灰燼


 夜になると、夫は途端に静かになる。
 朝、目が覚めたその瞬間から全身の筋肉をしならせ布団から飛び起き、二度寝を知らない凛々しい両目をかっと開く杏寿郎さん。
 夜半に喉が渇いていても、開口一番大きな声で「おはよう!」と朝の挨拶を発する口。金色のまつ毛で飾られた丸い目は瞳孔を刺激する朝日をものともせず、瞬きも少なくひらりと輝く。
 夫婦として杏寿郎さんと共に寝起きする私にとって、東からのぼるお天道様よりも、はつらつと、ゼンマイ仕掛けのように初めから全力で動き出す杏寿郎さんの方が、まぶしく、眠気を奪ってゆく。

 そういった、存在そのものが周囲を照らす人が眠る姿の、むくろのような静けさ。

 暗がりの中で、燐光を思わせる豊かな髪の毛を頬に垂らし、深く、深く眠る杏寿郎さん。薄く開いた唇は寝息もたてず、陽ざしにも負けない両目を覆うまぶたは震えもしない。
 別々の布団で眠るこの距離では鼓動の音も聞こえず、二人の寝室には静寂だけが満ちる。
 起きているならば、体中から生気をたぎらせ使命に燃える肉体が、眠りについた途端に、燃え尽きた灰のような静けさに包まれる。
 ただただ、彼の肉体は鬼を滅する使命の炎を絶やさないために、燃やされ続けている。

「あなたの心は無限に燃えようと、体はひとつきりなのに」

 半身を起こして呟く。杏寿郎さんからの返事はない。
 人の体は燃えれば灰になると、なぜ誰もあなたに教えてあげなかったのかしら。
 杏寿郎さんの心は無限に燃やされるのだろう。彼自身の肉体を薪にして。
 その光は鬼を焼き滅ぼし、周囲の人間を優しく温め、私たちの未来を照らす。
 私も所詮、そうやって守られてきた人間の一人だ。そんな私が彼に何かを諭そうなんておこがましいのだが、妻という立場になってしまうと彼の人の生き方には切ないものを感じる。

「……どうした?」

 知らず知らずのうちに身を乗り出して杏寿郎さんの布団に触れていた手の下で、大きな体がうごめいた。彼は瞼を閉じたまま唇を動かし、緩慢に体を持ち上げる。はだけた寝間着の合わせをぼんやり掴んだ杏寿郎さんは、未だ眠りの端に腰かけている表情だ。

「ごめんなさい、起こしてしまって」
「眠れないのか」

 あと数刻後にあの「おはよう!」が飛び出すとは思えない落ち着いた低い問いかけが、感傷的な心にじんわり沁みる。
 太陽を浴びて力強く飛びたつ杏寿郎さんが好きです。でも本当は今日みたいに、何もない夜、月の静けさを帯びた杏寿郎さんの方が好き。周りすべてを照らす太陽より、私ひとりを照らす月の方がとても好きよ。自らを燃やす太陽よりもずっと。

「……すこし目がさえて」
「今日は冷えるからな。ほら、こちらにおいで」

 掛け布団を捲り上げた杏寿郎さんの震えるまつ毛からのぞいた両目は、夜に線を引く流星のようにきらりと光って私を射抜いた。
 のそのそ自分の布団から抜け出して温かな杏寿郎さんの懐に潜り込む。乱れたままの寝間着を合わせてあげるふりをして、硬い胸に手を当てた。
むくろには無い心臓の脈動がある。ゆっくり、確実に、燃える心臓がこの中にある。
 ぐずついた鼻をすする。それを寒さと勘違いした杏寿郎さんは布団で私をくるみ、背中をさすった。あたたかい手。あたたかい胸。いつか燃え尽きて灰になってしまう、私の愛するもの。

「おやすみ、名前」
「おやすみなさい」

 朝が来なければいいと泣きながら思う夜が今日だけでないこと、あなたには知られたくなくて、無理やり瞼を閉じた。