愛さない、でも憎めない

 もう彼を愛さないと決めることは簡単だった。

 呪術高専の学生寮、わたしの部屋と彼の部屋。それぞれ半分ずつ、二人の存在をばらまいていた。二人分のパジャマと制服は彼の部屋に、二人で買った色違いのカップとスプーンはわたしの部屋に。
 ゲームセンターでふざけてとった大きなテディベア、夏に遊びきれなかった封の開けられしけった線香花火。女の子にも似合うかも、なんて言われてプレゼントされたよく知らないバンドのライブTシャツは部屋着になっていて、彼と過ごした月日の分だけくたくたによれている。
 醸し出す優しさに忍ばせた巧妙な独占欲。
 あなた、わたしをうまく騙しているつもりだったかもね。わたしは全部わかったうえで、このお下がりのシャツに袖を通していたこと、知らないまま別れてしまった。

 そういう、まだ触れれば温もりを感じそうな彼との生活の名残を、流し台の下から引っ張り出した冷たいゴミ袋へ次々とぶち込んでいく。一時間もすれば、わたしの部屋は本当はこんなに広かったのかと思うぐらい中身が減っていた。
 わたしの日常のほとんどが彼に同化されていたのだと浮き彫りにする床の広さに唇を強く噛みしめ、ゴミ捨ての為に外へ続くドアを開ける。

「傑が呪詛師になった」

 ドアを開けてすぐの廊下に五条が立っていた。わたしを見ようとせず、そっぽを向いて話す五条の丸いサングラスの下、ラムネ瓶に沈んだビー玉みたいな青い目は気のせいか赤い。勘違いかもしれないけど。
 ……そうだったら良いなと思ったわたしの都合のいい見間違いかな。
 わたしのほかにも、傑の不在に打ちのめされる人がいると安心したくて、そう見えてしまうのかな。五条はわたしよりも傑にべったりのところがあったから。

「そう」
「……おまえ、知ってたろ」
「うん」

 もうすぐ焼却炉で灰になる傑の存在証明の数々を見下ろして、五条が泣きそうな声でそう聞いた。涙か、怨みか、出口のない激情か、その全てを呑んで上下する五条の喉仏を見つめる。
 傑も呪いを飲み込むたびに、喉元にまとわりつく不快さを嚥下しようと、大きく喉仏を震わせていた。
 吐き戻さないように両手で口を覆って、少し上を向いて突き出された喉仏が上から下へゆらめき落ちる。その姿を見ると、わたしの鼻の奥が勝手にツーンとして、この人をひとりにしたくないと、思い続けてきたのに。

「多分、村の人間を殺してすぐだったのかな。血だらけになって枕元に立ってたよ」
「あいつ、おまえになんて?」
「元気でね、って」

 一緒に来て欲しいとか、バイバイとか、自分の意思をわたしに気取られない言葉を選んで傑は呪詛師に成り下がった。
 わたしの親を殺した奴によく似た、呪力を持たない人を蔑む両目を顔にはめて。
 強いひとが弱いひとを守るんだと五条に言い聞かせていた黒い瞳は、夜の闇の中で暗たんとしていた。護衛中の少女を死なせてしまったと自戒を繰り返すようになってから、翳りを帯び始めた彼の瞳が完全に堕ちたのを見て、わたしは彼がもう二度と自分の元に戻らないのを悟ったのだ。

「どうしよう、五条」
「なんだよ」

 イライラした声の五条を見上げる。口を縛ったゴミ袋を掴むわたしを見下ろす五条は、こちらの表情を見て口を引き結んだ。

「人を呪い殺した傑をゆるせなくて、もう愛さないって決めて、こうやって何もかも燃やして消しちゃおうって。それはすごく簡単に出来たの。愛さないは簡単、でも憎むのはむずかしいの」

 カシャン。五条のサングラスの鼻あてがずり落ちる音がした。喋りはじめにうつむいたわたしには彼の顔は見えない。ただ、その音に合わせて、傑が見えなくなってから初めての涙がわたしの右目を伝い落ちる。

「わたしって、誰かを憎むより愛する方が得意みたい」

 もう二度と傑を愛さない。
 でも、これから一度だって傑を憎める気がしないわたしは、呪術師に向いてない。