彼について、B面



 秋田の冬はよく冷える。陽が沈むのも早く、バスケ部が練習を終えて体育館を出る頃、澄んだ空には遠く星が輝いていた。吐く息は白くにごり、鼻や耳は赤くかじかむ。もうじき雪も降るだろう。本格的な冬はすぐそこまで近づいていた。

「あー、さみぃ……」
「天気予報ぐらい見ろベシ」

 校門を抜けてすぐ、わいわい騒ぎ立てて目立つ集団を発見し、私の足はそちらに向けて小走りに駆け出した。

「そのベシって使い方あってるすんか? ……ぶぇくしっ!」
「風邪になってもオレらに移すんじゃねえぞ」
「河田さんひどい! うっわ、先輩達がいなくなると風よけが無くなってもっと寒い」
「いつまでもシティボーイを気取ってるからだベシ」

 運動で得た熱を少しでも逃がさないよう部員のみんなが各々マフラーやダウンの防寒具を着込む中、薄い上着を一枚引っ掛けただけの沢北が大きなくしゃみをする。すると、みんなは強豪との試合もかくやという機敏な動きで沢北から離れた。
 分厚い筋肉で出来た人間の風よけを失った途端、容赦ない寒風が沢北を襲う。彼の実家がある関東での暮らしが抜けないのか、はたまた単純に外の気温など頭にないのか。
 東北の冬をあなどっていた沢北の薄着を見てため息をつく深津の隣に並び、首をうんと持ち上げて彼を見上げた。河田兄弟が大きくて勘違いしそうになるけれど、深津も充分背が高い。彼は私の気配を感じてすぐに膝を軽く曲げて私の声を拾いやすい距離まで近づいてくれたので声を張り上げる必要がなくなった。

「深津、職員室に鍵返してきたよ」
「おつかれ、ベシ」
「あはは、どういたしましてベシ」

 深津の口癖を真似してみる。彼はからかう私を怒りも笑いもせず、いつもの凪いだ表情のまま小さく肩をすくめた。表情の変化は乏しいのに意外と感情表現は豊かだと気が対いたのは、同じクラスになってからだ。
 そのまま深津と明日の部活について話そうとしたのだが、背の高い面々にうもれるように立つ私を見つけた沢北が助けを求めるように走ってきた。彼の長い足は三歩で私のすぐ横に辿り着いてしまう。

「苗字さん助けてくださいよー、オレ寒くて死にそう!」
「そんな薄いの一枚じゃ寒いに決まってるよ。マフラーは?」
「こんなに寒いと思わなくて持ってないっす……。十二月前なのに寒すぎません?」
「おまえ今からそんな事抜かしてたらこの先やっていけねえぞ。秋田の雪をなめんな」
「寮生は毎朝の雪かきもあるベシ」
「雪かき? マジで?!」

 河田と深津のおどしという名の真実に沢北がおののいた。生まれも育ちも秋田の私からしたら当たり前の日常すぎて雪かきなんて驚くことじゃない。沢北って本当にシティボーイだなと思いながらも、赤くかじかんだ指が痛々しくて私は自分のダウンのポケットに手を入れ中身をまさぐった。

「ちぇっ、朝起きた時はここまで寒くなかったのに」
「日が出てくる朝より日が落ちる夜の方が寒いに決まってるのに。沢北はばかだなぁ」

 なぜか沢北は私の投げかける「ばか」という言葉にはまんざらでもない顔をする。いよいよ寒くて正気を保てないのかもしれないと余計に心配になった。この前のテストも追試が三つもあって監督に叱られていた。体はもちろん頭の方も大事にしてほしい。

「沢北、ココアは好き?」
「うーん、フツー」
「あっそ」

 鼻や耳まで真っ赤にしているくせして口を開けば生意気ばっかりの沢北をそれでもついつい構ってしまう。他のみんなと同じだった。どうしてか、ほっておけない。弟がいたらこんな感じなのだろうか。
 指先にあたる硬い感触を引っ張り出す。温かいそれを太もものあたりから山なりに放り投げた。缶は放物線の頂点で一瞬きらりと街灯を反射して、見事に両手を出して構えていた沢北の手のひらにおさまった。私のナイスコントロールを誰も褒めてくれる気配が無いので自画自賛をする。

「ナイッシュー」
「自分で言うなよ」
「じゃあ松本が代わりに言ってよ」
「なんすかコレ、もらっていいの?」
「ここから寮まで歩きでしょ、それで少しはあたたまりな。私はすぐバス乗るから」
「苗字さん……!」
「………」

 深津がもの言いたげに私を見下ろす。知らんぷりして沢北やみんなに手を振ってバス停へ歩き出した。五歩ぐらい歩いたところで不意に振り返る。沢北はまだ大きく手を振っていた。こういうところが可愛いんだよなあ。




「苗字」

 つむじのあたりに響いた静かな声に後ろを向く。思ったよりすぐ近く、寄り添うような距離に深津が立っていた。さっきと同じく何か意図を含んだ黒い両目が私に降り注ぐ。逃げるように彼から一歩離れてバス停の柱に肩を寄せた。
 冷えてきた両手を胸の前で握り合わせる。ここのバス停はベンチも屋根もなくて嫌になってしまう。
 虫の声すら聞こえないしんとした静寂の中、呼んだきり無言になってしまった深津を急かすように言葉をつむいだ。

「どうしたの、深津も寮でしょ? 帰り道こっちじゃないよね」
「……カッコつけベシ」
「え?」

 不意に、ためらわない深津の腕が伸ばされた。私の両手は彼の右手一本でたやすく一纏めにされてしまう。冬場の乾燥で硬くごわついた深津の手のひらに包まれて、彼の温度がじわじわ私の手のひらを侵食していった。揺らがない水面みたいな顔のわりに、彼の手は温かかった。
 予想外の行動に驚いて動けない私はバカみたいに目を丸くして深津を見上げる。気づいたらまたすぐ隣に彼の大きな体があった。いつの間にこんなに近くに。

「バスが来るまでの二十分、屋根も壁もないバス停で待ってるつもりだったのかベシ」
「いつものことだよ」

 そういう事ね、と今度は私が肩をすくめてみせた。深津にはなんでもお見通しだ。バス待ちの寒さしのぎにココアを買ったことも、沢北には強がって「バスはすぐ来る」なんて嘘をついたことも、強く吹き付ける風に体の芯まで震えそうなことも。
 鋭い観察眼の前にさらされた無防備な私はバツが悪くてそっぽを向いた。反抗的な態度が気に入らなかったのか深津の右手の力が強くなる。痛くはなかった。でもなんでだろう、力ずくで振りほどけない。

「カッコつけて沢北にココア渡して、自分が寒がってたら意味ないベシ」
「かわいい後輩の前ではかっこつけたいんだもん。それにうちのエースに風邪ひかせるわけにはいかないでしょ?」
「苗字もうちの大事なマネージャーベシ。だから風邪をひかせられないベシ」

 鼓膜深くまで揺らす声音で大事と言われてしまうと、そこにチームメイト以上の意味なんて無いって分かってても頬にぶわっと熱がたまった。
 深津、そういう言い方ずるいよ。ひとりで勝手に舞い上がって、恥ずかしくなって、もっと顔合わせられなくなるじゃん。
 ダメ押しで手の甲を撫でてから彼の右手は離れた。十分に熱を与えられた両手を引っ込めようとして、次は熱くてやわらかいものが手のひらにねじ込まれた。

「ほっかいろ?」
「使うベシ」
「そしたら今度は深津が風邪ひいちゃうんじゃない?」
「マネとは鍛え方が違うから心配いらないベシ」
「それじゃあ、ありがとう」

 これ以上深津と話していると色々ボロが出そうなので、私は彼の気遣いを遠慮なく受け取った。ダウンのポケットにほっかいろを仕舞う。じんわりした温もりが心地よい。
 ついと深津が左足を前に出して体を傾けた。間髪入れず肌を刺すような冷たい突風が吹き抜けたが、深津が風よけになり私のスカートが大袈裟にはためくだけで終わる。
 ああ、だから深津さっきから。

「ほっかいろ貰ったし、もう大丈夫だから」
「ん?」
「早く帰りなよ、本当に風邪ひいちゃう。新キャプテンに風邪ひかせられない」

 沢北が騒いでたように、深津はわざと私の風上に立って風よけになってくれていたのだ。だからいつもより近くに立って、私を寒さから守って。キャプテンの肩書に負けない責任感のある人。

「ほら、もうすぐ本当にバスが来るから」
「ならオレもいるベシ」
「深津は歩きでしょ?」
「………にぶい」

 つぶやかれた低い声。というか語尾外れてる。
 また深津の大きな手が伸びてきた。しかも両手で私の腰あたりを鷲掴みにして引き寄せる。分厚い胸板に鼻先がつぶされて痛みのあまりに悲鳴をあげた。

「いだいっ」
「ふっ」

 かすかな笑い声がつむじを揺らす。まさか笑ってる? 深津が?

「深津」
「なんの下心もなしにそばにいると思ったのか? ……ベシ」

 思わせぶりな言葉と背骨をのぼる大きな手の感触。
 深津の笑った顔が気になるのに、私の鼻は彼の胸につぶされたまま動けない。