行き過ぎた青、むせかえる春

進清十郎という男は王城に入学してすぐに注目を集めた有名人だった。
私は彼の初めての自己紹介をよく覚えている。新たな環境と新たな同級生に緊張し、口の中をカラカラにさせてつまづきながらも必死に自己紹介をした私とは違い、彼の自己表現はとても簡素なものだった。
起立して背筋を伸ばし前を真っ直ぐ見て、自分の名前をハッキリ喋ると他にはなにも言わずに席に座った。これには先生もクラスのみんなも驚いて彼を見た。普通、自己紹介といえば好きな食べ物だとか趣味だとか言うものだろう。私だっておにぎりが好きだとか走るのは得意だとか、そんな当たり障りのないプロフィールを披露した。それなのに進清十郎という少年は自分の名前以上に語ることはないと言いきった。

「進くんって不思議な人だよね」
「カッコイイけど近寄りがたい雰囲気っていうか」
「本当に同じ中学生?って感じ」

これが同じ学年の女子生徒からの進清十郎の評価である。
進清十郎は中学生にして完璧な人だった。完璧すぎた。
勉強もスポーツも成績優秀。全てにおいて勤勉な態度で臨みそれに恥じない結果を残した。性格も非の打ちどころも無く真面目一辺倒。中学生という発達途中の少年であるはずの彼は、この時からすでに完璧な人間だった。
強いて不完全な点を言えば機械音痴なところと、完璧すぎて多少周囲の人間に遠巻きに扱われているところだろうか。どちらも本人に気にした様子は無く、逆に一人で黙々と勉学やアメフトに励む姿はストイックさに磨きをかけていた。


「終わったか」
「ごめん、もうちょっと待って」


そんな完璧男と私は出席番号が隣同士で、今日は日直を2人一緒に頼まれた日だった。
彼がその性格に違わぬ丁寧な字で日誌を書いている間、私は黒板掃除をしていたのだがなかなか上まで手が届かない。椅子を持ってきて踏み台にすれば早いのかもしれないけれど、それはとても面倒だった。つま先立ちやジャンプを繰り返してドタドタ音をたてていると、日誌を書き終えたのか進清十郎が黒板に近寄って来る。

「手が届かないなら無理をするな」

そうして私の背後に立つと手から黒板消しを取り上げて、そのままチョークで白く汚れた黒板を掃除していった。
前方は黒板、後方は進清十郎に挟まれた私はどうしたものかと困惑して、とりあえず彼が黒板を掃除し終わるまで待つしかなかった。
進清十郎のお腹から胸にかけてが私の背に当たってドキドキする。そろそろと目線を上に向ければ白い学ランの袖から筋肉質な手首が見えた。内側に通った筋がピンと張っていて、思わず自分の手首と比べてみる。太さも違うし、進清十郎の手首は遥かに頑丈そうだ。
次は気取られない程度に首を動かして少し上にある進清十郎の顔を見てみた。背はそんなに高くないから見上げるのは簡単だった。日誌を書いていた時と同じ真面目で黒く硬い目が黒板を追っている。同じクラスの桜庭春人ほどではないが彼も相当整った顔をしていた。目鼻立ちがはっきりしているし意思の強そうな眉はキリっと上がっていて男らしい。口元はいつも横に引き結ばれていて、その唇が開いて言葉を発することは稀だ。頭を元の位置に戻してありきたりなことを思う。
見た目も頭も体も完璧なんて、この人とんでもないな。
進清十郎が一通り黒板の文字を消し終わった頃、つむじのあたりに視線を感じた。

「すまない、身動きが取れなかったか」
「いや、うん、大丈夫。ありがとう消してくれて」

私を黒板とサンドしていることにようやく気付いた進清十郎が一歩後ろに下がる。自由を手に入れた私はその隙間からそそくさと抜け出して彼にお礼を言った。少女漫画のようなシチュエーションまで完全再現出来るくせに、彼の態度は素っ気ない。私の言葉にも彼の表情は変わらずに静かに口を開く。

「当然のことをしたまでだ」
「あ、そう」

これにて会話は終了。
日直の仕事を全て終えた私たちは、最後に日誌を担任に提出しなければならない。しかし進清十郎にはこの後、彼が心血を注ぐアメフトの練習がある。1秒でも早く練習に行きたいはずだ。

「私が日誌出しておくから進くんは部活行ってきなよ」
「何故そうなる」
「何故って」
「日誌を出すまでが日直の仕事だろう」
「そうだけど。だって部活あるんでしょ?日誌ぐらい一人で出せるし」
「そうはいかない」

何故ここでそう切り返してきた進清十郎。
大人しく部活に行けば良いじゃないか進清十郎。
どこまでも律儀で真面目な奴だ進清十郎。
でもそうして最後まで自分の責任を人に預けずやり遂げようという、硬くて面倒なところは素直に好感が持てた。

「そっか。じゃあ早く部活行けるようにちゃっちゃと職員室行こっか」
「ああ」

日誌を持って職員室に向かう。進清十郎はスポーツバッグと学生鞄を、私は学生鞄だけを持って教室を出た。一人じゃなく二人で教室を出れたことはなんとなく嬉しかった。



苗字は飄々とした人物だった。
同じ学年の女子生徒とは違い妙な落ち着きがあり、かといって浮いた様子も無いのは、彼女が巧妙に合わせるべき時と場所では協調性を見せているからであるとある時気がついた。行動は計算高いが、単調すぎない性格が上手く調和して彼女を周りの女子生徒に溶け込ませている。
出席番号が俺の一つ前の苗字は必然的に俺の前の座席に座っている。最初の自己紹介の時はまだ緊張した面持ちでおどおどと喋っていたのが少し懐かしい。

日直の仕事が終わり日誌を携え職員室に向かって歩く道中、苗字は俺の部活を気にしているのかいつもより大股で早足に歩いていた。

「急ぐ必要は無い」
「そう?」
「俺が日直だということは桜庭が皆に教えているから、大丈夫だ」
「分かった。そういえば進くんってよく桜庭くんと一緒にご飯食べてるし仲良いよね」
「そうだな。同じ学年の中では一番よく話す」
「あんまりお喋りするタイプじゃないもんね進くんは」
「…そうだな」
「ずっと聞いてみたかったんだけど、好きな食べ物とかある?」
「肉はよく食べる」
「いかにも男の子って感じだね!」
「苗字はおにぎりが好きだと言っていたな」
「あれ、どうして知ってるの?」
「クラスの自己紹介の時に自分で言っていたろう」
「覚えてたんだ、ビックリした。そうだよ、私明太子おにぎり大好きなの!」
「おにぎりは手軽に栄養を摂れる効率の良い食事方法で俺もよく食べている」
「具はやっぱりお肉?」
「日によって変えている。重要なのは栄養管理だ」

他愛も無い会話というものを女子生徒としたのはこれが初めてだった。苗字は俺が必要最低限の返事のみでも満足そうにそれに返してくる。
俺はあまり喋ることが得意ではない。
苗字はその事を自然に組んで、積極的に自分から話題を振ってくる。深くプライベートに踏み込んでくるような話は避けて、こちらも気兼ねなく返せる質問をしてはその返答に自身の話を交えて会話の幅広げていく。その、大袈裟に言えば話術に、俺は感心する。

「おっと、話はここまで」

彼女の言葉に頷き職員室の戸を開けた。担任の教師に軽い報告と共に日誌を手渡せば今日の日直の仕事は終わる。

「失礼しました」

廊下に出ればこの先、俺は部活に行き苗字は自宅へと帰る。どことなく後ろ髪を引かれる思いで分かれ道の廊下の突き当たりで立ち止まった。

「じゃあバイバイ」
「またな」

また明日、もし話せる機会があったなら。今度は俺から声をかけてみよう。



「名前って進くんと付き合ってるの?」
「私って進くんと付き合ってたの?」
「いや質問してるのこっちだから、疑問で返さないで」
「友だち……だと良いな。あっちも友だちって思っててくれてたら嬉しいね」
「傍から見たら完全に友だちだと思ってたけど違うの?」

私と進くんは多分クラスメート以上友だち未満あたりだと思う。
一緒に日直をやったあの日から彼との会話の回数はぐんと増えた。おはようとかバイバイの挨拶もするし、私が声をかければ世間話にも付き合ってくれる。最近ではごくごくたまにだけど、進くんの方から話しかけてくれる時もある。他の生徒とのコミニュケーションには受動的な彼が自分から、しかも女子生徒に話しかけるのは珍しいのか友人からの好奇の混じった質問に苦笑する。

「友だちかどうかの確認なんてする人そうそう居ないでしょ」
「まあそうだよね」
「まして私と進くんが付き合うなんてないない。生まれ変わってめっちゃ美少女になったら告白するかもだけど」
「なんだ、進くんのこと好きなんじゃん」
「だってカッコイイし話してみると面白いし、同い年とは思えないぐらいしっかりしてるし。優良物件じゃありませんこと?」
「ええ、私なら生まれ変わったら桜庭くんと付き合いたい」

在り得ない話に花を咲かせて友だちと笑い合う。
進くんと付き合えたら楽しそうだけど、私じゃどう頑張っても彼には釣り合わない。彼は機械音痴だったり無口な面があったりするがそれを含めても完璧な男の子だ。私のような凡人代表がおいそれとお付き合い出来る身分じゃない。童話に例えたら白馬の王子と平民の娘並みに生きてる階級が違う。

帰りにどういう風の吹きまわしかグラウンドに寄ってみた。色んな運動部のみんなが汗水たらして走ったりラケットを振ったり、学園ドラマの切り抜きみたいな青春がたくさん溢れている。
その中でもハードな練習で有名なアメフト部の近くまで歩いて行く。鬼監督のショーグンが活を飛ばして部員を奮い立たせていた。私には出来そうもないトレーニングの数々に黙々と取り組む部員たち。
端から端まで見渡して、すぐに目的の人物を見つける。進くんは走り込みの練習をしているのか直線の上を何度も往復して走っていた。私も自分の脚の速さにはちょっと自信があったけど、この速さを見たらとてもそんなこと口に出来ない。ただ単に速いんじゃなくて、こう、重量感があるというか。攻撃性を伴ったスピード。素人から見ても彼が特別な、天才な選手だって分かった。努力する天才は凄いな。

「かっこいいぞ、進清十郎」

フェンスに手を掛けてぼんやり呟いた。
かっこいいなあ、進清十郎。自分で自分を貶めたりしない、向上心に満ちて前に進み続ける。まるで理想の学生像をそのまま現実にしたみたいな人なのに、性格も良くてかっこ良くて。

「好きにならないほうがおかしいのかも」

私は多分進くんのことが好きだ。
恋人になりたいわけじゃない。見栄っ張りとか嘘つきとかではなく、これは本心だ。私は進くんのことが好きだがそれは限りなく尊敬と友愛に近い。ただほんの些細なことで恋愛に変わるかもしれない。まあ、でも今はこの距離がちょうど良い。声をかけて差し入れをしてらしくもなく頬を染めて「頑張って」なんて言う柄でも無いし。
進くんは私の視線の先でまだ走り続けている。その一心不乱な姿は清々しく私の胸に染み込んだ。



「進は苗字さんとはどういう関係?」
「友人だ」
「本当に?」
「俺と苗字は傍から見ると友人の域に達していないように見えるのか?」
「いや違うよ全然違う、むしろその逆!」
「逆だと?」

部活が終わり桜庭と共に校門を抜ける。友人の逆とは一体何なのか。桜庭の言ったことが理解出来ずに口を噤む。桜庭は俺を見て溜息をついた。

「二人は付き合ってるのかって聞きたいの、俺は」
「付き合うとは、恋人ということか」
「そう、進と苗字さんが」
「それはおまえの勘違いだ」
「そうかなあ、進があんな風に話せる女の子なんて苗字さんぐらいじゃん」
「それは確かにそうだが、だからといって恋人だとは限らない」
「でも苗字さんの方も進のこと気になってるように見えるよ。さっきも部活見に来てたし」
「苗字が来ていたのか」
「俺がドリンク飲んでる短い間だったけど、フェンスのところからこっち…というか、進のこと眺めてたよ」

全く気がつかなかった。苗字が来ていたとは。アメフトに興味があるんだろうか。

「一応言っておいてあげるけど、アメフトに興味があるってわけじゃなくて進に興味があって来てたんだと思う」
「何故俺に興味がわく」
「そんなの本人に聞けよな…。第一これはあくまで俺の予想であって、真実は苗字さんしか知らないし」

不可解な視線を送ると、今までにないほどの呆れた表情で見返される。

「進はもう少し、周りからどう思われているのかって事を意識した方が良いよ。昔の俺みたいに意識しすぎるのは駄目だけど」
「気にならない訳ではない」
「そこに左右されないって事は分かってるけど、そうじゃなくてさ…いやいいんだよ、俺は別に」

納得出来ないのか半目でじとりと睨んでこられてはこちらも溜息をつくしかなかった。

「言いたいことがあるならハッキリ言え」
「分かったよ。…俺はってきり進は苗字さんのことが好きなんだと思ってた」
「何故だ」
「さっきから進はなんで?って聞きすぎ、少しは自分の頭で考えてみろって!」

そう言い残して桜庭は俺が何かを言う前に走って自宅に帰って行った。その場に取り残されしばし呆然とする。
俺は、苗字のことが好きなのだろうか。



珍しく進くんに放課後に時間があるかと聞かれた。進くんと違い活動日数の少ない文化部に所属している私はもちろん、と頷きを返す。

「部活の後でも大丈夫か?」
「良いよ。日本史の課題があったし、それやりながら教室で待ってるね」

こんなやり取りをしてから大分時間が経った。前に二人で日直をやった時と同じように、気づけば教室には私一人になっていた。
携帯から伸びるイヤホンを両耳につけて八割ほど書きあげたレポートを見る。我ながら良い調子で進んでいた。教科書と資料集を交互に読んで蛍光ペンで線をひき、レポート用紙に要約する。単調な作業に飽きてきた頃、ようやく最後の一行を書き終えた。腕を天井に突き上げて大きく伸びをする。

「終わった終わった」

提出期限よりも早く完成したレポートに満足する。いつもは期限間近に慌ててやることが多いけど、今回は優秀な出来あがりになった。時計を確認したら部活が終わるまではまだ少し時間が余っている。手も頭も疲れた私は教科書と参考書、それとレポートを端に寄せて机の真ん中に頭を乗っけた。
両腕を枕のように頭の下に敷いて目を閉じる。イヤホンから流れる音楽のボリュームを下げれば、良い感じに世界から隔離された。瞼を閉じれば案外コロリとすぐに寝てしまった。

どれぐらい寝たか分からないけれど、ふと頭のあたりに温かさと重みを感じた。撫でられてるというより手の平を押しつけられてるみたいな、誰かは分からぬその人の不器用さがにじみ出る感触に頬を緩める。
短い時間のわりに質の良い深い眠りについていたせいか、覚醒までをたゆたう独特の感覚の中で私の意識はなかなか目を覚ませなかった。頭に感じていた重みがするすると頬に下りてくる。
ここはどこで、誰が私の側に居るのか分からない。ただその手が顔に下りてくる途中、耳に付けていたイヤホンのコードに引っ掛かって耳からイヤホンが抜けた。その衝撃で一気に意識が表に浮かび上がる。ぱっと開いた目の先にはまず枕にしていた私の腕、その向こうには白い制服。

「んー……あ、れ」
「苗字?」
「あー………しんくん」
「すまない、起こしたか?」
「いや、だいじょぶ……うーんそっか、ああ」

寝起きのせいで上手く頭が回らない。ただ頭上から聞こえる声は進くんのものだと理解できた。つまり椅子の側に立つ白い制服の人は進くんで、さっきまで頭に触れていた人物も進くんだ。体を起こしたら背中やら腕やらが痛くて女子らしからぬうめき声を上げる。

「あいたたた」
「よく眠っていたようだったな」
「レポート終わったら疲れちゃってさ…。そういえば用事ってなに?」

話を聞くためにもう片方つけたままだったイヤホンもとった。上手く開かない目のまま進くんを見上げる。進くんは私と違ってはっきり目を開いてこっちを見てた。穴が空くんじゃないかってぐらいの勢いだったから早急に意識を覚醒させた。

「あの、進くん?」
「俺は苗字が好きだ」
「……………」

放課後に告白するなんて、進くん少女漫画好きなの?

この考えに至るまでたっぷり一分はかかった。
その間なにも言えず考えられず、口を閉じ目を瞬かせて進くんの次の言葉を待った。この場合私が返事をしなきゃいけないのに、私はこの後進くんが冗談だって言うんじゃないかと思っていた。
そうしたら、進くんも冗談言うんだね!って答えようと思っていたのに。でも進くんは何も言わないでじっとこっちを見つめている。これはあれだ、寝起きの頭でも分かった。私の返事を待っているんだ。
前に恋人になりたいわけじゃないと思ったけど、でも実際、こんな真剣に告白されてしまってはころっと好きになってしまう。
完璧な彼との境界線を跨いでも良いよね。だって進くんから好きって言ってくれたんだもん。

「……私も好きです」
「そうか、良かった」
「え、それだけ?」
「それだけとは」
「あ、いや……。進くん本当に私のこと好きなの?桜庭くんあたりにたぶらかされたんじゃない?」
「それもある」
「あるんだ」

そこは否定してほしかったかもしれない。たぶらかされて好きって言ったってどうなのよ進くん。

「だが俺が苗字を好きだということは、たぶらかされたからじゃない」
「そうじゃないと嫌だよ」

私のどこが好きなのかを聞こうかと思ったけどもやめた。気になったけどそれを聞いたら面倒な女代表みたいだし。

「苗字は俺の中で唯一、異性なんだ」
「えっ…お、おう…」
「女子生徒はたくさん居る。しかし、触れたいと思うのも自然に話せるのも苗字だけだ」

こちらが尋ねる前につらつらと進くんの方から話してくれた。当たり障りのない単調な理由にも聞こえるけど、それが逆に進くんの本音なんだと分かって嬉しい。

「私も、私の中で男の子だなって思ってドキドキするのは進くんだけだよ」

なので私も飾りなくそう返す。そしたら進くんは初めてうっすら笑って、さっきと同じように私の頭に手を置いた。



進先輩は完璧な人だ。彼の後ろをボールを持って走る時、無敵の騎士の背中に守られ、絶対安全圏で走る安心感があった。

「進先輩に弱点とかあるんですか?」
「猫山は進のこと完璧な人間だと思ってるんだ」
「実際、先輩ほど完璧な人間はそうそう居ないと思います」
「それを俺の前で言うかあ」
「すみません、桜庭先輩だってもちろん凄いんですけど!」
「いやいや良いって、意地悪いこと言ってごめん。でもさ、進にだって弱点はあるよ」
「本当ですか?!」
「まじ。知りたい?」
「はい!」
「進の弱点は……あれ」

あれ、と桜庭先輩が指さしたのはストップウォッチを構えて部員のランタイムを計測する二年生のマネージャーだった。俺はまだ入部したばかりなのでマネージャーのことをよく知らないが、苗字先輩は中学から桜庭先輩や進先輩と仲が良いらしくよく三人で話しているのを見かける。
しかし苗字先輩が進先輩の弱点とはどういうことだろう。

「苗字先輩ですか?」
「そう。進の弱点はあいつだよ」
「どういう…?」

言っているそばから苗字先輩の元に進先輩が近づいてきた。何やらタイムレコードの書かれた紙を見て真剣に話しこんでいる。

「進と苗字って中学一年の頃からずっと付き合ってるんだよ」
「え、ええええ?!あ、あの進先輩と苗字先輩が?!」
「意外だろ。俺も二人が付き合うんじゃないかなーとは最初思ってたけど、まさかこんなに長く続くとはね。見てると、告白した後からじょじょに男女の意識が芽生えて好きになった感じ。進って苗字のことだけは下の名前で呼ぶの気が付いてた?苗字も部活内で下の名前呼ぶのは若菜と進だけなわけ」

進先輩と苗字先輩の話をする桜庭先輩はなんでか楽しそうで、ニヤニヤというよりウシシ…みたいな笑顔で俺にいろいろ話してくれた。

「さっきから私の名前が聞こえるようなんだけど、桜庭くん」
「あれ、苗字いつからそこに」
「今だよ。猫山くんと桜庭くんがこっち見ながら話してるし、猫山くんは大声出すしで気になって来てみれば。私と清十郎くんがどうしたって?」
「二人が付き合ってるって言っただけだよ」
「ふーん、あっそ」

いつの間にか背後に立っていた苗字先輩は特に照れる様子も無く桜庭先輩の話を一言でバッサリ切り捨てた。この苗字先輩とあの進先輩がかれこれ五年も付き合っているカップルには見えなくて困惑する。

「どうしたの猫山くん。なにか言いたそうだけど」
「えっ!あ、あの…苗字先輩と進先輩は、その……」
「私と清十郎くん?付き合ってるよ?」
「あ、そうですか、はい」
「ならばよろしい」

あっけらかんと言われてしまって反射的に頷いた。それに満足そうに頷き返して苗字先輩は元の場所に戻って行く。そこにはまだ進先輩が居てまるで苗字先輩を待っているみたいだった。

「ふービックリした。苗字はあんな風に抜け目ないから心臓に悪い」
「俺も驚きました、二重に。本当に二人は付き合ってるんですね」
「よーく見てみると恋人っぽいことしてるから今度見てみるといい。それに今日は進の誕生日でこの後どっか出かけるみたいだよ」

いや別に見ません。
でも誕生日とデートという単語が気になってしまいちらっとだけまた二人を見た。それがナイスタイミングで、進先輩がちょこっとだけ唇の端を持ち上げていて、苗字先輩がファイルで口元を隠しながらくすぐったそうに笑っている瞬間を見てしまう。
思わずこっちがこそばゆくなってしまい視線を逸らす。あの質実剛健な進先輩が僅かでも隙のようなものを見せるなんて、苗字先輩のことをとても信頼しているんだ。

「俺も彼女欲しいなあ」
「桜庭先輩の彼女になる人は大変そうですね、ライバルがたくさんで」
「そうでもないよ」

桜庭先輩と笑ってるとショーグンのお叱りが飛んできて急いで練習に戻る。
完璧な人だと思っていた進先輩は、思ったより完璧ではないらしい。



清十郎くんはあまりお喋りな人間じゃない。けれどもまったくの無口でもなく。私の話に相槌を打つ年齢より落ちついた低めの声が、私は清十郎くんのパーツの中で二番目に好き。一番は手首。これを言うとマニアックだねって周りから言われるけれど、私が清十郎くんを異性としてハッキリと認識したのは日直が一緒だったあの日、制服の袖から伸びた頑丈そうな手首を見た時だったから思い入れがある。

「ねえ清十郎くん」
「なんだ」
「手触ってもいい?」

今日は土曜日、部活終わりの所詮お家デートというやつで清十郎くんの部屋にお邪魔している。生活用品とアメフト関係の物しか置かれていない小ざっぱりした清十郎くんの部屋を初めて見た時、思い描いた通りの部屋でちょっと笑ってしまった。その殺風景とも言える部屋に置かれたテーブルを挟んで麦茶を飲んでいた私と清十郎くん。私の唐突なお願いに少しだけ不思議そうな顔をして、それでも清十郎くんはテーブルの上にお願い通りに自分の右腕を掌を上にして乗せた。

「これでいいか」
「うん、ありがとう」

清十郎くんの手は厳しいアメフトの練習で皮が剥けるせいか厚くて大きい。でも指が長いからずんぐりむっくりしてなくて、筋が通ってピンとしてる。爪は短く切り揃えていて清潔だし、よく見ればささくれがあった。何か男の人でも使えそうなハンドクリームでもあげようかな。
そしてそこから視線をずらして手首を見つめる。あの時より太くて頑丈になった手首だけど、筋が張って男らしいこのパーツに自分の手を添わせた。机と手の間に自分の手を滑り込ませて下から包むように握る。日直が同じになったあの日、まさかあの時見た手首にこんな風に触れられる仲になるなんて思いもしなかった。親指の腹でやわく手首の内側を撫でてみる。次は人差し指で手の平の真ん中を押してみたり、皺をなぞってみたり。そこで今までされるがままになっていた清十郎くんがやっと口を開いた。

「俺の手を触るのは面白いか」
「うん、とっても。でも面白いっていうより、なんて言うのかな。一種の愛情表現というか…って、気持ち悪いね私」

友だちにマニアックだと言われていたのにうっかり本人の前で口を滑らせてしまった。考えてみればいきなり恋人に手を触らせろって言われて、愛情表現ですよーなんて言われたら気持ち悪いでしょ、何してるの私。
慌てて手を引っ込めようとしたら機敏な動作で清十郎くんの手が伸びてきた。さすがアメフトで鍛えられた反射神経。私が逃げられるはずもなく呆気なく左手が掴まえられてしまった。

「今度は俺も名前の手を触りたい」
「え?いいけど、私の手なんて触っても面白くないと思うよ」

散々人の手をいじくり回しておきながら言うのは説得力が無かった。
清十郎くんのごつごつした手がまるで壊れものを触るみたいに、慎重な動きで私の手を握る。さっき私がした仕草を真似て、手の甲から包まれた私の手は彼のものと比べるともみじまんじゅうだ。とても小さく見える。
硬い親指の腹で手首から指にかけてをゆっくり撫でられると、少し背中がそわっとする。

「小さいな、そして柔らかい」
「清十郎くんと比べたらそうだよ」
「…細い指だ」

ひっくり返される手の平、王子様がお姫様の手をすくうように、手をとられた。私の指をじーっと見る清十郎くんの真剣な瞳にドキドキしてしまう。よりにもよって左の薬指の付け根を撫でる彼の人差し指に、もっともっとドキドキした。

「確かに面白いかもしれない」
「そ、そう。満足した?」
「ああ」

これ以上慈愛のこめられた優しい触り方をされたら心臓がもたない。さっと手を引っ込めてなぞられた人差し指を右手で抑える。今からこんなんじゃ、今日の目的を達せない。

「もう一回手を出して?」
「分かった」

なんの疑問も持たず清十郎くんはまた右腕をテーブルの上に置いた。開いた彼の手の上に、丸めた自分の手を置く。

「誕生日おめでとう、清十郎くん」

可能な限り彼の目を見て、照れてゆるむ唇をにっこりさせて、それを彼の手の中に預ける。清十郎くんは驚いて私の顔と手の平を交互に見つめた。自分でラッピングした、お店のものより不格好な小ぶりの袋。

「知っていたのか」
「うん、桜庭くんに教えてもらった」
「今開けてもいいか」
「いいよ」

リボンの封を解いて袋から出てきたのは、アメフトボールのキーホルダーを付けた手作りのお守り。

「そのキーホルダー可愛いでしょ。部活の買い出しに行ったショップで偶然見つけて買ったの、私の携帯にも同じの付けてるんだ。それで、お守りは作ってみた。怪我しませんようにって気持ちをこめて」

照れくさくて早口になりながら彼の反応を窺う。清十郎くんの手の上で、ラバー製のキーホルダーが転がる。

「ありがとう、名前」

ここが彼自身の部屋でいつもより油断して、警戒とか緊張とかそういう肩肘張った気持ちが、清十郎くんを、溶かしてしまった。彼の精悍な顔つきを彩るものが削ぎ落ちた、ふわっとした笑顔。
とてもとても優しいその顔に、私は無意識に左手の薬指を抑えて、耳から首まで真っ赤にするしかなかった。