熟れる前に枯れる果実

※BEYOND内の時系列


「春日井くん、背が伸びたね」

 真壁司令たちとの会議を終えブリーフィングルームを出てきた春日井くんを見て、私はついそんな言葉を投げかけていた。その声か、それとも私の心の中の声か、どちらかの声に耳をすませ、春日井くんは長い前髪に隠れ気味の目を少し大きくする。その表情はまだ島が偽りだとしても、恒久的な平和を私たちに授けてくれていた頃の彼に似ていた。

 春日井くんがフェストゥム側に渡ってからそれなりの年月が過ぎたのに、私はたった今、彼が自分よりも頭ひとつ以上背が高いことに気が付いた。一緒に部屋を出た真壁司令、溝口さんと並んでも遜色なく、春日井くんの立ち姿は大人の男のそれだったのだ。成人式を迎えてアルヴィスの制服も大人と同じものを身に付けて、一緒に大人になってきたはずなのに、私と彼の間にこんなに差が生まれていたことに気づけずにいた。
 同じく近藤くんも春日井くんの隣にいてあきれ顔でこっちを見ているけど、彼は咲良と結婚して子どももいるので、私の中ではとっくに「親」のくくりに入ってしまっている。あと年々丸みを帯びる下っ腹、これが一番「父親」ってイメージを周りに意識させる。咲良のご飯が美味しいにしても、ジークフリード・システムにあのお腹がつっかえたりしないのか気になるところだ。

「突然背が伸びたわけじゃないよ」
「でも、島に帰ってきた時よりもちょっと背が伸びたよね。ね、近藤くん」
「まあ確かに検診の結果を見れば結構背が伸びたな」
「そうか……」
「近藤くんは縦にも横にも大きくなって」
「うるせえ」

 近藤くんは持っていたデータファイルの角で私の肩を小突き、仕事が残っているからとメディカルルームに戻っていった。まさか校内放送で恥ずかしい演説をして、誰からも生徒会長だと思われていなかった近藤くんがみんなを支えるお医者さんになるなんて、誰が想像出来ただろう。

 体感はあっという間に、そして実感は突然に、私に十年という時間の流れを知覚させる。
 いつまでも子ども気分でいてはいけないと分かりつつ、駆け足で大人にならざるを得なかった一抹の寂しさがあった。

「この後、店に寄っていかないか」
「いいの?」
「コーヒー、淹れるよ」
「それじゃあ、お邪魔しようかな」

 海神島でも喫茶店を営んでいる春日井くんを見るのが、私は好きだった。
 春日井くんの淹れてくれる熱々コーヒーはもちろん美味しいし、たまに目を覚ます真壁くんが作ってくれるカレーライスも変わらず絶品で。エレメントと呼ばれるようになった彼らが日常に溶け込み島で暮らす眺めは、私の胸を温かくする。
 十四歳の私たちが歩み、ある日を境に走り抜けた地続きに、今があると感じさせてくれるから。

 八番出口の扉を抜けてアルヴィスの外に出る。空には雲が多く、肌をなでる風は少し冷たい。
 赤い月が天に昇ってから島の四季はじょじょに狂い始めていた。アショーカの護りをもってしても禍々しい力の影響をゼロにすることは叶わず、今日のように不意に、赤い月の災いを身に受ける日があった。

 歩く速度を鈍らせる肌寒さに首を縮こめる。指先は制服の袖の中に潜らせた。寒い、早く春日井くんのコーヒーを飲んで温まりたい。

「苗字」
「ん?」
「嫌じゃなければ、上に着た方がいい」
「嫌じゃないけど、それじゃあ春日井くんが寒いよ」

 隣を歩く春日井くんが自分の制服の上着を脱いで私の肩に掛けようとする。エレメントだろうとなんだろうと、春日井くんだってこの寒さを感じているはずだ。私はやんわりと遠慮して大股で二歩先に進み、逃げる。春日井くんはその距離をたった一歩で詰めて、有無を言わせず私の肩に上着をかぶせた。

「俺がこうしたいんだ」
「それなら、ありがとう」

 私の上半身をすっぽり覆う大きくて温かい上着とか、シャープになった輪郭の中で穏やかに細められた目とか、春日井くんの持つ優しい色気みたいなものにドキっとして、押し切られる。ああ、だめだめ、春日井くんには心の中が丸見えなのにこんな野暮なこと思っちゃ。
 もちろん、春日井くんが無断で相手の心を覗く人じゃないのは知ってるけど。さすがに頬を赤くしたらバレてしまうし、友だち同士なのに気恥ずかしい。

 こういう気遣いの仕方が出来るのは、同世代の中でも春日井くんだけだ。皆城くんも真壁くんも、優しいけれど妙にポイントがずれていたり不器用だったり。それで真矢やカノン、翔子を翻弄していたのは傍で見ていてハラハラした。島の中の、それも一つしかない学校内の恋模様は隠していても筒抜けになるものだ。

 そんなあわい青春も、フェストゥムが現れて様相を一変し、私たちの恋は文字通り命がけのものに張り詰めてしまった。
 私はそれが怖くて、恋を知る前に見切りをつけて今日までを生きている。ピンと張り詰めて、お互いの存在を失ったら割れた水風船のように張り裂け、大事なものがこぼれ落ちてしまうような気持ちは、知らなくていい。

 そうしてみて見ぬふりをしてきたのに、春日井くんの制服からほのかに香るコーヒー豆の香りに気が付いてしまって。
 気が付くということは、今日は一日、それだけ春日井くんのことを見ていた証拠で。

「苗字?」

 立ち止まった私を不思議そうに見下ろす春日井くん。
 そんな彼を見上げる自分の首の角度ぐらい急な勢いで、私は生まれて初めての恋を、永遠に叶わない相手に捧げてしまった。