういういかにも田舎らしい夜である。
 私は母に頼まれた大きな弁当箱を携えて父の経営するスーパーへと歩いた。靴底が砂利を噛む音が遮るもののない空間にこだまする。これでも朝から夕にかけてはここら辺いったいの主婦や輸送トラックの運転手なんかで賑わうお店なのだが、夕飯の時刻を過ぎると客足はめっきり減ってしまう。にもかかわらず夜八時までの営業にこだわる父のせいで、大学の休みを利用して帰省した私は夕飯の煮物や焼き豚が詰められた弁当を届けるはめになっていた。
 顔のまわりを飛び交うこまかな虫を手で払ってため息をつく。実家を出てわざわざ仙台にある大学に進んだのだって、少しでもこの閉塞感から抜け出したい一心だった。東北の中では比較的拓けた地での生活に浮足立つ自分から見て、実家のこじんまりしたスーパーにはなんの魅力も感じない。一応の美点を上げるとするなら、遮るもののない視界に広がる人工の光が排された空と、散らばる星々がはっきりと見えることぐらいだ。それだって別に秋田以外でも見られるので、結局魅力なんてありはしない。

「あれ」

 店の入り口わきに置かれた公衆電話のそのまた隣に雑多に置かれた空のビールケース。ひっくり返されたその上に深く座り込む人影。
 白いティーシャツとジャージを着たその男の子は膝について交差した両手に額をのせ、がっちりした肩をゆるやかに上下させていた。うな垂れる頭はきれいに坊主に刈られている。
 正直、またかと思った。

「お兄さん、山王のバスケ部の子?」
「……っ!」

 座っているため正確な身長は分からないが、立ち上がれば自分よりはるかに大きいであろう男の子に問いかける。質問の形式をとったが、百パーセントに近い確証があった。なにせスーパーから車で十分少々走った場所には秋田で知らぬ人のいない有名校、山王工業高校のバスケ部が利用する合宿所がある。そしてそこは合宿に必要な生活用品や食材のほとんどをうちのスーパーで買ってくれる太客だった。
 全国で活躍する優秀なバスケ部故に合宿の厳しさも類を見ないようで、脱走してくる生徒も少なくなかった。一番近い駅に出るには必ずうちのスーパーの前を通らねばならず、そして、脱走にうってつけの夜に開いているお店なんてここぐらいだ。だいたいの部員がふらふらとうちに吸い込まれる。光に集う虫のように。私も何度か家族と一緒にその場面に遭遇した経験がある。こうして一人の時に出会うのは初めてだ。
 こんなもの悲しい姿は見ているだけで辛く切ないけれど、逃げ出してきた彼らがうちの店の前に佇む光景はある意味秋田特有の風物詩だった。
 私の声に驚いて跳ね上げられた顔に、思わずこちらが面食らってしまった。シャープな輪郭の真ん中をすっと通る鼻筋、疲れがにじんでいてもハッキリとした目元、声を飲み込んで横に結ばれた薄い唇。今まで出会った男の子の中で一番をあげてもいいぐらい顔立ちの整った子だった。

「山王バスケ部の子だよね?」
「…………」

 顔が整っている事と夜半にうろつく高校生を見逃す事は別問題なので、お節介と知りつつ私はもう一度、さっきより少しきつい声で尋ねる。彼はこちらの声音に警戒して眉をぎゅっと寄せてすぐに顔を背けた。大きな体に似合わない、でも、十代の少年らしいその素振り。
 とりあえず私も彼の隣のビールケースに腰を下ろした。荒い格子状の底がお尻に食い込む。

「ビールケースに直に座ると結構痛いよね。ここにずっと座ってるとお尻に痕ついちゃうよ」
「………吐くまでトレーニングやらされるより良いっす」
「えー、ほんと? お風呂場で人にこの痕見られる方がいやじゃない? 網で焼かれた焼肉みたくなってるよきっと」
「っぶ!」

 赤い痕のついた自分のお尻を想像したのか、彼がこらえ切れず噴き出した。投げやりになっていた表情に少し活気が戻る。これでなんの反応も無かったら問答無用で合宿所に電話しようと思っていたが、彼はまだ自分の足で立ち上がって歩けるような気がしたので、代わりに持っていた紙袋に入っていたおにぎりを一つ取り出した。

「お腹空いてたら食べて」
「………なんすか、これ」
「焼きおにぎり。私、ここのスーパーの娘なの。これ食べて一休みしたら合宿所まで送って行ってあげる」

 こぶし大のアルミホイルを訝し気に眺めていた彼の目が合宿所という言葉で再び翳る。例年脱走者が絶えないだけあって余程厳しい合宿なのだろう。自分も学生時代は運動部に所属していたが吐くまで練習した覚えはない。なので、下手な慰めの言葉も浮かばずにただじっと彼のくらい目を見ていた。
 しばしの沈黙の後、彼のお腹が間抜けにぐうと音をたてた。厳しいトレーニングにしごかれた体はエネルギーを求めてやまないのだろう。おにぎりからかすかに漂う焼いた味噌の香りも食欲を刺激するものだ。やせ我慢せず食べればいいのに初対面の私を警戒しているのか、プライドか、彼はこちらを見つめるだけで動かない。

「とりあえずおにぎり食べたら? 無理に合宿所に連れ戻すなんて言わないからさ」
「……こっちの人ってなんでこんなに簡単に人に食べ物あげるんですか」
「もしかして推薦でほかから来た子? んー、なんでだろうね。確かに田舎ってすぐに人に食べ物あげたがるね。やだな、わたし自分はそういう風になりたくないって思ってたのに」

 それで、食べるの? とかたい胸板におにぎりを押し付ける。この強引さ、近所のおばちゃんにそっくりだ。やだやだ、結局わたしも田舎者なんだ。
 こちらの自己嫌悪を誘発させた本人はそれに気づかず、右手を持ち上げておにぎりを掴んだ。わたしの手のひらからはみ出ていたおにぎりは、彼の手に渡ると小さく見える。恵まれた体。推薦で山王バスケ部に引き抜かれた才能。名前も知らない彼はずいぶんすごい人なのかもしれない。

「いただきます」
「はい、どうぞ」
「こっち来てはじめて味噌の焼きおにぎり食いました」
「焼きおにぎりは味噌でしょ、それ以外なにあんの」
「オレのとこでは醤油が当たり前でした」
「そうなの?」

 手の中のおにぎりを少しずつ齧る彼の言葉に相槌を打ちつつ、ガラス越しに見えた店内の父とアイコンタクトをとった。父も脱走部員には慣れているため、私が乗って来た軽トラを指さして頷いた。彼は小さくなるおにぎりを見下ろして話し続ける。

「オレ生まれてからずっとバスケやってて、てか、バスケしかしてなくて。中学校ではどいつもこいつも適当なプレイしてて、つまんなくて」
「うん」
「でもこっち来て、山王のバスケ部に入ったら生まれてはじめて、素直にすごいって思える選手がたくさんいて。楽しい、この人たちとバスケやりたいって思ったっつーか」
「うん」
「思ったのに……オレ、逃げて来た」
「……うん」
「これじゃあ……今までつまんねぇって思ってた奴らと同じじゃん……」

 ぼろっとまるいしずくが地面に落ちた。ぼた、ぼた、と後を追って透明なしずくが落ちる。ひたすらにバスケに向けられた心が流す涙の美しさ。わたしはなにも言わず空を見上げた。大小さまざまな星が光り輝いている。どこにでもある星空だ。でも、隣の彼が流す星のよう輝く涙はここにしかない、ひどく得難く純粋なものに思えた。

「どこまで行ったら逃げたことになるのかな」
「え?」
「合宿所に戻ったらそれは逃げたんじゃなくて、散歩とか、ランニングとかじゃない?」
「……ひっでぇ言い訳」

 最後の一口を大事に食べ、彼は赤い目じりでくしゃっと笑った。丸めたアルミホイルをジャージのポケットに突っ込んで立ち上がる。やっぱり、両足で立つ彼はわたしよりもはるかに大きい。前を向いた瞳は涙よりも明るく輝いている。

「飯、ありがとうございました」
「どういたしまして。ついでに、私の軽トラなら走って戻るより早く合宿所に戻れるよ」
「……お願いします」

 逡巡したものの彼は私の提案に頷いて深く頭を下げた。礼儀正しい彼に微笑んで助手席のカギを開ける。

「そういえば、君、名前は?」
「沢北です、沢北栄治」
「サワキタくんね。有名選手になったらこのエピソード、話してもいいよ」
「アハハハ!」

 シートベルトを締めた彼が……いや、沢北くんが口を開けて笑った。
 この時の私は知らなかった。数年後、本当にバスケ選手として大成した沢北くんが思い出話の一つにこの夜の出来事を雑誌の記事で語ることを。そして、その記事のタイトルが「沢北選手、年上の一般女性と結婚を発表」だということも。

 星がきれいな夜だった。
 ただ、それだけの夜だった。