きみが神様

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 赤い炎で燃える空が人の背後に見える。世界が夕焼けより赤く染まるのを初めて見た俺は、ある人の腕の中で息も絶え絶えにその光景を見ていた。

『大丈夫、久々知のことは私が守るから』

 俺を腕に抱えた人が自分の忍び装束を破って傷口をふさぐ。その人も傷を負っているのに、笑いかけて木の幹に俺を隠した。


「おーい兵助起きろ」
「ん…あ、ああ……」

 勘右衛門の呼び掛けに俺は眠りの海から足を引き抜く。どうやら部屋で明日の授業の予習をしている内に、机に頭を預けて眠っていたようだった。

「そろそろ夕食の準備するから手伝ってくれよ、今日は俺と兵助の当番だろ?」
「そうだったな…。すまない勘右衛門」
「勉強するのも大事だけど疲れてるんじゃないか?ほどほどにしないと体壊すぜ」
「ああ、その通りだな」

 両手を天井に突き上げて伸びをする。根を詰めて勉強していたせいか首と肩が異常に凝っていた。右手を左の肩に乗せて軽く回すと指先が古い傷に触れた。瘡蓋も治って、今はもう傍目にはそこに傷がある事など誰にも分からないだろう。こうして指でなぞると、微かに斬られた部分が線のように膨らんでいるのが分かる程度に、その傷は分からなくなっていた。

「そういや兵助、寝てる間になにか唸ってたぞ?誰か女の人の名前みたいな…」
「えっ」
「なんだよ兵助〜良い子ちゃんの癖して隅に置けない奴だな〜」
「いや、その…そうじゃなくて…」

 女性の名前を呼んでいた。そう言われて思い出す夢の中の出来事に俺はギクリとした。あれは単なる夢ではなく、俺の中のとある人にまつわる記憶。過去の出来事の回想だった。
あれは俺がまだ上級生になったばかりで、実技の実習に慣れていなかった頃。授業内容はとある城に潜り込み書状を手に入れる事だった。その城はドクタケやタソガレドキに比べればとても小さい城で、城主も戦を好まぬことで名が通っていた。実際、書状を手に入れるまでは順調に進み後は学園に戻るだけ。油断していたわけではないが任務を半ば終えた事に安心していたのは事実で、俺は他の城の動向が頭に入っていなかった。
俺が書状を手に入れ城を脱するまさにその時、隣の城が攻め込んできたのだ。元から兵力で負けていたその城は呆気なく敵の前に敗れ火を放たれた。城は焼け落ち俺はその混乱に乗じて脱出を計ったが戦の最中、城の連中に見つかりやむなく応戦。怪我を負ったまま追われる形で森へと逃げ込んだ。

「ぐっ…!」

 肩に刺さった棒手裏剣を引き抜くと血が流れる。止血しなければいけないのに指を動かす体力すらも搾り取られ、追手の気配を探りつつもどうしようもなく、地面に体を横たえる。
 ここで死ぬのだろうか。まだ一人前の忍者にもなっていない。学ぶべき事も多く残したまま、俺はここで死んでいくのか。
 意識が朦朧とする。手足の感覚が鈍くなり本格的に命の終わりを感じ始めていた。

「あなた、忍術学園の生徒ね。確か名前は久々知兵助」
「っ?!だれ、だ」
「私は忍術学園のくのたま、名前。攻め込んできた方の城に実習で忍びこんでたんだけど、あなたがこっちの城に居るって学園から報告が来て、一緒に帰還するように言われた」
「名前……?」
「そう。本当は攻める前にあなたと連絡を取りたかったんだけど、遅れてごめんなさい」

 突然、木の上から少女が飛び降りてきた。くのたまの名前と名乗った少女は申し訳なさそうに頭を下げて、自分の忍び装束の袖をクナイで切り裂く。俺は急な展開の運びに頭が追いつかず呆然としていたが、少女はテキパキと俺の傷口の処置を進めている。膝に俺の頭を乗せて治療する姿すらも霞んだ視界ではぼやけて見えて、まるで夢でも見ているようだった。

「追手を撃退してくる、あなたはここに」
「でも……一人じゃ…」
「大丈夫、久々知のことは私が守るから」

 そう言って笑う少女の顔と、城を燃やす炎で赤く染まった空があまりにも不釣り合いで、網膜に克明に焼きつく。
 そしてそのまま木の影に移動されて、彼女は姿をくらました。
 その後は傷だらけになって戻って来た名前と救援に来た木下先生に連れられて、俺は無事学園へと帰還する事ができたのだった。

 以上が、夢で回想した過去の顛末。俺が名前に命を救われた事を知るのは木下先生やその他数名の先生、そして名前本人しか知らない。名前とはあれから顔を会わせる回数こそ増えたが未だに顔見知り以上友だち未満の関係を続けていた。

「なーなー兵助聞いたか?」
「何をだ?」
「くのたまの上級生がさ、まだ在学中なのにどっかの城から引き抜きがかかってるんだって」
「へえ、それはすごいな」
「だろ」

 勘右衛門と長屋の調理場で夕飯を自炊していると、鍋をかき回しながら勘右衛門がそんな話を振ってきた。六年の食満留三郎先輩が以前ドクタケから講師としてスカウトされた事からも分かるように、優秀な生徒は他からの引き抜きを打診されるのも少なくない。しかしくのたまとなると話は別で、その引き抜きを受けた女生徒はずいぶん腕の立つ生徒なのだろう。

「しかもその引き抜きを受けたくのたま、兵助の顔見知りじゃなかったかな」
「え?」
「ほら、名前なんてったっけ……あ、そうだ、名前だよ」
「は?」

 持っていた包丁が手から滑り落ちた。勘右衛門が危ないだろ!と言っているが頭に入って来ない。
 名前が、この学園から引き抜かれる?

A

「くのたまの上級生がスカウト受けたって話本当だったみたいだな」
「あ、僕もその話八左ヱ門から聞いたよ。すごいよね、くのたまでスカウトなんて」
「まあ実際、そのくのたまはかなりできるらしいからな。実技実習の数も他のくのたまの倍以上こなしてるなんて噂もあるし」
「ひえ〜、すごいしか言葉が出ないよ…」

 食堂で三郎と雷蔵も名前の話をしている。勘右衛門から名前の引き抜きの話を聞いた翌日、五年生の間ではその話題で持ち切りだった。なにせ名前は俺たち五年生と同じ年齢でスカウトされたのだ、同期として羨望や興味を抱くのは当然とも言える。

「そう言えば勘右衛門が言ってたけど、兵助ってその子と顔見知りなんだって?」
「え?ああ、まあ、一応…」

 勘右衛門の奴、言いふらしたな。三郎の言葉に頷いてみせると同じ顔をした二人が同じ嬉々とした表情で俺に詰め寄る。

「その子、名前はなんていうの?」
「名前だけど…」
「どんな武器を使う奴なんだ?クナイか、手裏剣か?」
「さあ、そこまでは俺も。ただすれ違えば挨拶をする程度だから」

 本当はあまり名前のことを誰かに聞かれるのは嫌だった。それは彼女を嫌っているからではなく、彼女の名前を聞くとあの日命を助けられた事を思い出し、自身の不甲斐なさと弱さに腹が立つからだ。しかしそれもまた己の矮小さを思い起こさせ、出口のない自己嫌悪に襲われる。

「本当にこの学園を出て行っちゃうのかな」
「引き抜きに来た城、戦好きで有名なところだからな。命の危険は増えるがそれに比例して忍者の待遇も悪くないと聞く」

 三郎の言葉に俺は背筋が冷たくなった。彼女の実力は俺が身にしみて分かっているが、それでも城に勤め戦に出るとなれば生き抜ける保証などどこにも無い。
 あの日の鮮やかな赤が、網膜に焼きついた笑顔が、再び脳裏によみがえる。

『大丈夫、久々知のことは私が守るから』

 同じ年の女の子に守ると言われたあの瞬間、俺は不覚にも彼女に見惚れていた。それは綺麗だからとか顔の造形の話ではなく、ただその強さに憧れたのだ。あの危機的な状況で気丈に笑い武器を手に取り敵へ向かって身を翻す、網膜に焼きついたのは、そんな忍者の姿だった。

「ごちそうさま」

 A定食を食べ終えて三郎と雷蔵に一言残し、俺は足早に食堂を出た。自分がどういう顔をしていたのかは分からないけれど、三郎と雷蔵は驚いた顔で俺を見ていた。
 くのたま長屋は基本的に忍たま禁制である。教養を身につけに来ている良家の子女達も多く在籍している為、ちょっとの事では入室許可は下りない。しかも俺は長屋のどの位置に名前の部屋があるのかも分からない。それでも俺は急かされるままに足を動かしてくのたま長屋に行った。途中、学園の渡り廊下を歩いていると八左ヱ門とすれ違う。

「どうしたんだよ兵助、そんなに慌てて」
「ごめん八左ヱ門今急いでるんだ」
「そっか、悪いな呼びとめて」
「こんにちは」
「だから急いでるんだって……は?」

こんにちは、と八左ヱ門の後ろからひょっこりと顔を出したのは今まさに会いに行こうとしていた名前本人だった。八左ヱ門も俺と同時にその存在に気が付いたのか驚いて名前の方に振り向いていた。

「うおっ!ビックリした」
「ごめんなさい、驚かせるつもりは無かったんだけど」
「あれ、もしかして君か?スカウト受けたっていう…」
「名前!」

 八左ヱ門と名前の会話を遮って彼女の腕を引いた。大きな声で名前を呼ばれ、あまつさえ強引に腕を引かれたせいか名前は目を大きく開いて俺を見た。そりゃ驚くに決まってる。俺たちはあの後傷が完治して礼を言った以外、挨拶の他はまともに会話をした事すらないのだから。俺の鬼気迫る表情に何かを察した八左ヱ門は軽く手を振ってこの場を後にする。

「どうしたの久々知、いきなり」
「本当なのか、城から引き抜きを受けたのは」
「そうよ」
「なんでッ!」
「なんで、なに?」
「なにって!」
「ここじゃ目立つし場所を変えましょう」

 渡り廊下のど真ん中で男が女に大声をあげている。このままでは悪い勘違いをされかねないと名前は冷静に場所を変えるよう提言した。その言葉にいくらか落ちついた俺は握ったままの彼女の腕を放し、この時間は人が居ないだろう裏山に向かう彼女の後を追った。

B

 裏山の少し奥へと分け入って、俺と名前はまるで戦うかの様に対峙した。もちろん本当に戦うわけじゃないけれど、互いに不動のまま見つめ合うピリピリとした緊張感が流れていた。主に気が立っているのは俺だけで名前はなにも気にしてないだろうけれど。

「城からスカウトされて、それを受けるのか、名前」
「一度実習でその城に関わる事があってね、悪くない待遇だし引き受けようと思ってる」
「でもそしたら、死ぬかもしれないんだぞ」
「だから、さっきからどうしたの?なにをそんなにムキになってるのよ、久々知。それに死ぬかもなんて、忍者になれば当たり前のことじゃない」

 そうだ、俺はさっきから必死だった。必死に、名前に学園から出て行ってほしくないと願っているのだ。
 自分はまだあの時憧れた彼女の足元にすら及ばない、追いついていない、追いつけない。手を伸ばしても届かない存在だと思っていた、思っていたけど本当に手が届かないところに行ってしまうなんて思いもよらなかったんだ。それに。

「ムキにもなるよ、だって俺はまだ名前に助けてもらった恩を、少しも返していないじゃないか…!」

 あの日命を救われたのに、俺は彼女にろくな恩返しも出来ていなかった。もちろん、ありがとうという感謝の言葉は頭を下げて彼女に言った。けれど名前はなんでもない事のように「久々知を守れてよかった」の一点張り。俺はあの日の自分の弱さと向き合うのを恐れてそれ以降名前と話をするのすら出来なかった。そのツケが今日回って来たんだ。
 俺は彼女を引きとめる術も言葉も持っておらず、言葉と同等の関係も作れていなかった。

「前にも言ったけど、私は久々知を守れたならそれで良かったの。あなたに感謝されたくて助けたわけじゃない」
「名前はそうでも俺は違う。名前にとってあの日が取るに足らない一日だったとしても、俺にとってあの日は一生の中で特別な日だったんだ。でも名前がこの学園からいなくなってしまったら意味が無くなってしまう…。お願いだ名前、行かないでくれ」

 遂にこの言葉が心から喉を通って口からあふれ出てしまった。木の葉のざわめきが一層強まった。
 いやだ、行かないでくれ。お願いだから俺を置いて行かないでくれ。待ってくれ、俺が君に追いつくその日まで。
 縋る思いで名前の目を見ると、その瞳は複雑な感情が絡み合い推し量ることの出来ない色をしていた。

「…どうして今それを言うの?」
「え?」
「そんなこと今更言われたって遅すぎるよ、久々知」
「いま…さら?」
「久々知がそんな風に思ってたなんて知らなかったわ。むしろ忘れたいんだと思ってた、女なんかに助けられて嫌だったんだって。だから私もあなたと深く関わろうとしなかった。だって、くのたまと忍たまなんてそういうものでしょう?中には懇意になる人たちもいるみたいだけど、そういうのは私や久々知とは別の世界のことじゃない。そう思って今日までずっと生活して、こうして忍者になる夢が目の前に来たらいきなりどうしたのよ」
「それは……」
「それは?」
「……俺は弱い人間だから、あの日の自分の弱さに向き合えなかった。名前みたいに強くなりたいと思う気持ちばかりで、名前はずっと卒業するまで俺たちみたいにこの学園に居ると思ってたんだ」
「久々知はわたしを高尚な人間と勘違いしているようだけど、わたしそんなに凄い人じゃないわ」
「それでもきみは俺の……神様………なんだ」

 神様。そう、名前は目に見える、俺の神様だった。

「久々知、あなた少しおかしいわ」
「おかしくなんかない」
「おかしいわよ。だって、わたしが神様なんてありえない、馬鹿みたい。これから戦場に出れば命を助けたり助けられたりなんて数えきれないほどあるのよ?命を奪って、守って、そうして私たちは生きていくの。それなのにあなたは助けてもらう度に神様を増やしていく気?」
「俺にとっての神様は名前だけだ」
「…可哀想な久々知。あなた、わたしに夢を見ているのね」

 俺が一歩踏み出すとそれに合わせて名前も一歩俺に近づいた。彼女の瞳の色が近づく度にはっきりと見えてくる。今度は俺にも彼女の瞳の色が読み取れる。それは、俺を憐れむ色だった。

「ねえ、久々知。わたしは神様なんかじゃない、ただの人間なの。ここを刺されれば死ぬし誰かを憎む気持ちだって持ってる」

 名前が俺の手をとって自身の胸へ導いた。俺の手の平の、制服と皮と肉と、骨の下に隠された血の通った名前の心臓がある。とくりとくりと脈動して、腕を伝って俺の心臓に流れ込む。すると俺の胸はつられるみたく痛いほど脈打った。

「久々知は優秀な忍者になれる、だからもう夢から覚めるのよ。あなたを助けたのはただの人間で普通のくのたまなの、神様じゃない」
「名前……」
「わたしが神様じゃなくて幻滅したのなら、それで良い、それが正解」

 最後に強く俺の手を握った名前はあの日と同じ笑顔で笑ってみせた。今度は燃えるような赤い空ではなく、背後には澄んだ青空が広がっている。

「久々知はちゃんとここを卒業してね」

 あの日の神様との思い出がみるみる塗り替えられていく。俺はただ呆然と彼女の言葉に頷くしかなかった。
 三日後、名前がこの学園を出て行く事が決定した。

C

「ここのところ兵助の元気が無い、これは由々しき事態だ」
「大好きな豆腐を食べてる時も上の空だもんね。勘右衛門、同じクラスとして何か知らないか?」
「あー、多分っていうか十中八九心当たりはある」
「なんだ勘右衛門、知ってるんじゃないか!」
「言って良いのかなあ…。ほら、スカウトを受けたくのたまがいるだろ?その名前のことで悩んでるんだと思う」
「そっか。顔見知りって言ってたしね」
「分かったぞ。雷蔵、そうじゃない、多分兵助は彼女のことを…」


 裏山での出来事から早くも三日が経っていた。ついに今日の昼に名前はこの学園を出て城勤めが始まる。目前に迫った終わりを知りながらも俺はやはり何も行動を起こせないでいた。
 名前に自分は神様ではないと告げられても、俺は名前に何かしらの想いを抱いたままでいる。彼女を尊敬し、強さに憧れ、命を助けられたことへの感謝は今でも胸にあるが、このぐるぐるした気持ちをどうすればいいのか俺には分からなかった。
 周りからは真面目な忍たまの鑑などと囃されることもあるが、俺自身は自分のこの性格を是と出来ない。知識と技術を学ぼうとそれを使役するのは人の精神だ。俺よりも他の五年生の方がよっぽどこの「精神」というものが磨かれている。それは人としての魅力であり、人の心の機微を読み取る力。勘右衛門や三郎からはよく「兵助は人の気持ちに疎い」と釘を刺されることがある。八左ヱ門や雷蔵はそこも俺の魅力の一つだと言ってくれるけれど、忍者としても一人の人間としても内面の成長は必須で。俺はこの課題を長い間乗り越えられずにいる。

「はあ…」

 朝から一人煙硝蔵の掃除をしていた俺はほこり臭い中で溜息をつく。気もそぞろで座学にも集中出来ず、実技では手元が狂った俺の手裏剣が勘右衛門の方に飛んでいき、俺の不調はいつしか五年全体に広まっていた。いつもは何か考え事や悩みごとがあると学級委員長の勘右衛門や委員長代理仲間の八左ヱ門に相談するのだが今回の件は何故だか誰かに相談する気が起きない。だからこうして暗い煙硝蔵で一人塞ぎこみほこりやらごみくずと格闘しているのであって。

「おーい兵助いるかぁ?ってかいるんだろ」

 脳内の尾浜勘右衛門が現実にまで出張って来た。嘘だろうと思い煙硝蔵の入口を振り返ると、特徴的な髪を一つに束ねた間違いなく五年い組学級委員長の尾浜勘右衛門がはたきを持った俺を半目で見ている。

「いるけども」
「こんな所にこもっておまえの気が晴れるとは思えないんだけど?」
「ほっておいてくれないか、勘右衛門」
「ほっておいたらおまえまた実技で俺に手裏剣投げてくるかもしれないだろ、これは俺の身の安全の為だ」
「それについては謝るよ、ごめん。でも今は」
「今は一人で居たいと?あと少しで名前がここから出て行くのに?」
「……っ」
「今は今はなんて言ってる場合じゃないぞ」
「そんなこと勘右衛門に言われなくても分かってるよ!」
「分かってないからここに居るんだろ!」

 近づいてきた勘右衛門に右肩を強く押されて持っていたはたきを地面に落とした。カラン、と場違いに軽い音が蔵に響く。

「言うべきことが見つからなくても会いに行け、兵助!」
「な……にが、なにが分かるんだよ!!」

 もう名前と話すべきことなど何もない、三日前の裏山で俺と名前の決着はついた。名前は神様ではないし俺はただの忍術学園の生徒で、彼女はここを出て城勤めをする。それだけだ、言葉にすればただそれだけの出来ごとに過ぎない。

「少なくともおまえが名前に未練たらたらなのは分かるね」
「だったらなんなんだ」
「プロ忍になって名前の身に何か起きてからじゃ遅いってことだ」
「そんなの、そんなの俺が一番分かってるよ…!」
「なら早く行けよ!」

 なんなんだいったい、勘右衛門に俺の何が分かるんだ。俺自身よく分からないのになんて勘右衛門の方が、真に迫っている?なにも分からないまま、勘右衛門の言葉に背を押されて俺は煙硝蔵を飛び出した。後の事は申し訳ないが彼に任せるとしよう。

 太陽はもう真上で燦々と照っている。昼食をとろうとする生徒達に逆らって走って辿り着いた校門に名前の姿を見つけた。

「名前!」
「久々知?」

 校門前には事務員の小松田さんと名前の友人であろうくのたまが集まっていて、その中央に名前は居た。いつもの桃色の制服では無い簡素で地味な色の着物に身を包み、手には大きな荷物を抱えている。その姿を見て俺の中の靄に包まれた感情は一気に晴れた。
 俺の纏う空気に何かを察したくのたま達が状況を飲み込めない小松田さんを連れてこの場から離れる。名前は俺に呼び止められたことがそんなに意外だったのか、珍しく純粋に驚いた表情をして俺を見上げていた。

「どうしたの久々知、そんなに急いで」
「名前…」
「なに?」
「…やっぱり、俺は名前に行かないでほしいと思ってる」
「…そう、でも私は行くわ。忍者になる夢を叶える為に」
「ああ、分かってる」

 それは分かってる、分かってるんだ。俺はそういう君だから憧れて、尊敬していた。

「俺は名前を尊敬しているし、助けてくれたことに感謝してる」
「うん、ありがとう」
「……君は俺の神様じゃなかったけれど、俺の一番素敵な女性だった」
「え?」

 無防備に見上げる名前の額にかかる前髪をそっと避けて、丸いそこに静かに唇を落とす。彼女はその間、何もかもが信じられないといった風に目をまん丸にして俺を見上げていた。目じりはうっすら朱に染まって、開いた桜色の唇から小さな吐息が漏れる。
 俺の元神様がこんなに可愛らしい表情をすることを今まで知らなかった、後悔だな。

「俺はこの学園を卒業する」
「あ……う、うん」
「そしたら、会いに行っても良いかな」
「…待ってるわ、久々知が会いに来るまで」

 名前が微笑む後ろに青い空が広がる。
 俺たちは互いに手を振って、忍術学園でお別れした。