ずうっと知らないふりして待ってる
白いレースカーテン越しに見上げた空はどんより灰色で、降り注ぐ雨粒は激しく地面を叩き道行く人の足元を汚していた。この様子では外に出て行っても、満足に花見をすることなんて出来ないだろう。
「これはしばらくやみそうにないな」
「………」
今日はせっかく零くんと一緒にお花見をする約束をしていたのに。しかも、多忙を極める彼の休みと私の休み、桜の開花時期が重なる、まるで奇跡みたいな日だったのに。
後ろに立つ零くんからただようバターの香りが私の憂鬱な気持ちに拍車をかける。これはきっと、私がリクエストしたホットサンドの香りだ。お昼はバスケットにサンドイッチを詰めて外で食べたいって言ったから、今朝せっせと零くんが準備してくれた。
「……はあ」
今日のために新調した洋服や化粧品で着飾った自分を見下ろす。風に揺れるシルエットが可愛いシャツとスカート、それに合わせて彩った淡いグリーンの爪でカーテンを掴み、いつもなら彼の前でつかないよう気を付けていたため息をこぼす。
零くんとこうして丸一日過ごせるのは二カ月ぶりのことだった。もっと長い期間会えなかった時もあるし、再会したら全身傷だらけだった時もある。いったいどういう目にあったらそんな怪我をするんだろうか、私には想像もつかないし、怖くて出来ない。
そういう時に比べたら、雨でお花見がダメになったことぐらい軽く流せる。背後の零くんはこうして五体満足でピンピンしているし、いたって健康そう。……それで充分でしょう。大切な人が無事なら、それで良いじゃない。
そう自分を納得させたいのに、俯いた顔をなかなか上げられずにいる。
「花見はまた次の機会にしよう」
次の機会っていつ来るの?
少なくとも、もう今年の春にチャンスはない。明日からはまた忙しくなると言われたばかりだ。
じゃあ来年とか再来年?
それとも、もっと先?
「………うん」
零くんを困らせてしまう言葉を飲み込んで、代わりに聞き分けよく頷いた。顔はまだ上げられそうにない。きっと今の情けない表情を見られたら、察しの良い彼には私の気持ちなんてすぐ明かされてしまう。
「なあ、その服」
「え?」
やまない雨を素通りしていた視線に金色の頭が入り込む。驚いて上半身を反らせると肩に零くんの手が触れて、くるりと向き合うように体を反転させられた。エプロンをしたままの零くんが頭のてっぺんからつま先までじっくり私を見渡し、またつま先から上まで目を戻す。久しぶりに見た恋人の真剣な眼差しにさらされて心臓が大きく脈打つ。
遠い海の向こうの血を引く零くんの青い目は私の手元に留まり、その手をうやうやしく両手でとると淡い春の爪先にそっと唇を落とした。
「零くん」
「服も爪もよく似合ってる」
「あ、ありがとう」
「今日のために選んでくれたんだろう」
「ちょっと張り切りすぎちゃったかな」
「そんなことない。春らしくてかわいいよ」
私ってば単純な女で、零くんのその言葉で気持ちが少し上向きに変わった。
握られたままの右手が優しく引き寄せられるのに身を任せ、焼いたパンの香りが残る彼の胸に崩れた。鼻先に触れる引き締まった厚い胸板とその下にある心臓が、私と同じ速さで動くのを感じた。
「外に花見には行けないけど、とびきり美味しいホットサンドを作ったから一緒に食べよう。紅茶もデザートもあるから」
「うん」
「だから……次もその次の春も、君と桜を見たい」
ざあざあ降る雨より悲しい音をたてて、零くんの声がつむじに落ちる。背中に回された腕の力が強くなる。いよいよ顔を持ち上げたらそこには、私と同じぐらい情けない表情をした零くんの顔。形の良い眉は下がって、瞳は今日の空模様のように水っぽい。
雨降りが悔しくて、寂しくて、私だけ悲しんでる。そう思っていたのは違ったみたい。
「ねえ零くん。零くんも今日、お花見に行けなくて残念?」
「気持ちが沈んでベーコンを焦がすぐらいには」
「うそ、零くんがサンドイッチを失敗するなんて初めて見た」
「焦がした方は俺が食べる」
「別に気にしないのに」
「いいから名前は良くできた方を食べてくれ」
じゃれ合う内にお互いの空気もやわらかくなっていく。
悲しい気持ちはぬぐい切れなくても、あなたも同じ気持ちなら仕方ないかなって。
「次のお花見の時は焦がさないでね」
「もちろんだ」
雨はまだやみそうにない。けれど、私と零くんの休日ははじまったばかりだ。