ここは僕だけの王国

「もう一度お願いできますか?」
「うっ……あのお、これには理由がありまして……」
「ですから、その理由も含めてもう一度、先ほどの言葉をお願いできますか?」

 有無を言わせぬ凄みをただよわせた安室さんの微笑みから逃げようと、私は背中をめいっぱい後ろに倒したが、閉店間際、他にお客がいないのを良いことに彼の右手がぬっと伸びて背もたれの端を掴んだ。みしり、木製の椅子が軋む音が聞こえる。腕まくりしたシャツの下から見える彼の腕には青筋が立っていて、自らの命の危機を感じた。
 怖い。これが恋人を相手にする男の態度か?
 見てますか? 安室さんファンクラブの皆さま。喫茶ポアロに特需景気をもたらした安室透の真の姿を。押してダメなら引いてみろ、じゃなくてアクセル踏んでパワーで押し切れタイプ。探偵のくせしてとんだ脳筋である。

「良いですか、三度目はないですからね」

 一音ずつゆっくり区切り、私のお粗末な脳みそに警告を刻みつける安室さんの笑みが一層深まった。これは本格的にまずい。いや、こうなると分かっていたから不用意な発言には気をつけていたのに。口を滑らした五分前の自分を恨んだ。
 注文したアイスコーヒーで潤ったはずの喉はカラカラに乾いてしまった。そんな口でつっかえながらも、私は安室さんのリクエストに応えて先ほどの自分の言葉を復唱した。

「あっ……安室さんの作るサンドイッチもコンビニのサンドイッチも同じぐらい美味しい……と言いました……」
「へえ?」

 みしみしみし。椅子の軋む音が大きくなる。

「あっ安室さんがもう一度言えって脅したのに、もう一度言ったらどうして怒るんですか?!」
「もう一度言うようにお願いしましたが、怒らないとは言ってません」
「そんなあ……!」

 肘を曲げ物騒な笑顔を鼻先に近づける安室さんにときめきを感じるわけがなく、私は懺悔の言葉を並べ立てて彼に減刑を求めた。

「コンビニのサンドイッチだって美味しいですよ! 企業努力の賜物で朝昼夜いつ食べても同じ味がしますし、お値段もお手頃。コンビニはどこにでもありますからどんな場所でも同じサンドイッチを食べられます。なので決して安室さんのお手製ハムサンドを悪く言っているわけでは」
「そうですか。あなたは恋人が自分を思って作る愛情たっぷりのサンドイッチと、大量生産の安価なサンドイッチが同じ味だと。そう言いたいんですね?」

 意味深なニコニコの次は、眉を下げていかにも悲しげな表情を作り憂いのため息をつく安室さん。実年齢より若く見られる面立ちでそういう顔をされると良心が痛むのでやめてほしい。あと、顔が近いせいであたたかな吐息が私の口元にかかるのも、妙に色っぽくて困る。どさくさに紛れて投下された愛情たっぷりって表現も、お客さんのいる前じゃ聞けない言葉で正直照れた。
 あれもこれも計算し尽くした安室さんの手の上で踊らされているんだ。そう気づいていても、ヒヤヒヤもドキドキも自力じゃ止められないのが悔しかった。
 とにかく、私だって安室さんを悲しませようとしてこんな事を言っている訳じゃないので、その辺の誤解は解かなければ。大きく動いたら触れ合いそうな唇の距離を保ちつつ、私は小さく口を開いた。

「あのですね、安室さんには言ってなかったんですけど……そのお……私、舌がバカなんです」
「……はい?」
「ですから、舌がバカなんです。バカ舌なんです私」

 彼らしからぬ呆気にとられた表情を見て、私は軽く肩を押し返してここぞとばかりに畳み掛ける。

「多少の好き嫌いはありますけど、だいたい何食べても美味しいって感じるんです。美味しいのストライクゾーンが広くて私は助かってますよ。でも安室さんみたいに繊細な舌を持ってる人からすれば、信じられないですよね? 手の込んだ料理とファストフードを一緒くたに美味しいって感じるなんて。安室さんは料理も上手だし、そういうの不愉快だろうなって。そう思ってたから言わないようにしてたんです。ごめんなさい」
「ああ、いえ。謝る必要はありませんが。そうでしたか……」

 珍しく私に圧倒された安室さんが目を瞬かせ、しばし考え込むように顎に指をかける。正確に時間を測れば三分にも満たない無言の停滞は、私の不安を煽るのには充分な時間だった。
 どうしよう、バカ舌女とは付き合えないって言われたら。でもしょうがないじゃない、こういう味覚なんだもん。ふにゃふにゃのフライドポテトも冷たいから揚げも美味しく食べられる舌なんだもん。……これは安室さんには黙っておこう。サンドイッチにつかうパンをわざわざ蒸すような人には聞かせられない。
 そもそも、私の家族自体が食に興味の薄い人たちだった。母親は料理が得意とは言えず、献立は一週間単位で同じものが出されていたし、父もそれに文句をつけずに黙って食べていた。私も平気だった。おかしいと気がついたのは高校に入学し、毎日同じお惣菜の入ったお弁当を友だちに指摘された時。確かに、周りの子のお弁当は日毎に中身が違っていて、彩りもカラフルだった。もしかしたら我が家は味音痴かも、と自覚こそしたがなんの不便も無い。実家を出て自炊をするようになってからも変わらずに、一週間同じものを食べ続けていた。
 そんな自分が、食に詳しくこだわりを持った人と付き合うようになるなんて。未来が見えていれば少しぐらい味覚を矯正したのに。
 しっちゃかめっちゃかな思考回路に目を回しかけたその時、眼光を閃かせた安室さんが私の両肩を掴んだ。大きな手のひらに肩全体を覆われて、えっ? まさか肩外される? と見当違いに怯えた。もちろん安室さんは私の肩を外さなかった。

「分かりました。それじゃあこれから、僕と一緒に美味しいものを学んでいきましょう」
「はい?」
「安心してください、一応僕もそれなりに料理上手な方ですから」

 安室さんの料理レベルがそれなりだとしたら一般家庭の主婦が泣いてしまうので、みだりに口にしちゃいけないと思いますよ。

「せっかく恋人に食べてもらう料理は、心の底から美味しいと思ってほしいので」

 覚悟してくださいね。そうだ、まずはサンドイッチの違いからレクチャーします。
 別れ話にはならずに済んだが、夜も深い時刻、喫茶ポアロで始まったハムサンドの講義は思いのほか長引いた。

 それから数ヶ月後、安室さんの教育の甲斐あって私の舌は色々な味の違いが分かるようになった。しかしそれによって、コンビニのハムサンドでは満足出来ない体になり、前にも増してポアロに足を運び恋人のハムサンドを求めるようになった。
 彼いわく愛情たっぷりのサンドイッチを食べては、美味しいと頬を染める私を眺める安室さんのとろけるような微笑みに、これもまた彼の狙い通りなのかもしれないと気づいたのは後の祭りだった。