したたかに生きてゆこうね



「あんたって彼氏とケンカしたことないの?」

 家族連れやカップル、学生と思しきグループで賑わう週末のカフェテリア。中身が半分ほど減ったフラペチーノをストローで無造作にかき回し恋人の愚痴をこぼしていた友人は、はたと動きを止め私にそう問いかけてきた。
 お互いに恋人の休みが不定休という共通点から、私と彼女はよく土日にランチやお茶を共にすることが多い。今日も彼女に「愚痴に付き合って」と誘われて、家で昼を済ませてからのんびり外に出てきた。

「景光くんとケンカ?」
「そう、ケンカ。不満を言うことはあってもケンカしたって話はしないじゃない」

 彼女の言葉に、私は気持ち良く晴れたテラス席で自らの記憶をたどった。
 恋人の景光くんと同棲して一年。別々な場所で生まれ育ち、それぞれの価値観を持って生きてきた人間が一緒に暮らすとなったら、もちろん、軽い言い合い程度はある。それは些細な食い違いとか、彼の仕事にまつわる認識の違いとか、様々な理由で。
 私が彼に怒ったことも、逆に彼から怒られたこともあった。けれど。

「ケンカっていうケンカはないかも」
「マジで?」
「マジで」
「言い争ったり、口きかなくなったりは?」
「ないかなあ」
「信じられない……なんでケンカしないですむのよ」


「……って言われたんだけどね」

 景光くんと私、二人ソファに並んであたたかいココアを飲む、あれから数日経った夜。景光くんのマグが傾き大きな喉仏がごくん、上下するのをそわそわ横目に見て、かいつまんで友人との休日を話した。細身に見えて実は体格の良い景光くんと並ぶと少し窮屈なサイズのソファは、隙間を作らず寄り添えるのが良い、そう言って彼が選んだ。

「私、ちゃんと分かってるから」
「なにを?」
「私と景光くんがケンカしない理由」

 二の腕がくっつく近さで景光くんが私を見下ろす。流し目が似合う男らしい瞳が今は丸く、あどけない空気を醸している。景光くん、自分では気づいていないのかな。

「ケンカしそうになると必ず、景光くんの方からごめんって言ってくれるでしょう?」
「そうだったかな」
「そうだよ。熱くなって一線を越えそうな時は必ず、景光くんが謝って、私を止めてくれる」

 髭の生えた顎を人差し指でかいた景光くん。気づいていないところがなんとも彼らしい。
 男の人から女の人に謝るのって、きっと簡単なことじゃない。男性として、まして警察官という強い信念を必要とする職に就いている景光くんが、様々なプライドを抱いていないはずがないのに。私みたいないたって普通で、ありきたりな人生を歩んできた女にまず自分から謝るって、すごく覚悟のいることだと思う。それが出来るのは。

「景光くんの心が広くて大きくてあたたかいから、ケンカしないでこれたの」

 彼のやさしさを言葉にしたら、急に胸がぐっと苦しくなった。そのままぼうっと熱く、喉から目の奥までじわじわ燃やし、涙を呼び寄せる。不意に泣き出した私に景光くんは一瞬驚き、しかしすぐさま、自分と私のマグをテーブルに避難させた。

「いきなり褒め殺しにしたかと思えば次は泣き出すなんて、今日の名前はどうしたんだ」

 困った風は口調だけ。声音は低く穏やか。慎重に丁寧に、でも誰にも奪われないよう力を込めた、まるで宝物を仕舞うような動きで景光くんが私を胸に抱きとめた。

「褒めてもらえて嬉しいけど、オレはきみが思うような良い奴じゃないよ」

 景光くんが私の髪を梳くように頭を撫でる。

「むしろ打算的なんだ、オレは」
「どうして?」
「一緒にいられる時間はとても短いのに、その時間をケンカに費やしたくなくて、謝ってる。オレがただ、名前との時間を惜しんで、そうしてる。きみに良く思われたくて。……自分勝手だよな、オレの仕事のせいできみに無理や我慢をさせてるのに」
「景光くん」
「だから、名前が見てるやさしいオレは偽物だ」
「……景光くん」

 私を包む大きな体が強張り、髪に触れたかたい指先が細かく震えた。
 そんな景光くんのすべてがたまらなく愛おしく、広い胸に添わせていた手を彼の頬にあて、伏せた両目を上げさせ目を合わせる。

「このソファに座る時、景光くんはいつも私が落ちないように端に寄ってくれるでしょう。今日のココアも、仕事で疲れているのはお互い様なのに、ご苦労様って言って作ってくれた。これも全部、偽物?」
「それは……」
「違うよね。それぐらい、私にだって分かる」

 この人は本当に、いたいぐらい真っすぐだ。側にいる方が不安になるほど。

「景光くんが自分のやさしさを疑っても、私はあなたのやさしさが本物だって知ってる。だからこれからも、安心して、自分勝手に仕事をやりきって」
「あはは、すごい殺し文句だ」

 私の目元から引いた涙は触れ合う手をつたって景光くんの目じりに満ちて、一筋こぼれた。