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何者でもないわたしが(天廻編・迷子編共通end)



 ──記憶の旅路を終えた主従は、互いの姿を認識することで現在へと回帰する。


「……リシャナ?」

 唐突に背後から飛びつき、腰にしがみついた小さな体。
 縋るように、一心不乱に。腕を回し、マントに顔を埋めて、微かな震えを見せるその正体の名をギラヒムは口にした。

 目を遣れば、やはり主人の帰還を待っていたはずの部下がしがみついている。
 何故拠点で待っているはずのこいつが封印の地にいたのか。そして本来なら唐突に主人へ飛びつく無礼な部下に罰を与えてやるべき場面だが、回された腕に込められた力がそうさせる気を霧散させた。

 音にならない嘆息を一つこぼし、ギラヒムは肩を竦めて後ろ手をリシャナの頭に置く。

「リシャナ」
「…………」
「動けない」
「…………う」

 くぐもった呻き声が漏れ出て、リシャナはゆっくりと顔を上げて肩越しに視線を注ぐ主人と目を合わせる。
 刹那、瞳の奥の光が揺らいだように見えたが、リシャナはすぐにその目を背けた。

「おかえりなさいです、マスター」
「遠路はるばる帰還した主人にいきなりこんな仕打ちを受けさせるなんてね? しかも、拠点で待たずに外をふらついているなんて」
「え、えと……すぐに帰ろうと思ったんですけど……考え事してたら予想以上に時間が過ぎてまして……」
「考え事? 一ヶ月間外に出ていた主人の帰還より大切な考え事が、あるとでも?」
「うう……」

 完膚なきまでに言い負かされた部下ががっくりと項垂れる様を見遣り、ギラヒムは二度目の嘆息をこぼす。

 ようやく主人の腰を解放した部下の方へ振り向くと、リシャナは変わらずその顔を俯かせたまま薄く唇を噛んでいた。不在の間に何かがあったということはわかりやすいまでに伝わる。
 同時に“考え事”をするために足を運んだ先が主従揃ってこの地であったという事実に気づいてしまい、やはり生意気だという感情も湧いた。

「いつも以上の間抜け面だね。お前の大好きな主人が帰ってきてあげたというのに」
「も、もちろん嬉しいですよ! ……ちょっと、今回のお留守番が過酷だっただけです。気持ち的に」
「……へぇ」

 必死に弁明を見せるリシャナに、細めた視線をギラヒムが返す。
 その目に映る部下の表情は、いつも通り何も考えていないように見えて、何かが違う。

 胸中に抱いた違和感を明白な言葉として言い換えることはしない。ましてや部下が思い悩んでいることを聞き出すなんて、そんなことをしてやる理由はない。──けれど、

「──え?」

 意識せずに伸びた手は部下の頭を引き寄せ、その体は主人の懐に収まる。
 手の中の戸惑いの気配に対し、部下の髪を梳きながらギラヒムは低く言葉を落とした。

「……三分あげる。その間に、その腑抜け面を少しはマシなものにしておけ」
「!」

 そう言い捨てると、抱えた後頭部からぴくりと微かな反応が伝わる。数秒置き、リシャナは主人のマントを握って顔を押し付け、何の声も出さなくなった。
 その肩は何かの感情の波を抑えるかのように、小さく震え続けていた。

 *

「……ありがとうございました」

 埋めていた顔を離し、リシャナが掠れた声でそう言ったのはとっくに三分以上が過ぎた頃だった。
 顔を上げた彼女の鼻の頭は赤く、見事に先ほど以上の間抜け面が出来上がっている。
 それでも瞳から雫がこぼれた形跡は見当たらず、リシャナはぎこちない笑みを浮かべて顎を引いた。

「もう、大丈夫です。……ちゃんと整理しました」
「……整理、ねぇ。かつてない間抜け顔を未だ晒しておいて、雑多な頭の中の何を整理したんだろうね」
「……まだそんなにひどい顔、してます?」
「見るも無残なくらいに」

 その言葉にリシャナは一旦不満げに唇を尖らせたが、反論は出さず口を噤む。
 数秒逡巡した後、彼女は再び主人のマントを握り直した。

「……この先何があっても、私がどうなったとしても。ギラヒム様の“部下”でいられたなら、それだけで私は幸せだと思っただけです」
「────」

 返された答えに、今度はギラヒムが目を見開く番だった。
 いつもの嘲笑を返されるのかと思い込んでいたリシャナは、ひどく驚いた表情を見せた主人に目をしばたたかせる。

 しかし彼女がその理由を問う前に、部下の後ろ髪を撫でながら、ギラヒムは薄い唇を震わせた。

「お前は、」
「?」
「……願いの果てに何が待っていても、そう言えるのか」

 投げかけられた問いに、リシャナは顔を上げて主人の表情を窺おうとしたが、彼の声音に宿る響きがそうすることを押し留めた。
 そして短い沈黙を経た後、彼女は「もちろんです」と前置き、

「私が一番憧れてる人と、同じです」
「……!」

 口元を緩めて、毅然と告げた。

 その瞬間、苦しげに歪んだ主人の表情を部下が目にすることはなかった。ただ、頭を抱える手に力が篭ったことを感じて──心音に掻き消されてしまいそうなほど小さな声音で、「何で、」と彼が呟いたことだけがわかった。

 ギラヒムはリシャナの頭を撫でていた手をそっと離し、腕を回してその体を強く強く抱え込む。
 今は少しだけ懐かしい、いつだって自身の元にあり続けた温もりをありったけ享受して、そのまま二人の視線は真正面から絡み合う。そして、

「──特別」

 美しく整った顔を寄せられ、身体中に熱が集まる感覚を抱きながらリシャナはぎゅっと瞼を閉じた。
 その表情を目にしたギラヒムにも何かの感情が宿って一瞬だけ動きを止める。
 しかし、互いの吐息を感じながら距離は失われ、

「────」

 ゆっくりと、唇が重ねられた。

 主人は部下の切なげな表情に気づいていて、部下は主人の縋るような声音に気づいている。
 それでもそれを気づかなかったことにして、愛おしげに、愛し合う者のように、今だけは何もかもを忘れるかのように、二人だけの熱をひたすらに受け止め合う。

「……マスター」

 やがて顔を離し、先に唇を解いたのはリシャナだった。
 その瞳には淡い熱が滲み、頬は薄赤く染まっていて──けれど、今にも泣いてしまいそうな表情で、敬称を紡いだ。

「一つ、お願いです」

 伸びた手は、主人の胸に添えられる。
 心地よい温かさが伝わって、その存在が生きていることを一番感じられる場所。
 リシャナは瞼を伏せ、静かに言葉を継ぐ。

「……もしいつか、私が生まれ変われたら、」

 紡がれたのは、何の脈絡もない例え話。
 しかしそれは今聞くべき言葉で、おそらくもう二度と聞けない言葉なのだと、ギラヒムは理解した。

「今度は、もっともっと早く貴方の部下になって、使命があってもなくてもずっと側にいて、ずっと一緒に、生きて。……それで、もし叶うことなら、」

 そこで区切って、彼女は柔らかな微笑みをたたえた。
 幸せに満ちたような表情を見せ、何かを受け入れたように穏やかな声音で、その続きを口にする。

「──伝えたいことが、あるんです」

 きっと彼女にとって、それは一番に抱きたかった願いのはずで。
 今すぐにでも口にしたかった言葉のはずで。

「その時はお話、聞いてくれますか?」

 何を言おうとしているのか、わかる。細い喉で押し止められた言葉が何なのか、わかってしまう。
 けれど、それを口にすることも、耳にすることも主従には許されない。

 ──だからもう一度だけ、その体を抱きしめて。その胸に隠された願いの温度だけをギラヒムは受け止めた。

「……お前が良い子にしていたならね」

 それだけで、続く言葉はもうなかった。

 記憶の旅路は終わりを迎えたのだから。
 後は、未来へ向かうだけなのだから。

 淡い願いの余熱だけを感じながら、主従の二人はもう一度だけ唇を重ねた。


 *

 *

 *

 *

 *


「──マスター」

 或る従者が、主を呼んだ。

 それは赤い夕焼けに照らされ、花の咲き乱れる地だった。
 四方に広がる黄色い花弁の絨毯に跪き、従者は主の手を取っていた。

 何度も鋼を振るい、何度も血に濡れた手だった。
 未来には誰かを守るかもしれないし、誰かを傷つけるかもしれない手だった。

 従者にはその“誰か”が自分でないと、わかっている。
 自身はその“誰か”に手を伸ばすための手段の一つに過ぎないのだと、従者にはわかっている。

 ──それでも、

「この身、この命尽き果てて、巡る魂の在り処は貴方のもとに」

 その身を、その心を、その命を。
 全てを尽くして主の願いが叶うのなら、それが従者にとっての最大の幸福なのだから。

 だから従者はその敬称を口にする度、体の奥底から膨れ上がる熱を感じた。
 溢れ出す感情が四肢を動かし、天に広がる空と同じほどに心が澄み渡った。

 だって、その敬称は、

「マスター」

 ──何者でもないわたしが、誰かのための私になる誓いの響きなのだから。


 願わくば、この敬称を紡ぐ全ての者が主と共に生き続けられたら良い。
 主の手を握り、或る従者はそれだけを思って、静かに目を伏せた。


「──久遠の誓いを、貴方に」



迷子編・天廻編
──fin