21グラムの喪失



「傑くんは優しいね」
「喋らないで、傷に障る」
「お腹裂けても、しょーこちゃんは元に戻せるのかなあ……。ぬいぐるみ縫うみたいに……げほっ」

 雨上がり、ぬれたアスファルトのにおいが立ち込める六月。紫陽花の葉先からしたたり落ちる雨粒の音にシンクロして、名前の細い体からしとしとと赤いしずくが流れ落ちる。夏油傑は呪霊との交戦で深手を負った一人の少女を背負い高専への帰還を急いでいた。
 出来るだけ名前の体を揺らさないように注意を払う。本当は呪霊を使役して空を飛ぶのが早いがあいにくここは人目が多く、補助監督の帳無しに大型呪霊を呼び出すのは悪手だった。
 夏油の気遣いもむなしく、緩和しきれない小さな振動が名前の裂けた腹の血を貪欲に欲して、夏油の背をじわりと生ぬるく汚した。

 頼む、間に合ってくれ。
 目の前で誰かが。知り合いが。恋人が死ぬなんて。そんなの耐えられない。

「傑くんの優しさはね……甘さと紙一重なの。そういうところ、私はとっても好きだよ……」
「やだなその言い方、遺言みたいで縁起が悪いよ。そんなの聞きたくないし、お願いだから喋らないでくれ」
「でもね、その優しさはきっとこの先あなたを苦しめる」

 呼吸のままならない名前の喉から空気がひゅーひゅー漏れ出し、そのまま激しく咳き込んでしまう。ごほ、ごほ。夏油の首に吐息に混ざって飛沫があたる。
 傷ついた内臓が血を流し名前の口元までもおぼれさせた。

「すぐるくん……」

 息を吸うのも吐くのも辛いだろう彼女の冷たい唇が耳に触れ、夏油はぞっとした。
 彼女は真似事でなく、自分に向けて真実、遺言を伝えようとしていると分かった。

「あなたのやさしさは……あなたの命をうばうかもしれない。そしたら、やさしさを捨てて……そうしてでもすぐるくんは、生きて……。生きてれば何度だって………すぐるくんの優しさは……取り戻せるから………」
「その言葉、そっくりそのまま名前に返すよ……っ!」

 名前の致命傷は後輩を庇って受けたものだ。
 夏油の援護は間に合わず、自らの呪力も尽きて投げ出せるのは体ひとつ。名前は躊躇わなかった。呪霊と後輩の間に飛び込んで両手を広げた彼女の黒い制服は、白い腹と共に横にざくりと開かれる。
 体の大きな夏油がベッドに横たわると、名前は決まってその薄い腹に彼の頭を抱えて黒い髪を撫でた。夏油もこの時ばかりは黙って名前に甘え、瞼を閉じて安らいだ。
 やわらかな、愛する彼女のあたたかなそこが、駆け寄る夏油の目の前で情け容赦なく暴かれる。
 舞い上がる名前の血しぶきを正面に浴びた呪霊が下卑た笑みを浮かべ、その笑みのままばくりと頭から食われた。夏油の操る別な呪霊がこの世から抹消した。特異な能力の呪霊だったが、飲み込むのも汚らわしかった。

「すぐるくん……」

 失血のせいか、それとも魂がじょじょに抜け出ているのか、夏油の背にある重みが軽くなっていく。
 離れゆく命を引き留めるように夏油は名前の冷えた体を強く掴まえた。
 生きてくれ。いかないでくれ。私をひとりにしないでくれ。

「名前がいなくなったら、きみの好きなやさしい夏油傑も一緒に消えてしまうよ。いいのかい? きみが好きな私は、やさしい夏油傑くんなんだろう」
「あはは……なんかその言いかた、ごじょうくんに、にてる……」
「名前」

 もうじき高専が見えてくる。事前に連絡を入れて硝子には待機をお願いしているから、辿り着ければすぐに名前の怪我の手当てが出来る。痕は……残るかもしれない。けれど彼女の命は取り留められる。
 それが夏油にとってなにより優先すべきことで、なによりも大事なことだった。

「……すぐ、ぅ……ん……」

 途切れた息。言葉にならないくぐもった声。足元を汚す泥水が夏油の頬に跳ねた。

「わたし……いなく、なって……も………や、さし……すぐる……んで、いて……」

 ことん。
 小さな衝撃が夏油の肩甲骨にあたる。
 夏油の大きな手の中からたった二十一グラムのなにかが揺らめいて、失われていく。

「…………」

 高専の門が見えた場所で夏油の歩みが鈍り、途絶えた。
 一人ぼっちで立ち尽くす彼の足元で赤い水溜りが大きくなり、じきにそれも雨水に流れて薄まった。

「…………そんなの無理だよ、名前」
「…………」
「きみがいなければ、私の優しさなんてもう二度と」

 もう二度と、この胸に戻ってきやしないのに。