雪解けを待っている



「ねーちゃん」

 あいらしい声に女が後ろを振り向くより早く、姿を見つける前に膝下にとん、とあたたかい重みがぶつかった。
 窓が結露するほど冷えた冬の空気に負けないぬくもりと、自分を見上げる澄んだ水色の両目に自然と女の口元がほころんだ。小さなつむじに手をのせて撫でる。
 大切な大切な、女の命より大事なあたたかさ。
 五条家に住まう大人のほとんどはこの子どもに六眼を向けられるのを恐れたが、彼女だけは彼の背に合わせて床に膝をつき、ほほ笑んで子どもの目を正面から覗き込んだ。

「どうしました、悟様」
「なんで今日のおれの世話、ねーちゃんじゃないの」

 ふてくされ、小さな唇をつんととがらせる仕草は六歳の少年のものとしては幼い。
 五条悟がこんなに、おおげさと言えるほど子どもらしく振舞うのは親の前ではなく、赤子の頃から面倒をみてくれている若い世話役の女……名前ただ一人だった。
 ねーちゃん、ねーちゃんと呼び慕っているが血の繋がりは一切ない。彼女は二級以上の実力を認められ五条家に雇われた、血縁外からやって来た呪術師だ。扱う呪術は式神と一般的な術式がら、広範囲に式神を飛ばせる索敵能力と本人の格闘術を高く買われ五条家の粋と呼べる嫡男のお目付け役を仰せつかっている。

「今日は午後から外に強い呪いを祓いに行かれるでしょう。私にはその準備がありますので、別な者が悟様のお世話に参りました」
「ねーちゃんじゃないとヤダ」
「お役目にはお供しますから」

 御三家には高専を経由して様々な除霊任務が回ってくる。
 日本は他国と比較して呪霊の出現数が多い。島国という閉塞的な環境が人間の負の感情の吹き溜まりになっているのか、真実は別として、結果的に国内は常に呪術師の人手不足に悩まされていた。使えるものは猫でも子どもでも使え。それが無下限術式持ちの子どもであればまだ六歳でも当然白羽の矢が立つ。

 名前は唯一、悟を子ども扱いする人だった。
 少しでも悟の負担を減らすため祓いに行く呪霊の情報は事前に頭に入れておく。それが名前のポリシーだ。
 すべてはこの幼い子どものためなのだが、他の術師と打ち合わせを行おうとしている彼女の膝に、悟はいっそう強くしがみついた。まるい額をぐりぐりすりつけて、全身で駄々をこねる。両頬はリスのようにふくらませて、そのまま器用に「ヤダ!」と大声を出した。
 無表情、無感情で呪いを祓う五条悟を知る人間ならその仕草に驚き怯え、泡を吹いて倒れるかもしれない。ネコかぶりどころか、百獣の王ライオンをかぶっているレベルだ。

 なんとしても自分の側から離れようとしないいじらしさは可愛いが、このままでは打ち合わせに遅れてしまうと手首の時計を気にする彼女の動きを、悟は目ざとく見つけてやわらかい太ももに爪をたてる。
 突然の痛みに反射的に目をつむった彼女に満足して、悟は魂が底冷えする低い声で言った。

「呪いなんて俺ひとりで祓うからいいだろ。準備なんていらねーよ。どうせみんな、俺より弱いんだから」
「悟様がお強いことは百も承知ですが、私もあなたを守る役目があります。それなのにもしものことが悟様の身にあったら」
「もしも?」

 はッ! と悟は大好きな姉を鼻で笑った。
 時おり見せる悟の冷たく尖った常人ならざる心に、彼女の両肩がわずかに強張る。

「もしも、なんてあるわけないじゃん。名前は俺より弱いくせに、守るとか、ずいぶんエラそーなこと言うね」

 自らの命を奪おうとする人間や呪いから自分を守ってきたのはいつだって自分自身だと、ありふれた六歳の子どもの皮を剥ぎ棄てた悟の六眼がほの暗いプライドでよどむ。
 物心つくよりもずっと前、五条悟がこの世に生を受けた瞬間から、世界は彼を中心に回り始めた。天は人の上に人を造らず、なんて言葉も五条悟の誕生で今や妄言に成り下がった。

 すべての頂点に君臨する資格を得た自分を守れる者がどこにいる。そんな非難のこめられた両手がぎりぎりと彼女の着物を掴んでいる。
 すべてを見通す目と存外強い手の力を前に名前は一瞬ひるんだ。
 特別な家柄も、特殊な術式も持たない彼女では、一生到達出来ない領域を生まれながらに遊び場にしてきた八つ年下の子ども。……そう、子どもだ。
 掴む力は強くても手足も自分より小さい、まだ六年しか生きていない男の子。
 後ずさりしかけた踵を踏ん張って、彼女は目線を合わせたまま悟に向き合う。

「それでも守ります。私があなたを」
「だから、無理だって」
「無理でもなんでも、悟様が私より百倍強くても、あなたには守られる権利があります」

 守られる権利、という大それた言葉に悟の眉がぴくりと動いた。

「悟様はとてもお強いです。もしかしたら本当に、世界で一番強い力をお持ちかもしれません。けどそれは、あなたを守らなくてもいい理由にはなりません」
「はあ?」
「聞いて、悟様」

 彼女は薄くて細い悟の肩に両手をのせた。
 まだまだ彼女の手におさまる小さな肩で、彼女よりはるかに大きいものを背負っている子。
 もっと大切に扱われなくてはいけなかった、幼くやわらかい心の奥を、ただ強いというだけで重くにぶらせてしまった子。

「悟様はまだ子どもです。子どもは、大人に守られる権利があります。あなたは、五条悟という名前に関係なく、大切にされる権利がある」

 子どもとか、大人とか、そういう社会的な枠組みに入れられたことのない悟は訝しい眼差しで彼女を見上げる。
 人間社会に生まれ落ちたのに、周りの大人たちは彼を六眼を持つ術師としか見てこなかった。名前以外誰も、彼を子どもとして見なかった。
 無条件の愛や慈しみを才能を言い訳に五条悟に与えてこなかった大人たちのあやまちを痛感し、彼女は悟の肩を引き寄せて抱きしめた。

 悟は、彼女の言っている意味をイマイチ理解出来なかった。理解できるように育てられなかったからだ。
 けれど自分の背をそっと撫でて、自分に胸をゆるす彼女のことは、やっぱり好きだなと思った。





「あれ、ねーちゃん」
「……悟のお姉さん?」

 溶けて液状になった最後の一滴までパピコを貪りつくした五条は、容器の口を歯で噛みつぶしながら窓の外を見下ろした。
 ソーダ味の棒アイスを食べていた夏油は姉という言葉が引っかかり、窓にもたれる五条の隣に移動して同じように窓の外を眺めた。
 高専の玄関先で着物を着た一人の女性が補助監督と話している。黒い髪と黒い目。纏う呪力は人並みで突出したものの無い外見だが、立ち方や目線の動きに隙の無い身のこなしが、彼女も夏油たち同様の術者であることを示していた。

「おい。あんまねーちゃんをジロジロ見んじゃねえよスケベやろう」
「悟にお姉さんがいるなんて知らなかったから驚いただけだ」

 五条は大好きな姉を遠慮なく観察する夏油に中指をたて舌を出す。マナーのなってない友人の中指を適当に右手であしらいながら、夏油の目はまだ階下の女を追っていた。
 五条が姉と呼ぶわりに顔立ちはまったく似ていない。顔立ちは整っているが五条のような美しさより、優し気な目じりが愛らしい印象を与える女性だ。

「似ていないね、君とお姉さん」
「血はつながってねえし」

 ごくごく平均的な家庭に生まれた自分には馴染みが無い、いわゆる乳母やお世話係のような者だろうかと納得し、夏油は改めて五条の家柄の良さに感心した。育ちは良いはずなのにどうしてこんな失礼な奴になってしまったのか、お世話役のあの人に小一時間問いただしたい。

 それにしてもあの悟が「ねーちゃん」と親しみを込めて他人を呼ぶなんてね。
 意外に可愛いところがあるものだ。そう含みを持たせたほほ笑みを五条に向ける。
 なにを勘違いしたのか五条は夏油の笑顔に青筋を立て、パピコのゴミを空中でひねりつぶした。

「ねーちゃんに手ぇ出そうとしたら傑でもブっ殺すから」

 前言撤回。
 やはりこの友人に可愛げなど一切なかった。