藍玉色の愛


※『黄花色のつけぶみ』の続き。



 齢十三のときにギンナンさんから手を取られて、イチョウ商会の手伝いをしながら商売というものを学び始めたときから、わたしは髪を切ることを覚えた。まだ両親から愛されていた頃、長かった髪を母さんが梳かしてくれたあの時間が忘れられずに、ずっと伸ばし続けていた髪を切り落とすということは、わたしにとって『両親から愛されたい』と願う呪いを断ち切るようなものだった。それからはふたつきに一度ほど、髪が伸びるたびに肩口で切り揃えて心の清廉さを保とうとした。
 大人の仲間入りと見なされる齢十五になって正式にイチョウ商会に迎え入れられて、初めて制服に袖を通したときに、やはり髪を短くしていてよかったと安堵した。イチョウ商会の制服には帽子が含まれていて、正しく着用することを義務付けられている。制服は商会の一員であることを証明する大切な装束なのだから当然だ。長い髪であれば、まとめるなりなんなりして清潔感をもって着用しなければならない。肩口で切り揃えられたわたしの髪なら、そのままかぶるだけで済む。

 だから、わたしは今日もまた髪を切る。

「さて、今日はどうします?」
「少し伸びてきたので、肩まで整えてほしいのです」
「整えるだけでいいんですか?」
「はい」

 コトブキムラの散髪屋には最近になって若い娘が働き始めた。茜色の髪と瞳を持った女性――ヒナツさん。コンゴウ団に所属しキャプテンを務めているという彼女の特技は髪結いだそうで、彼女が提案する髪型はコトブキムラの女性だけではなく男性の間でも『はいから』だと人気になっているという。
 ヒナツさんは霧吹きを使ってわたしの髪を湿らせながら、髪質を確かめるように触れている。

「ルテアさん、せっかく綺麗な群青色の髪をしているんですから伸ばしたらいいのに」
「制服の帽子をかぶるときに邪魔になりますから。それに、長い髪は少し苦手で」
「お手入れの仕方がわからない、ってことですか? そういうことでしたらあたし、簡単なまとめ方をお教えできますよ! ミツハニーの蜜を使った手入れの仕方も!」
「ありがとうございます、ヒナツさん。でも、お気持ちだけお受け取りしますね」

 ヒナツさんは残念そうに笑いながら、わたしの髪に鋏を入れていく。
 金属が擦れるような鋭い音や、ときおり首筋に触れる金属特有の冷たさを感じるたび、わたしの中の警戒心が強く、固くなっていく。他人の背後を取る上に、刃物を持つことを許されるのだから、散髪屋というものは不思議だ。警備隊長のペリーラさんでさえ「髪を整えてもらうときは寛ぐものだよ」と言っていたけれど、わたしは何度経験しても緊張を解けそうにない。ギンナンさんが散髪屋を勧めてくれなかったら、わたしは間違いなく今も自分で髪を切っていた。
 
「はい、できました!」
「ありがとうございます」

 程なくして鋏を置いたヒナツさんは、代わりに手鏡を持ってわたしの後ろに立った。席の目の前に置いてある鏡の中に手鏡が映し出され、切り揃えられたばかりの後ろ髪が見える。長さも量もいつもと同じ。ようやくいつものわたしに戻ることができた、と肩から緊張感が抜けていく。

「あの、一つだけお願いがあるのです」
「はい?」
「この簪に似合うまとめかたを教えていただけませんか? わたしくらい髪が短くてもできるような……」

 わたしはヒナツさんに簪を渡した。銀杏の葉色の花が控えめに咲き、藍玉色をした雫のような宝石が垂れ下がっている簪は、ギンナンさんからいただいたものだ。わたしの誕生日でも、結婚を誓った記念日でもない、何でもない休みの日に店主と客の真似事をしたときのことを思い出すと、自分でも表情が緩んでいくのがわかった。

「素敵な簪。今お召しになっている着物にとても似合いそう! 贈り物ですか?」
「はい。主人からいただいたものです」
「わぁ! ギンナンさん、淡白そうに見えて情熱的なことをするんですね!」
「情熱的……?」
「ええ」

 ヒナツさんはわたしの耳元に顔を寄せて、簪に込められた意味を口にした。

「男性が女性に簪を贈るのは――」

 この簪に、ヒナツさんが教えてくれたような意味が込められているのか、わたしにはわからない。そもそも、ギンナンさんが簪を贈る意味について知らない可能性もある。……いえ、商人として常にいろんなところに目を光らせ、話題を嗅ぎ付け、新しい情報や流行を取り入れているギンナンさんは、きっと知っているに違いない。
 だとしたら、この簪は――彼の愛と誓いと覚悟を、形にしたものだ。

「よく見ていてくださいね。ここをこうして、こうして、そして簪をさすと……」
「まあ、素敵」

 ヒナツさんは右耳から上の髪を編み込むと、そこに簪をさした。頭を左右にゆっくり揺らしてみると、花から垂れた雫のような宝石が上品な輝きを反射させている。

「ありがとうございます、ヒナツさん。これならわたしにもできそうです」
「ええ! ルテアさんは手先が器用なんですから、きっと上手くできますよ! さ、早くギンナンさんに見せてきてください!」

 わたしは代金を支払うと、散髪屋を出て帰路を急いだ。どうやらわたしは、少しだけ浮かれてしまっているよう。きっと、この髪型を見たギンナンさんの言葉に、期待してしまっているから。

「ギンナンさん。ただいま戻りました」
「おかえり、ルテア。散髪は終わったかな?」

 部屋でクラフト作業をしていたギンナンさんはわたしの顔を見るなりその手を止めて、土間の手前まで出てきてくれた。そして、わたしの耳元に咲いている花、煌めいている藍玉、流れる群青の髪に優しく触れ、目尻にシワを作り、酷く愛おしそうに微笑んでくれた。

「ああ、とても綺麗だよ。ルテア」

『男性が女性に簪を贈るのは、生涯あなたを護りますという意味が込められているんですよ』

 わたしが幼い頃のように髪を伸ばすことは、もう二度とないかもしれない。髪を伸ばさなくても、愛を持って触れてくれる人は、ここにいてくれるのだから。



藍玉(アクアマリン)の宝石言葉:幸福
2022.07.19

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