乙女色の弓矢


 磨き上げられた射場を静かに、しなやかに、滑るように進む。射位まで来ると、足を止めて一礼をし、呼吸を整え、射法八節が始まる。ルテアに付き合っているうちに覚えてしまった一連の動作が、彼女の動きに倣って脳内で解説される。
 足踏み。足を左右に開き、正しい姿勢を作る。その後、二本持っているうちの一本の矢を番える。
 胴造り。弓を左膝に起き、右手を腰に当てて呼吸を整える。
 弓構え。右手を弦にかけて、左手を弓に馴染ませてから、両の眼でニ十八メートル先の的を見据える。
 打起し。弓構えの姿勢と手元を崩さず、そのままの状態で両拳を額よりやや上の高さに持ち上げる。
 引分け。肩を開き、弦を引き、左腕を伸ばし、左右水平に引き分けていく。
 会。引き分けられた弓矢は、放たれる時を待つ。心身が一つになり、息遣いさえも聞こえるほどの静寂の中を、張り詰めた弦が軋む音が響く。
 離れ。胸郭が開き、矢が放たれる。中庭を超えて宙を切るように飛んでいった矢は、的の正鵠に命中して高い音を響かせた。
 残心。矢所から視線を逸らさず、ゆっくりと弓倒しをする。

「……綺麗だ」

 思わず口から零れ出てしまった本音を拾うように、口元を抑える。警備隊の訓練が外で行われており、その音にかき消されておれの声はルテアに届いていないようだ。弓を引いているルテアの世界に、きっと、音は届いていないのだろう。
 ルテアは同じ動作をもう一度繰り返し、二本目の矢を放つ。一本目と同様に、二本目の矢もまた正鵠を射抜いた。

「相変わらずいい腕をしてるねぇ! ルテア」

 拍手を贈ろうとしたおれの両手は宙を彷徨い、膝の上に落ちた。
 見計らったかのように声を響かせたのは、警備隊に所属しているペリーラだった。警備隊の長である彼女が訓練場にいるのは日常的であり、その片隅に造られた弓道場に立ち寄ることも珍しいことではない。
 さらにいうと、ペリーラはルテアと仲が良い。おれ以外の人間に対してなかなか警戒心を解かないルテアも、ペリーラの前だと幾分、表情が柔らかだ。

「ありがとうございます。ペリーラさん」
「商人をしているのが勿体ないねぇ。イチョウ商会を抜けて警備隊に入らないかい? ルテアなら歓迎するよ!」
「ペリーラさん、妻を勧誘しないでもらえますか?」
「あっはっは! 冗談だよ、ギンナンさん! 二人が熱々だっていうことはコトブキムラの誰もが知っているんだからさ!」
「どーも」
「まぁ……」

 ルテアは弓を握りしめると、微かに俯いた。その頬は冬の終わりに咲く桜のように、淡い桃色に染まっている。これは貴重なものを見ることができた。
 結婚してから二十年ほどが経っても、おれが愛を囁くたびに、おれがその肌に触れるたびに、初恋を知ったばかりの乙女のような反応をしてくれる。しかし、他人から感情を揺さぶられてそれを表に出すのは珍しいことだった。
 それだけ、ルテアがペリーラに心を許しているということなのだろう。幼い頃より友人と呼べる存在がリオルくらいしかいなかったルテアにとってそれは喜ばしいことであるのと同時に、とても感慨深かった。
 ルテアの横顔をじっと見つめていると、視線に気付いた薄氷色がおれを映した。

「ギンナンさん……? 私の顔に何かが付いているのでしょうか……?」
「いや。おれの妻は何をしても可愛いなと思っていただけだ」
「!」
「ヒュウ! 言うねぇ、ギンナンさん! 心臓のど真ん中を射抜かれちゃってるってわけか!」
「上手いですね、ペリーラさん」
「……っ」

 ルテアはとうとう、頬を両手で隠すようにして顔を伏せてしまった。この辺で勘弁しておいてやらなければ、可愛らしいおれの妻は知恵熱でも出してしまうかもしれない。
 冷やかされっぱなしでは性に合わない。大人気ないかもしれないが、少しばかり反撃してやろう。

「ところで、射抜かれたと言えば」
「ん? なんだい?」
「ペリーラさんも意中の殿方がいるという噂を聞きましてね。なんでも、その人は調査隊と医療隊の二足の草鞋を履いているとか」
「わーっ!?」
「調査隊として外へ出る彼の護衛をしているうちに惹かれたのではないかとか、訓練で怪我をしたあなたを彼が手当したときに恋に落ちたのではないかとか、様々な推測が飛び交っているんですよ。そこのところ、どーなんですか? 名前はルーファ……」
「わーーーーっっっ!!」

 ペリーラは「勘弁しておくれ……」と口元を手で覆い隠し、ルテアと同様に頬を染め上げてしまった。自前の赤毛といい勝負である。

「一体どこで聞きつけたんだい……」
「職業柄、耳はいいもので。ルテア、そろそろ帰ろうか」
「は、はい。あ、ペリーラさん」
「なんだい?」
「……そのお話、今度お茶でも飲みながら聞かせてくださいね」
「! ははは、ルテアの頼みなら仕方ないねぇ! 旦那は抜きだよ?」
「ふふふ。はい。では、またお会いしましょう」

 どうやら女同士の秘密の茶会が決定したらしい。微笑ましいことだ。ルテアが同世代の女性とここまで親しくなるなんて、出逢ったあの頃からは考えられないことだ。
 訓練場を出て、ソノオ通りを進みながら景色を見渡す。
 ヒスイ地方のコトブキムラ。様々な地方から渡ってきた人々が築き上げ、危険な存在であるポケモンを知ろうとする人々が暮らすムラ。
 イチョウ商会の一員として様々な地方を渡り歩いてきたが、なかなか面白いところに来たものだと改めて実感するのと同時に、この地に感謝しなければならない。

「ルテア」
「はい?」
「今日は楽しかったか?」
「……はい。とっても」
「そうか。それはよかった」

 『商人として』ではなく『ルテア自身として』人と関わることで、彼女の心の奥に降っていた冷たい雨が温かい雫に変わっていっているのだから。そして、そんな彼女が心の底から微笑む姿を見て、おれの心は何度も射抜かれるのだろう。



2022.02.17

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