イースター休暇にもなると、わがまま王子の様子がおかしいと気にしている場合ではなくなってきた。
最終試験NEWTを目前に控え、7年生は誰もが普通ではなくなっていた。
プレッシャーに堪えかねて発狂する寮生を見ることもしばしばだ。
休暇も勉強のために学校に残る生徒が多く、ホグワーツ特急の乗車名簿はスカスカだった。
そんな中、マリア達は静かな環境を求めて家に帰ることにした。
――のだが。
「マリア、あとで私の部屋へ」
『何か御用ですか?』
「用がなければ呼んではいけないという決まりはあるまい」
決まりはないが状況を考えて欲しい。
ルシウスのわがままに付き合うために帰ってきたわけではないのだ。
しかし、文句を言う権利もないため、マリアは言いつけ通り食後にティーセットを持ってルシウスの部屋へ向かった。
部屋の主はマリアを迎え入れると、紅茶を飲みながらマリアにただ座っていろと言った。
『私がここにいては勉強の邪魔では?』
ルシウスは努力をしている姿をめったに他人に見せない。
人前では常にクールで余裕があるそぶりをしている。
阿鼻叫喚の談話室にいるときも、ルシウスは暖炉の前で優雅にくつろいでいた。
そんなルシウスの姿を羨望と敬意のまなざしで見る寮生は多い。
マルフォイ家の次期当主としてふさわしいイメージを作り上げるためにルシウスはそうするように育てられてきたのだ。
だからこそ、人目を気にせず1日中勉強に没頭できるようにと家に戻ってきたのだが――。
家ではただのわがまま王子になるということをすっかり失念していた。
「君がいたほうがやる気が出る」
『そうおっしゃるわりには勉強をなさるそぶりがまったくお見受けできませんよ』
「マリアについて学んでいるところだ」
『NEWTの勉強をなさってください』
「NEWTよりも大切なこともある。――マリア、寝不足のようだね」
『ルシウス様ほどではないと思います』
「最近はマリアが添い寝をしてくれないからなかなか寝付けないのだ」
『ですから、そのようにまるでしていたかのような言い方をなさるのはおやめください』
「していただろう。つい最近まで」
『10年以上前のことをつい最近と言って許されるのはオリバンダーくらいです』
「マリア、クッキーが食べたい」
またそうやってすぐに話題を変える。
都合が悪くなると逃げる能力は年々鍛えられていき、今ではごく普通のことになってしまった。
ある意味スリザリン生の鏡だ。
さすが監督生と嫌味を言ってやりたい。
しかし言ったところでルシウスは喜ぶか、のらりくらりと逃げてしまうだけだとわかっているので、マリアはため息をつくだけにとどめた。
『それでしたら先日ナルシッサ様に頂いたものがあるので持ってまいります』
「マリアの手作りがいい」
『時間がかかります』
「構わない。片時も私と離れたくないというのであれば、私もキッチンに立とう」
『ルシウス様、ご存知かと思いますが、私もルシウス様もNEWTを控えている身です』
「あとでやればよい。幸い休暇はまだ始まったばかりだ」
クッキーを作るくらいの時間ならすぐに取り戻せる。
ただし、クッキーを作った後にルシウスがマリアを開放してくれるなら、だ。
残念ながらその保障はどこにもない。
休暇が始まって早々にわがままを連発するルシウスの様子を見ていれば、この休暇もいつも通りの休暇になることは目に見えている。
『……万が一にでも落第などということになれば事ですよ』
「マリアは私が万が一にでも落第をする可能性があると思っているのかい?」
『いいえ。そうではありませんが――』
「マリアも問題はない」
『私はルシウス様ほど要領がよくないのです』
「心配は無用だ。万が一があろうがなかろうが、私が責任を持ってマリアの面倒を見る」
そうじゃない。
そんな心配をしているのではない。
*
ルシウスの相手をするのに疲れ、買い物という口実でマリアは外に出てきた。
ルシウスのことだからきっと家にいる間はマリアに絡まなければならないという変な義務感にでも駆られているのだろう。
1人になればさすがに勉強に集中できるはずだ。
マリアの勉強の最大の敵がルシウスなら、ルシウスの勉強の最大の敵はマリアということになる。
心外だし、そうであっては困る。
自分からは1人の時間も作れないだなんて、世話が焼けるにも程がある。
口実にした以上は買わなければならないクッキーの材料を早々に手に入れ、マリアは雑貨屋に向かった。
試験に臨むには新品の良い秤を使ったほうがいいのだろうか。
ショーケースを眺めていたマリアは、ふとおかしな点に気づいた。
ピカピカに磨かれた真鍮製の鍋や秤にダイアゴン横丁の道行く人々がぼんやりと映っているのだが、マリアの他にもう1つ、動かない影があった。
『お仕事ですか?』
店に入って裏口から抜け、ぐるりと回って別の通りから戻り、話しかけると、その人物はわかりやすくうろたえた。
「あ、ああ……ええと、君は確かルシウス・マルフォイの――」
『使用人のプリムローズです』
「そうだった。プリムローズだ」
『魔法省はお忙しいのですね。お休みの日にまでご苦労様です。きっと特別な任務か何かなのでしょうね……たとえば尾行とか?』
マリアは皮肉を言った。
ルシウスが毛嫌いするこの赤毛の青年――アーサー・ウィーズリーは純血にも関わらず、出世コースとは程遠い道をひた走っていると聞いてる。
配属先の部署も、下っ端の雑用係のようなものらしい。
尾行のような大層な仕事が回ってくるはずもない。
アーサーは「そういうわけでは……」とごにょごにょ言いながら汗を拭いた。
『マグルの調査なのであればここよりもキングズクロス駅のほうがよろしいのでは?』
「いや、今日は友人の付き合いで――しかし私がマグル関係の仕事をしていると知っているとは驚きだ」
『ルシウス様がよくお話になられていましたから』
「純血の面汚しだとかなんとかそんなことだろう」
『ええ、まあ』
大体当たりだ。
正確には“魔法使いの”面汚し、だが。
アーサーの話題が出るとルシウスは決まってここの言葉を口にする。
帰ってアーサー・ウィーズリーに会ったことを話せば、ルシウスは渋い顔で同じことを言うだろう。
「今日はルシウスは一緒ではないのかね?」
『家にいらっしゃいます』
「勉強で?」
『ええ』
「そうか、NEWTが近いからな……」
アーサーはそわそわし始めた。
もしかしたら本当に誰かを尾行していたのかもしれない。
だとしたらずいぶんと杜撰な仕事だ。
マリアでもわかるくらい、明らかに買い物客から浮いていた。
「あいつは卒業したらどうするつもりなんだ?まさか魔法省にくるなんてことはないだろうね?」
『特に聞いておりません』
「君にも話していないのか」
『私はただの使用人ですので』
「そうなのか?あいつはずいぶんと君に心を許しているように見えるが――」
『何でも言いやすいことと何でも話せることは違いますからね』
好き放題の命令はする。
ただそれだけだ。
「それじゃあ君の目から見てどうなんだ?」
『と、言いますと?』
「様子がおかしいとか、交友関係に変化があったとか……何か気になる事はないかな」
『――あの手紙、あなたが』
数ヶ月前に届いた不審な手紙のことを思い出し、マリアは身構えた。
あれはアーサーがマリアに送ってきたものに間違いない。
ということは、もしかしたら尾行されていたのは自分なのではないかという嫌な予感がした。
「手紙なんぞ送ったのかアーサー」
マリアの予感が間違っていないことを肯定するように、新たな人物の声が背後から聞こえた。
カツン、という硬いものが石畳の道に当たる音が続く。
とっさに杖に手を伸ばし、マリアは振り返りながら距離を取った。
『――アラスター・ムーディ』
杖をついた独特の出で立ちを新聞で何度も見たから間違いない。
腕利きの闇払いだ。
いくらダイアゴン横丁がノクターン横丁に近いからといって、偶然居合わせたというのは無理がある。
『私に何の御用ですか?』
「心当たりがあるのではないか?え?」
ムーディはマリアの右手の行く末を抜け目なく目で追いながら言った。
変な事を考えるなと、その鋭い眼光が物語っている。
他に伏兵はいないようだが、ただの学生のマリアが魔法省の2人――しかも1人は戦闘のプロだ――を相手にできるはずがない。
マリアは形だけは杖から手を放した。
「近年闇の魔法使いが勢力を拡大しようと企んでいる」
『私がそれに関係しているとお考えですか?』
「ああ。ルシウス・マルフォイもな」
「むしろあいつが首謀者の一角だ。プリムローズが関係しているとしたら、あいつに無理やり巻き込まれたんだろう」
ムーディに続き、アーサーが言った。
「君はルシウスに陶酔しているようには見えなかった。闇の魔術に興味を持っているようにも思えない」
『だから私に密告を促す手紙をよこしたのですか?でしたら見当違いもいいところです』
「自分も関わっていると認めるんだな?え?お前さんも死喰い人か?」
『私がルシウス様の全てを把握しているという予想が見当違いだと申し上げたのです』
マリアはムーディと目を合わせないように注意しながら話し続けた。
開心術を使われるわけにはいかない。
2人が何のことを言っているのかわからないが、知られるわけにはいかない情報なら山ほど持っている。
家でも学校でもない場所でまでルシウスのことで悩まされるとは思ってもみなかった。
こういう場合にどういう外面が適しているのか、マリアにはわかりかねた。
「ルシウス・マルフォイと死喰い人が接触しているという情報がある」
『私は存じ上げない情報ですね』
「信用できん」
『信用して頂けなくとも結構です。知っていようがいまいが、関係していようがいまいがお答えする事は出来ませんから』
「ま、そうだろうな」
ムーディはニヤリと笑い、杖をマリアに向けた。
「忠告をしておく。もし奴らに関わるようなことがあれば――」
「私のマリアに手を出すような事があれば、ただではすまない」
一瞬の出来事だった。
突然突風が吹き、露天商の荷車が大破した。
ムーディは堪えたようだったが、アーサーが吹き飛ぶのが見えた。
悲鳴と怒号とバチンという音が同時に聞こえ、マリアは突然窮屈な空間に引き込まれる。
姿くらましをしたのだとわかったのは、家についてからだった。
大きな緑色の目をしたドビーが、おどおどしながらマリア達に駆け寄ってくる。
ルシウスがそれを蹴り飛ばすようにして追い払う。
連続の姿現しでさすがに気分が悪くなったのか、ルシウスはマリアの腰を抱えたまま壁に寄りかかった。
『大丈夫ですか?』
「マリアは?」
『問題ありません。ありがとうございました……ついて来られていたのですか?』
「ドビーを監視につけていた。私がマリアを1人で出歩かせるわけがなかろう」
それならドビーがそのまま飛べばよかったのではないだろうか。
事情はよく分からないが、ルシウスがあの場に姿を現したのはあまり良くなかったのではないかと思われた。
「あの魔法使いの面汚しめ!……何を言われた?」
『手紙の内容とほぼ同じでした。あとは死喰い人という人について聞かれました。ご友人のあだ名ですか?』
「……いや、」
『言いにくいのであれば言わなくても結構です。詮索するつもりはございません』
「卒業したら話す」
『秘密のままでも構いませんよ?今日のようなことがあれば話してしまうかもしれませんし』
「何も言わずに巻き込んだのに私を責めないのか?」
『ルシウス様のわがままは今に始まったことではありませんから。面倒事は慣れています』
「違いない」
ルシウスは軽く鼻で笑い、肩の力を抜いた。
「さすがマリアだ。私の妻にふさわしい」
『ええと、申し訳ありません。聞き間違えたよう――ああ言い直さなくて結構です』
そしていい加減に放してほしい。
マリアが身をよじって腕から抜け出そうとすると、ルシウスはますます力を込めた。
「マリア、君には私の人生のわがままにとことん付き合ってもらう」
『ルシウス様、決め台詞のつもりかもしれませんが、寒気しか感じられません』
やはり巻き込んだことを責めるべきだったのかもしれない。
それでは一刻も早く暖めなければとますますまとわりついてくるルシウスの肩を押しながら、人とは違った意味で試験なんて来なければ良いのにとマリアは切に願った。