あなたがおこるほど

 まず最初に言い訳をさせてもらうと、今日は本当に疲れていたのだ。
 三年に進級して早々の学力テスト。お世辞にも成績優秀といえない私はほほ連日徹夜して勉強し、最終日をヘロヘロの状態で終えた。そしてすぐさま所属するバスケ部の練習試合が幕を開ける。高校バスケットボール界に王者として君臨する山王工業バスケ部。今年はどんな選手が出そろったのか、スタメンはどういった選手構成で来るのか。王者の牙城を崩そうと目論み偵察も兼ねて多くの学校から試合の申し出が来る。選手に比べればマネージャーの私の仕事なんて大変だと泣き言を言えないけれど、疲れるものは疲れるのだ。
 しかも昨晩は大好きなラジオ番組のゲストがキョンキョンだった。そしてリスナー投稿のコーナーで私のハガキが選ばれて、キョンキョンに名前を呼んでもらえた。喜びのあまり十二時過ぎなのも忘れて部屋中を飛び回った私は完全に寝るタイミングを失い、両目の下に立派なクマを二頭も飼った状態で土曜の学校に這って来た。みんなに内緒で付き合っている深津には開口一番「ゾンビ」と呼ばれた。キョンキョンに自分の名前を読み上げられていなければ掴みかかっていただろう。キョンキョンに感謝しな深津。
 と、長い言い訳をしたところで私のやらかしはチャラにならないんだけれど。

「疲れたあ」

 備品の片づけを済ませ練習試合の熱気が冷めた体育館に戻る。対戦校は同じ東北の中でも古豪と呼ばれるチームだった。多少試合の立ち上がりに苦労したものの、うちの勝利で終わった。
 疲労で霞む目をこすって顔を上げると、堂本監督と一緒に反省会をしていたはずの九番のユニフォームが見えた。あれ、深津? なにか体育館に忘れたのかな。
 ふらふら。よろよろ。重たい体を引きずって大きな背中に忍び寄る。深津までの距離が一メートル以内に近づいたところで、私はその背に飛びついた。

「深津!」
「?!」

 不意打ちにも関わらずビクともしない体幹に感心した。試合スタートから終了までフル出場していたのに。
 他に誰もいないのを良い事に私はお腹に回した手にぎゅうっと力を入れて額を押し付けた。大きくてかたい大好きな背中に甘えすがる。

「今日もすっごいカッコよかったよ。お疲れ様、キャプテン」
「…………」
「ラスト五分の沢北へのパスきれっきれだったね」
「…………」
「深津?」

 一方的に喋りっぱなしの状況を奇妙に思い、抱き着いた両手はそのままにして顔を上げた。口数の多いタイプではない深津にしてもこの沈黙はおかしかった。見慣れた九番のユニフォーム。浮かせた両腕は何故か小刻みに震えている。高い場所にある坊主頭がサビついたブリキみたいにギギギと振り向い……て……。

「さっ沢北?!」
「ど……どーも、苗字さん……。深津さんじゃなくてサーセン……」

 私を見下ろすぱっちり二重の男は恋人の深津ではなく、一つ下の後輩の沢北だった。
 そうだ忘れてた。今年から九番ユニフォームを着るのは深津じゃなくて沢北になったんだ。深津の番号は……四番だ! 去年までずっと、深津が背負う九番を追っていたから間違えた!

「あの……これはその……」
「ええっと、苗字さんと深津さんって付き合ってるんデスカ……?」

 沢北に投げかけられた片言の質問に冷や汗が止まらない。やばい。どうしよう、バレた。周りに冷やかされるのはイヤだから黙っててとお願いしたのは私の方なのに、最悪の形で墓穴を掘ってしまった。
 人間、本当に驚くと指一本すら動かせなくなるらしい。疲れも相まって情報処理も運動神経の伝達も過去一番の大渋滞になっている。勘違いとはいえ後輩に後ろから抱き着く先輩。完全にセクハラの出来上がりだ。早く離れなければ。動け私の体。あるいは沢北が私を振りほどいてくれれば。

「白昼堂々浮気するなピョン」
「いっ?!」
「わーっ!」

 緊迫した空気を貫いたのは深津の声だった。ビックリして体育館の扉を見る。四番のユニフォームを着た深津が大股に近づいて来て、力ずくで私の体を沢北から引っぺがした。鋭い緊張感を漂わせた深津の視線が私と沢北に突き刺さる。かわいそうに、なにも悪くない沢北が涙目になりながら深津に頭を下げ始めた。

「なんかよく分かんねえけどスミマセン! 浮気じゃないです!」
「そうなの、むしろ私が勘違いして沢北にセクハラしちゃったの! ごめん沢北!」
「いやむしろオレは役得というか、先輩って結構やわらかかったというか」
「黙るピョン」

 ふざけた語尾がついて無かったら怖くて泣いてしまうぐらい感情が無い絶対零度の深津の声に心臓が縮み上がる。沢北はもはや半分本気で泣いていた。ごめん沢北。
 私の軽率なやらかしによって沢北に迷惑をかけ、深津を怒らせてしまった。昨日ちゃんと眠っていたら。後悔先に立たず。浮かれて夜更かしした昨日の自分を殴りたい。

「ごめんなさい。私がユニフォームの番号で沢北を深津と誤解して、部活中なのに抱き着いたりいろいろ言ったり。悪いのは全部私だから沢北のこと責めないで、深津」

 必死に頭を下げて謝る。深津からはなにも返ってこない。沢北の涙のメーターはいよいよ本気泣きに振りきれそうになっていた。

「沢北に抱き着いて何を言ったんだピョン」
「え?」
「ほら、同じようにやるピョン」

 やっと言葉を発してくれたと思った矢先、深津は両手を広げて試合中チームメイトを集めるようにくいっと上にしゃくった。つまり、さっき沢北にしたことを再現しろと。
 なんで?

「え、え?」
「早くしろピョン」

 有無を言わせぬ圧をたたえた深津の目はマジだった。非があるのは私の方なので逆らわずにおずおずと彼に手を伸ばし、止まる。

「沢北は背を向けてて、私は後ろから」
「面倒だから正面でいいピョン」

 沢北の前で正面から深津に抱き着くって、もうそれは別な意味で沢北へのセクハラなんじゃないのか。沢北はいったいなにを見せられてるんだ。至極当然の考えが頭をよぎる。でも深津一成という男、やれと言ったら相手が実行するまで諦めない。付き合う中でそう分からせられてしまった。
 ええい、ままよ。覚悟を決めて私は次こそ本物の深津に正面から飛びついて背中を抱いた。大きな体はとうてい私の両腕にはおさまらない。彼の手がしれっと私の背に回される。ええ、沢北はそんな事しなかった……とは言えるハズも無く。
 大きく息を吸い込んで一思いに言葉を吐き出した。

「今日もすごいカッコよかったよお疲れキャプテン沢北へのパスきれきれだったね」

 言い終えてしばらく、深津も沢北も沈黙。もちろん私も沈黙している。
 深津は私にこんな事をさせて何がしたいのだろう。自分からお願いした約束を破った罰? しかえし? もうやだ、疲れた。眠い。熱い。恥ずかしい。頭が真っ白になってうまく考えをまとめられない。
 どさくさに紛れて私のうなじのおくれ毛をクルクル指で弄りながらやっと深津が口を開いた。

「という事だピョン」
「なにがスか?!」
「苗字はオレの彼女だって事だピョン」

 わざわざ宣言する深津を止めたい気持ちごと閉じ込めてしまう広い胸に額を寄せて、沢北に悪いと思いつつ私はだんまりを続けた。その後深津は混乱している私を置き去りにし沢北と二言三言話して、彼を体育館から追い出した。
 体育館には正真正銘、私と深津の二人きりになる。彼はまだ怒ってるのか。呆れてるのか。不安に苛まれ目頭が潤む。白いユニフォームが汗とは異なるしずくを吸って色を変えた。
 ほんとうに浮気なんかじゃないんだよ。私が好きなのは深津だけだよ。伝えたいのに言葉が喉に引っかかってうまく出てこない。

「深津……あのっ」
「苗字が疲れてたことも、いつも九番のユニフォームを目で追ってるのも分かってたピョン」
「うん」
「体のことも沢北のことも、あんま心配かけるなピョン」
「ごめん」
「次はないベシ」

 ゾンビだなんだと言ってたけど心配してくれてたんだ。だから体育館に戻って来てくれたのかな。語尾がうっかりベシになってしまったのは、沢北に嫉妬しているからなのかな。調子のいい私は彼のお説教にすら喜んで涙は胸の奥に戻っていった。

「次から気を付けます、キャプテン」
「ピョン」
「あのね、私が好きなのはちゃんと深津だからね」
「当たり前ピョン。浮気はゆるさないピョン」

 私を抱きしめる深津の手はなかなか離れなかった。あんまり長くこうしていると他の部員にも見られてしまうのだけれども、今はしばらくこうしてほしい。深津のあやすような手の仕草が心地よくて眠くなる。
 その後、沢北にバレた時点で私と深津の関係がみんなに知れ渡ってしまうという事実に、明日の私は頭を悩ませるのだった。