アフターバレンタイン

 夕飯を作り終えた私は一息つこうと夫用とは別に自分用に買っておいたチョコレートを手に取り、ホットコーヒーと一緒にダイニングテーブルに置いた。バレンタインにしか買う勇気が出ない外国の高いチョコレートを並べたら、いつものテーブルが特別華やかに感じる。
 今日は珍しく早く仕事が終わると連絡をくれた夫の為に体の温まる根菜をたっぷり入れたスープを作った。後は下味をつけておいた鶏むね肉を焼いてチキンステーキにして……頭の中で彼が帰るまでのシミュレーションをしつつチョコレートをつまむ。途端、口いっぱいに広がるまろやかな甘み。

「おいしい」

 舌の上でとろけるガナッシュの風味は幸せの味だ。たっぷりその幸福を味わってからコーヒーを飲めば、ブラックコーヒーの苦みがチョコレートの甘みとほどけ合い美味しさが倍に膨らんでいく。窓の外には白い雪がはらはら花びらのように舞っていた。
 甘いチョコレートと苦いコーヒーの組み合わせ。そしてバレンタインデー。私はこの時期になると高校時代を思い出さずにはいられなかった。



 私の通っていた高校は秋田県にある工業高校で生徒のほとんどが学生寮に住んでいた。実家が遠い私も寮に住んでいたのだが、寮生活というのはとにかく娯楽が少ない。友だちとの距離が近いのは楽しいが学校の立地も相まって近くに遊び場のようなものがなく、門限の決められた一日は遊びたい盛りの高校生には窮屈で、ちょっと校則を破ったりもした。
 そう、例えばあれはバレンタインの過ぎた二月十五日。

「こんな時間になにしてるベシ」
「げっ!」

 外出許可をとっくに過ぎた時間。ダウンとマフラー、手袋とありったけの防寒対策をして丸くなった私が学校裏の通用口で遭遇したのは同じクラスの深津だった。現在進行形で校則違反をしている私とは打って変わって、ジャージ姿の彼はどうやらランニングの最中らしい。運動部の鑑のような彼と向き合うと自分の矮小さが際立って悲しくなるし、何より面倒なので走って逃げようとした。

「苗字」
「なんでバレて……!」

 ニット帽を目深にかぶり口元まで引っ張り上げたマフラーに隠されて、顔なんて目元しか分からないはずなのに深津はぴたりと私の名前を言い当てた。相手に正体が知られているとなると先生にチクられる可能性がある。深津をそういう人間だとは思わないけど、バスケ部の部長としてルール違反は見過ごせないタイプかもしれない。浮かせかけた足を地面に戻して私は悩む。

「声聞けばクラスメートぐらいすぐ分かるベシ」
「しくじったあ」

 天を仰いで嘆く私を深津は冷めた目で見てくる。
 さて、どうしようか。深津の出方を窺うよりこっちが先にアクションを起こしてしまえば、先手を打てるかもしれない。彼にバレないよう隠し持っていたカバンの中身を確認した。本当は全部自分で食べたかったけど、背に腹は代えられない。私はランニングに戻らず何故かこちらを眺めるだけの深津にそそくさと近づいて、白い吐息と一緒にある取引を持ち掛けた。

「深津って甘いもの好きだよね」
「別に、嫌いじゃないベシ」

 嘘つくなよ、週に一回は必ずあの甘ったるいマックスコーヒー飲んでるのクラスの女子はみんな知ってるんだぞ。
 甘いものが好きだと男子のプライドに傷がつくのだろうか。女にはよく分からない男の世界はさておき、深津が甘いものを嫌っていない事は確定したので私はまるで密売人のようにこそっとカバンの中身を彼に見せる。すると、深津の目の色が明らかに変わった。しめた、この取り引き、私の勝ちだ。

「これは」
「そう、チョコレート。しかもデパートの催事で売ってるやつ」
「もしかしてわざわざ電車乗って買ってきたベシ」
「だって寮の暮らしって楽しみが少ないんだもん。それにバレンタイン過ぎたから結構安くなっててさ、お買い得だよ」
「だからこの時間に帰って来たベシ」

 深津は呆れたため息をつくが、目は色とりどりのチョコの包みから離さずにいる。これ以上外にいたら指がかじかんで辛いので、私は一気にケリをつけようと背伸びして深津の耳元で悪事を囁いた。

「お代官様、今日のところはこのチョコレートで勘弁してもらえませんか」
「っ近い、離れろベシ」
「ぐえっ」

 マフラーを引っ張られて首が締まる。こちらも一応女子なので少し丁寧に扱って欲しいが、一歩離れた場所の深津は顎に指をあてシンキングタイム。早く結論を出してくれ寒くて凍えてしまう。

「いいベシ、のったベシ」

 よーし、買収成功! 店員さんにもらった紙袋にチョコレートを半分移そうとする私だが、不意に深津がまた近づいて予期せぬ、更なる悪事を持ち掛ける。

「せっかくだから一緒に食べるベシ。そうすれば色々食べ比べられるベシ」

 深津はそう言って男子寮の方角を指さした。

「えっ」

 第一に、このチョコレートは私のお年玉で買った私のチョコレートなのに勝手に食べ比べようとするな。第二に、女子と男子はそれぞれの寮の行き来を禁止されている。

「私が男子寮に行くの?」
「そうベシ」
「なんで?」
「男のオレが女子寮に行くより、女子の苗字が男子寮に来る方がリスクが低いベシ」

 彼の言い分は分かる。もし深津が女子寮に来てそれが周囲に知られたら確実に変態のレッテルを貼られ最悪学校から謹慎を言い渡されるかもしれない。だったら女の私が男子寮に忍び込む方がダメージが少ない。
 それを言ったら寮を行き来すること自体をやめればいいのだが、先の通り娯楽に飢えて学校を脱走しチョコレートを買いに行くような自分は、こっそり男友だちとチョコレートを食べ比べるという誘惑に抗えなかった。

「いいね、のった!」




「おばんでーす」
「開いてるピョン」

 二回目になると男子寮への不法侵入はずいぶんスムーズになった。二月十五日、夕飯を食べ終えた遅い時間に私は一年ぶりに深津の部屋を訪れる。開けた窓から中をのぞくと、同室の生徒を適当に人払いした雑多な部屋の真ん中に深津はいた。上下スウェット、布団入って即就寝出来るスタイルだ。
 私はコートについた雪をはらってから窓枠に手をつき、外の冷たい空気を道連れに彼の部屋に転がり込んだ。暖房のきいたぬくい風が頬をなでる。

「あったかーい」
「さっさと窓閉めるピョン」
「はいはい」

 ピニョンの寿命短かったな、くだらない考えが浮かぶ中、念のために窓の外に誰もいないのを確認してから窓をしめた。私がコートを脱ぐタイミングで深津が立ち上がり手を差し出すので、その手にコートとマフラーを遠慮なく渡す。手を洗う私の後ろで彼は皺がつかないようにそのコートをハンガーに掛けてくれた。

「ありがとう」
「ん」
「今回は深津もお年玉出してくれたおかげで前より色んなチョコ買えたよ」

 去年、偶然開催された深津とのチョコレート食べ比べ会が思いのほか盛り上がり楽しかったので今年も誘ってみたら、彼はカバンからポチ袋を取り出し「オレのも足すピョン」と予算を増やしてくれた。私よりノリノリじゃん。

「チョコレートひと箱に千円以上出すのってドキドキする。はい、これおつり」
「いいピョン、人件費で受け取るピョン」
「いいってば、いらない」

 深津にもらったポチ袋におつりを入れたものを無理やり渡して私はローテーブルの向かいに腰を落ち着かせる。他人の家って感じの匂いがした。やや不満げな顔をした深津の前にチョコレートを並べて彼の意見を黙殺させてもらう。そうしたら彼は少し後ろを向いて缶コーヒーを二つチョコの隣に並べた。

「待ってましたブラックコーヒー! 人件費はこれでチャラ」

 寮内に設置された自動販売機で買える温かいブラックコーヒーが、私にとって最高の見返りだった。これも去年からの流れと同じ、気を使って深津が買ってくれる苦いコーヒー。いつもの私たちなら絶対に飲まない黒い液体は甘いチョコレートとよく合った。新発見に二人で顔を見合わせ、ちょっと大人になった気がした。

「今日の目玉はこちらになりまーす」
「おお」

 有名な海外メーカーの可愛らしいハート形のチョコレート缶を二人で見つめる。中には大きなチョコの粒が四つ入っていた。トリュフが二つ、ハート、ナッツ入りが一つずつ。トリュフは良いとして残りは半分にしようかな。私と同じ考えらしい深津はまた背を向けて机から何かを取り出すとすたすた水道まで歩き振り返る。手にあるのは定規だった。

「まさかそれで二つに分けようとしてる?」
「ちゃんと洗ったピョン」
「なら良いけど」

 深津は容赦なくハートのチョコレートを縦真っ二つに定規で割った。測ってもいないのにかなり正確に等分されていてちょっと引く。
 仲良く二人で半分こにしたチョコレートを食べた。購買で売ってる板チョコとはまったく違う甘さと舌触りに感動し、思わず胸の前で手を合わせる。

「おいしい」
「うまいピョン」
「ナッツのがりがりって歯ごたえが食べ応えある」
「普通のチョコより香ばしくて食べやすいピョン」

 思い思いに感想を言って、合間に缶コーヒーに口をつけた。コーヒーの苦みをチョコレートの甘さが中和していく。世の中にはこんな美味しさがあるなんて、大袈裟かもしれない幸せに自然、頬がゆるんだ。

「コーヒーも美味しいねえ」
「この時しかブラックは飲まないピョン」
「私も一緒」

 取るに足らない時間を深津と共有する秘密のお茶会。いつか大人になったらこういうのを思い出と呼ぶのかな。喉を流れ落ちる苦味にそんなことを考える。
 あと一ヵ月後に私たちは高校を卒業する。部活で活躍した深津は東京の大学にスカウトされ、私は東北の大学に進学が決まった。だからなのか、前まで当たり前に感じていた日々の中に特別なものを感じるようになる。友だちと笑い合う休み時間も、一足早く卒業した部活動の音が聞こえる体育館も、たった二回しかない深津とのこの時間も。名残惜しく感じるほどにきらきら輝いて見えた。

「ずっと気になってたんだけどさ、深津ってバレンタインはチョコ貰えなかったの?」
「は? いきなりなんだピョン、プライバシーの侵害ピョン」
「だってさ、たくさんチョコ貰ってたら別にこんな会開く必要無かったでしょ。去年はなんも気づかなかったけど、もしかしたらチョコ貰えなくて飢えてたのかなって」
「失礼言うなピョン、ちゃんと貰ったピョン」
「誰から?」
「……河田ピョン」
「河田?! 河田ってチョコくれるタイプなの?!」
「声がでかい隣にバレるピョン」
「あ、ごめん」



 あれから時は流れ、私はチョコレートがなくてもブラックコーヒーが飲めるような大人になった。こうして結婚もした。時計を見たら夫が帰ってくる時間が近づいている。チョコレートを一つ口に運んで、チキンステーキを焼くために立ち上がる。
 温かな食事の後は彼にチョコレートを渡そう。割らなくていいハート形のチョコレートに熱いブラックコーヒーを添えて。