杏寿郎くんと私の独立百年戦争

 傷も怪我も、刀を握り過ぎてつぶれた血豆も無いきれいなあなたの手のひらを見た時、わたしは心底、あなたを憎いと思った。
 理不尽な悪意の嵐に命が脅かされない世界で、彼らが守り、繋いだあたたかい場所で、またあなたに巡り会えたのに。
 わたし、あなたが苦しめばいいと思った。



「愛するひとの待つ家に帰る喜びは、やはり素晴らしいものだな」

 煩うもののない軽やかさを手に入れた杏寿郎くんの屈託のない笑顔は、私のこらえていた一番みっともない部分を刺激して、爆発させた。
 杏寿郎くんが昨日の晩にリクエストした肉じゃが。煮えた鍋がぐつぐつ音をたてる。灰汁をすくっていた銀のおたまが湯気でくすんでいくのを、じっと見つめた。
 あんまり火を通すと豚肉がかたくなって美味しくなくなる。それなのに、はじめて自覚した杏寿郎くんへの憎しみがメラメラどす黒い煙を上げ、鍋の火に同調して勢いを増していくから、指の一本も動かせなくなっちゃった。

 杏寿郎くんはそんな私に気が付かず背広を脱ぎ、しょうゆと砂糖の食欲をそそる匂いに満足そうに笑った。


 翌朝、わたしは鍋に残った肉じゃがをタッパーに詰めて冷蔵庫に仕舞い、杏寿郎くんと暮らす部屋を出た。

 杏寿郎くん本人と、共通の友人たちの電話番号をまとめて着信拒否。職場に無理を言って有給休暇をふんだくり、最低限の持ち物で膨らんだバッグを肩に掛ける。フラットシューズに両足を入れて家の鍵穴を回したそれを、バッグの底にしずめた。
 最寄りの駅から乗り継いで、大きな駅で新幹線の切符を買う。平日、通勤時間を過ぎたこの時間は比較的座席に空きが多かった。二人席の窓側に陣取って流れていく街並みを眺めて、奮発して買った豪華な弁当を口に運んだ。自分で作らない料理って、三倍美味しく感じる。

 財布の中身と相談して決めた行き先は、高校の修学旅行で訪れた金沢。
 とにかく美味しいものを食べて、美しい景色を見て、非日常にひたり、自分でも持て余すほど肥大化していた彼への憎しみを忘れたかった。ちょっとでも杏寿郎くんと関わりの薄い場所をと思い、彼と行ったことのない場所を選んだ。

 ふらりと足の運んだ茶屋街の景色。同じ制服を着た友だちとここに来て、ノスタルジックな雰囲気に興奮して何枚も携帯で写真を撮った。笑い合ったあの子たちの笑顔は今も鮮明に思い出せるのに、実際はあれから何年も経っていて、年を重ねるごとに時間の流れを早く感じるのは真実だったんだなあ。
 金箔が乗ってる! そうはしゃいで食べた金沢名物の金箔ソフトクリームを注文し、お店の軒先に腰かける。舌の上でとろっと溶ける冷たい甘みに、乱れていた頭の中が落ち着いてきた。しかし、杏寿郎くんへの憎しみがわずか五百円足らずのお菓子で中和されるわけがない。
 大正時代の面影が残る古い木造の家々、瓦屋根、土埃のたつ舗装されてない道。それらを見ているわたしの胸によみがえる、憎しみの源流。


 大正時代、珍しくもなかったお見合い結婚で夫婦になったわたしと杏寿郎くん。
 鬼殺隊という特殊な組織に属する杏寿郎くんとの結婚生活に不安はあったが、彼が生来持つ誠実さで夫婦関係はうまくいっていた。愛してもらっていたし、わたしも彼を愛していた。
 むしろ深く愛しはじめてからだ、夫婦でいることが辛く苦しくなったのは。
 鬼をこの世から廃絶する。鬼殺隊の本懐を果たすために杏寿郎くんは全身全霊を賭して刀を振るった。その妻であるわたしも、私心を殺して愛するひとを見送った。

 行かないで、そばにいて、置いていかないで。

 そう叫びそうになり震える唇を必死に噛んで、彼の背を見送るしかない夜ごとの苦しみ、悲しみ、孤独。
 幾千の夜、杏寿郎くんを見送った。
 彼が朝焼けに連れ去られ帰らぬひとになっても、わたしは煉獄家の屋敷で彼を待ち続けた。だれも、わたしのもとには戻らぬというのに。
 だって、あの時代の女に出来ることはそれしかなかったから。……ほかにどうすればよかったというのだろう?

 あなたを待つことだけが、あなたを愛するわたしの誇りだった。


 だれを見送るでもない、現代の夜。滑り込みで宿泊出来たホテルの窓から風情ある街並みを見下ろす。電灯が煌々と照る明るい夜。人が鬼から取り戻した安寧の夜。
 今ごろ家で杏寿郎くんはなにをしているだろう。
 わたしがいない部屋で、少しは焦っているかな。それとも、飲み会かなにかと勘違いして暢気に昨日の肉じゃがでも食べてるのかな。……翌朝目が覚めて、わたしが帰ってこないのを不安に思えばいい。待つひとが戻らないかもしれない一晩の不安は、わたしの積年の思いに比べたら、吹いて飛ぶ綿毛ぐらいのものなんだから。

 杏寿郎くんは良かったじゃない。死ぬ寸前まで、家で愛するひとが待っていて。
 わたしより一足先に……ううん、二足ぐらい先に逝ってしまって。残されたわたしの、待てど暮らせど空虚しか募らない家で生きるしかない人生を、考えたことある?

「……ばかだなあ」

 こんな事をしても憎い気持ちが晴れないと分かってるの。仕事で疲れた杏寿郎くんを真っ暗な家にひとりにしたって、反省する気持ちすら、しくしくと心臓の底をつつくんだもの。
 でもね杏寿郎くん、わたし後悔はしてない。
 わがまま、自分勝手、気持ちの押し付け。そう思ってくれて結構。
 だってあの時は、あの朝は、気持ちをぶつける相手もいなかった。ずっと待っていたのにと、あなたは言わせてもくれなかった。ものわかりよく、喉を焼く涙を呑んであなたへの愛に殉じた。それが隊士の妻のつとめだった。
 もうそんな愛はまっぴら!
 時代が変われば、ひとも変わる。わたしも杏寿郎くんも変わった。わたしはもう、夫の後ろを静々と歩く女じゃいられない。
 これで杏寿郎くんに嫌われたら、その時はその時。別れて、お互い新しい道に進みましょう。

 わたしも杏寿郎くんを見倣って、過去の煩わしさから解放されてもいいよね。

「身軽なわたしは金沢でも北海道でも、ハワイにだって行ってやるんだから」

 近くのコンビニで買った缶ビールをぐっと飲み、ひとりぼっちで旅立ちつ自分への祝杯にした。喉ごしのいい金色の液体をぐびぐびあおる。昔の(前世の?)くせで杏寿郎くんの前では控えていたアルコールが体の隅々までいきわたる爽快感。んん、うまい!
 明日はなにをしよう。景勝地として有名な公園をのんびり散歩して、お昼を食べたら美術館に足を運ぼうか。スマートフォンで調べてヒットしたその美術館は、現代美術のコレクションが多く収蔵され国内外で注目されており、アート方面に疎い私でも十分に楽しめそうな場所だった。ついでに画面の上に指をすべらせ近くの美味しいランチも検索。せっかくだし美味しい海の幸を堪能しようかな。
 初めての一人旅は自由気ままでなかなか悪くない。

 朝食の準備、食器洗い、洗濯、掃除などなど……家事に追われることのない朝の目覚めは気分が良かった。普段よりも遅い時刻に起きてホテルの朝食バイキングでゆっくりコーヒーが飲めるし、自分じゃない誰かの作ったご飯を好きなだけ食べられる。至福のひと時だ。
 窓際の一人席に座ってクロワッサンにバターをたっぷり塗る。さくさく軽い食感と上品な小麦の香り。このホテルの朝食バイキングは当たりだ。後でクロワッサンの隣にあったブリオッシュも取って来よう。
 そうしてパンにサラダにスクランブルエッグと欲張るうちに、お昼の海鮮料理のために腹八分までと決めていたお腹がいっぱいになってしまった。
 ランチの予定変更を考え習慣的にスマートフォンのホーム画面を開いた。母からの着信が五件。杏寿郎くんから母に連絡がいったのだろうことと、折り返せば「今どこにいるの!」と怒る声が容易に想像出来るので無視をする。
 私が金沢に来ているのは誰にも伝えていないので、自分が貝のように口を閉ざせば杏寿郎くんに居場所がバレる心配はないのだが、彼の炎渦巻く瞳にはどこまでも私を見つけ出しそうな奇妙な迫力がある。油断しないようスマホを使うのは必要最低限に留めておこうと固く自分に誓い、それを家の鍵と同じくバッグの底に沈めた。