「なんかお腹すいたよねー」


 一体、どこで選択を間違えてしまったのだろう。薄暗い大釜の中に身を潜めているデュースの心に巣食うのは、自責の念ばかりだった。
 洞窟の中に忘れてきたツルハシを取って来るのは一人でも大丈夫だと、意地でも押し通せばよかったのだろうか? もとはというと、ツルハシを置き忘れなければこんなことにはならなかったのでは? 
 いや、そもそも「記録係のユウとグリムを手伝うためにバルガスキャンプに参加することになったよ!」と、運動部ではないエリィがキャンプへの参加を報告してきた時点で、止めるべきだったのかもしれない。そうすれば、エリィまでバケモノに追われて大釜の中に逃げ込み、身を潜めるような事態になることは避けられたはずなのだ。

「なんかお腹すいたよねー」

 デュースがそんなことを考えているとはつゆ知らず、エリィは暢気なものである。エリィは大釜の中という薄暗く狭い空間の中で器用に体を動かしながら、運動着のポケットに手を突っ込んで飴玉を取り出すと、包みを開けてデュースの口の中に押し込んだ。

「んむっ!?」
「甘いものを食べると元気が出るよ」

 反射的に舌先で飴玉を転がす。溶け出たのは甘酸っぱいはちみつレモンの味だった。エリィが好きな味だ。口の中にその味がじんわりと広がっていくと、バケモノに追われて身を隠しているという状況の中でも、ほんの少しだけ緊張感が解れていった。

「すまない、エリィ」
「え? なにが?」
「僕が坑道の中にツルハシを忘れなければ、こんなことにはならなかったのに。……いや、そもそもエリィがついてくるって言った時点で断っておけばよかったんだ」
「……あはは! 何を考え込んでいるのかと思ったら、そんなことだったの?」
「わ、笑うようなことじゃないだろう!? 僕は本気で……!」
「デュースのせいじゃないよ。まさかあんなに不気味なバケモノがいるなんて誰も思わないし、ついてきたのだってあたしがそうしたかったからだもん。むしろデュースがいてくれたお陰で大釜の中に逃げ込めたんだから、ありがとうの気持ちだよ」
「エリィ……」

 後悔と自責に圧し潰されそうになっていたデュースの心が、解れていく。溶かされていく。あたたまっていく。
 太陽のように明るく、向日葵のように前向きなこの笑顔に、今まで何度救われてきただろう。
 だからこそ、この笑顔をなくしたくはない。必ずエリィを守り抜いて二人で学園に帰るのだと、改めて強く決意する。

「とりあえず、しばらくここに隠れてやり過ごそう。あのバケモノと戦うのは……」
「最終手段、だね。マジカルペンがないあたしたちじゃ太刀打ちできるかわからないもんね」
「ああ。でも、いざとなったら、僕がユニーク魔法を使えば……」
「デュース。まさか、刺し違えるつもり、なんて言うんじゃないよね?」

 エリィの声色が微かに変わった。真剣で、ほんの少しだけ怒りが滲んでいるような、そんな声だ。心配してくれているのだと言われなくてもわかるから、不謹慎と思いながらも嬉しさに頬が緩む。

「まさか。いくら僕のユニーク魔法がタイマンに特化したハイリスクなものでも、自分が死ぬ前提の無茶はしない」
「……そっか。よかった、それを聞いて安心した。あたしは見たことないけど、デュースのユニーク魔法って自分がため込んだ分のダメージを一気に相手に返す、喧嘩前提の魔法なんでしょ? 逃げも隠れもしないデュースらしい魔法だけど、喧嘩のお礼参りが命がけなんて絶対反対だからね」
「……その『喧嘩のお礼参り』っていう例えは誰から聞いた?」
「エースが言ってた」
「アイツ……!」
「あはは! とにかく、今はここで救助を待とう。……救助、来てくれるよね?」
「……たぶん」

 デュースはもちろん、さすがのエリィも自信なさげである。
 今回のキャンプを取り仕切っているのは、飛行術などの体育系科目を担当している教師――バルガスだ。現地のゴーストたちに手伝いを求めているとはいえ、彼一人でナイトレイブンカレッジの運動部に所属している全生徒の面倒を見ているようなものである。
 ……という前提が、そもそも無茶苦茶なのだが。

「バルガス先生は僕たち陸上部の顧問で頼りになる先生だけど、今回キャンプに参加している生徒の数が多すぎる。僕たちがいなくなったことを把握できているかどうか……」
「だよねぇ。そう言われたら、あたしも不安になってきちゃうな。……あ、でもデュースと同じ陸上部のジャックは、デュースがいないことにきっと気付いてくれるよ。それに、ユウとグリムも」
「そうか。 ジャックたちならきっと気付いてくれるな」
「うん! それまで頑張ろー!!」
「オデノ……イシ……」
「っ!?」

 デュースはとっさにエリィを庇うように片腕を伸ばし、大釜の側面に左手をついた。そして、空いている右手でエリィの口を覆い隠して息を止める。
 あのバケモノが、来た。

「オデノイシ……オデノ……オデノ……」

 不気味な声は譫言のように同じ単語ばかりを繰り返しながら、デュースたちが隠れている大釜のすぐ横を通りすぎていった。目も鼻も口も脳みそもないガラス瓶のような頭部の中に入っているインクは、バケモノが歩くたびに粘ついた音を立てて揺れる。その音が徐々に遠ざかり、やがて聞こえなくなったところで、デュースはようやく息を吐き出した。

「行ったか……?」
「でゅーしゅ」
「あ、ごめんエリィ……」

 数センチと離れていない至近距離で、ピーコックグリーンとスファレライトの視線が正面からかち合った。
 次にデュースが意識したのは、手のひらに触れる柔らかな熱だった。口を覆われたエリィがそのままの状態で喋ろうとすると、手のひらの内側に触れる柔らかな唇までも、手のひらを擽るように動くのだ。
 心臓が、バケモノに出くわしたときとは別の意味で早鐘を打つように鼓動を刻んでいる。暗がりの狭い空間で、密着しあった状態で二人きりで、意識するなというほうが無理な話だった。相手が好きな女の子なのだから、なおさら。

「ごめんね。うっかり声の大きさを考えてなかった」
「いや……その……っ、エリィ」
「なに?」
「……僕が……」

 デュースは真剣な表情をしたかと思うと、エリィの目の前に小石程度の魔法石の欠片を差し出した。

「僕が何か妙なことをしたらこれで殴り飛ばしてくれ……!」
「へ?」
「石を握り込んで殴り付けたほうがダメージが大きくなるからワンパンで……」
「ちょっと待って。妙なことって、例えば? 奇声を上げながら釜から飛び出すとか? 確かにそれはバケモノに見付かっちゃうし、殴ってでも止めるかもしれないけど」
「そういうことじゃなくて……その、エリィにとって嫌なこととか……」
「嫌なこと? えー、なんだろ? でも、デュースはあたしが嫌と思うことなんてしないでしょ? だって優しいもん!」

 エリィは「変なデュース」と言ってケラケラ笑っている。本当に暢気なものだ。どうやらエリィはこの手のことに関して、デュース以上に鈍いようである。信頼され過ぎているということが壁になるなんて、思いもしなかったことだ。
 星送りの夜に想いあっていることを確認したとはいえ、友人以上の関係になるということの意味をエリィは全く意識していないようだ。かといって、無理やり意識させてしまって嫌われてしまうことだけは避けたい。
 そもそも、デュース自身も『マブ』という関係の先にどうやって進んでいいのか、詳しくは理解していない。恋愛初心な二人の未来は前途多難のようである。
 ひっそりとデュースが吐き出したため息は「飴、もう一個食べる?」というエリィの屈託無い声にかき消されたのだった。



2022.08.10
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