雨音色に寄り添う
雨が、苦手だった。光が入ってこない部屋の中に鳴り響く雨音は、幼かったわたしを孤独の縁へと追いやっていくように感じられた。そしていつしか、わたしの心の中には常に雨が降るようになった。
しとしと、しとしと。冷たい雨は淀みとなって心の一番深い場所に溜まり、わたしの感情を冷やしていった。死んでいく心と、幸せだった在りし日の幻想。二つの狭間で生きていくために、わたしは冷え切ったほほ笑みを浮かべることで自我を保つしかなかったのだ。
* * *
「……雨、やみませんね」
「クゥ」
雨宿りを始めてからどれくらいの時間が経過しただろう。配達に出たまま戻ってこないわたしを、みんな心配してくれているかもしれない。ひこうポケモンでも連れていれば文を飛ばすことができるけれど、それが叶わない今は雨が通り過ぎるのをただ待つしかなかった。
手を差し出すと、指先に雨露が弾けた。滝のような豪雨ではないけれど、小雨と呼ぶほど雨脚が弱くもない。わたし一人だったら濡れて帰っても構わないけれど、体が弱いリオルが濡れてしまえば風邪を引くかもしれない。それに、リュックの中には大切な商品が入っている。万が一濡れてしまっては売り物にならなくなってしまう。
「ワゥ……」
「あら? 眠いのですか?」
「……フワァァ」
「ふふ。どうぞ。眠っていてください。雨が止んだら起こしますから」
リオルは大きなあくびを一つすると、わたしの腕の中で丸まってしまった。寝息を吐き出す鼻先に付いた雨の雫を拭ってやると、リオルは少しだけ鼻をヒクヒク動かした。その様子が可愛らしくて、思わず笑みが溢れた。
視線を上げる。空を覆っている雲は薄く、向こう側には微かな青が透けて見える。きっと、雨はじきに止むのでしょう。それまでの辛抱だ。
「……リオルがいてくれてよかった」
一人だったら、雨の音に耐えられたかわからないから。集落にいた頃のことを、どうしても思い出してしまうから。
「……寒い」
暖を取るためにリオルを抱きしめ直し、何気なく頭上を見上げる。
偶然か必然か、雨宿りをするために選んだのはイチョウの木だった。雨に濡れたイチョウの葉は、どこか物悲しい美しさを帯びてしっとりと濡れている。
右手を伸ばす。高く遠くにあるその葉に手が届くはずもないのに、どうしても伸ばさずにはいられなかった。
イチョウの葉は、わたしにとって『あのひと』を連想させるから。
「ここにいたのか」
――その声を聞くだけで、雨の音が一瞬で消える。
「ルテア」
――名前を呼ばれるだけで、冷えた心が人としての温度を取り戻していく。
「ギンナン、さん」
――あなたがそこに現れるだけで、わたしの世界はまたたく間に色付いていく。
「急に雨が降ってきたから、心配になって迎えに来たよ。ほら、おいで」
ギンナンさんは傘を開き、手招いた。見たところ、傘は一本だけみたいだ。並んで歩くと、わたしよりも体が大きいギンナンさんの肩が濡れてしまうことは、簡単に想像がついた。
その手を取ることを戸惑っていると、ギンナンさんは不思議そうに首を傾げた。
「どーした?」
「いえ……傘は一本ですし、わたしが入ってはギンナンさんが濡れてしまいます」
「おれが濡れることを心配しているのか?」
こくり。首を縦に振ると、ギンナンさんはおかしそうに笑って――わたしの手を、取った。
乱暴なわけでも、強引なわけでもない。でも「こうすることが必然」というような強い力で、わたしはいつもギンナンさんのもとに引き寄せられる。
どんなに薄暗い場所にいても、彼はいつだって、何度だって、わたしの手を引いて連れ出してくれる。
「ほら。こうしてくっついていたら大丈夫」
隣に並んだ右肩がギンナンさんの左腕に触れている。そこからぬくもりが広がって全身に伝わり、冷えたほほ笑みをあたためて表情を綻ばせる。
冷たい秋時雨はまだ止まない。でも、あなたがいる傘の中はこんなにも――。
「あったかい、ですね」
「ああ。おれもだよ」
その微笑みが、何よりも眩しいわたしの光。止まない雨はないと、わたしに教えてくれた人。
2022.03.10