雨百合色の誕生日
「おーい、ルテア!」
畑で分けてもらった野菜を抱えてコトブキムラを歩いていたルテアは、自分の名を呼ぶ溌剌とした声を聞くとその歩みを止めた。友人ともいえる女性――ペリーラが訓練場の門構えの奥から姿を現すと、ルテアは微かに警戒心を解いた。
「ペリーラさん。こんにちは」
「おう! 今日はずいぶんと嬉しそうじゃないか」
「えっ。わたし、顔に出ていましたか?」
「ああ。ルテアはいつもにこにこしているけど、今日は特別綺麗に笑ってるように見えるよ」
傍から見てわかるくらい表情が緩んでしまっていたのかしら、とルテアは右手を頬に当てる。心当たりがあるかないかというと、十分すぎるくらいにある。
「実は、今日は誕生日なのです」
「誕生日? ルテアのかい? そりゃおめでたいね!」
「あ、申し訳ありません。言葉足らずでした。正しくは、わたしと主人の誕生日の間の日、です」
「主人っていうと……ギンナンさんとルテアは誕生日が近かったのか」
「はい。わたしは十月二十一日生まれ。ギンナンさんは十月二十六日生まれ。誕生日が数日しか変わらないので、真ん中の日にちを一緒にお祝いしようとうことになりまして」
「へえ! それは素敵じゃないか! ギンナンさんは淡白に見えて、本当にルテアのことを愛しているんだね」
「そんな……」
確かにそうかもしれない、とルテアはこれが自惚れではないことを自覚している。しかし、今となっては「愛」がそうさせているのかもしれないが、始まりはやはり「哀」だったのだろうと、ルテアは目を閉じてひっそりと懐古する。
* * *
それはまだ、ルテアがイチョウ商会に入ったばかり……いや、イチョウ商会に拾われたばかりの頃まで遡る。
「ルテア!」
「は、はい。ギンナンさん、どうなさったのですか。そんなに慌てた様子で……」
野営のために張ったテントの中で、商売に関する本を読んでいたルテアは、血相を変えて飛び込んできたギンナンに驚き、顔を上げた。ギンナンの片手には見覚えのある紙がある。数日前に記入したばかりのものだから間違えるはずがない。確かあれは、ルテアの経歴や個人情報が書かれたものだ。
ギンナンは一度深く息を吸って呼吸を整えた後、既に寝息を立てているリオルを起こさないよう、声を潜めた。
「イチョウ商会にルテアを迎え入れるにあたり、正式に商会の一員とするのはきみが成人――十五歳になってから。それまでは商会の雑用をこなし、商売について勉強するということは話したね」
「はい。存じております」
「そこで、だ。それまであと何年かかり、どのような教育計画を立てるかリーダーと話すために、きみに書いてもらった書類に目を通していたんだ。そうしたら、誕生日がつい昨日だったみたいじゃないか」
「……確かに、そうですね。言われるまで気が付きませんでした」
誕生日。それはルテアにとって取るに足らないものであり、ただ一つ歳を重ねるだけの日に過ぎない。それ以上の意味もそれ以下の意味もなく、なぜギンナンが深々とため息をついているのか、その理由が理解できなかった。
「……はあ。どーも、きみは自分のことなのに関心が薄いようだね」
「関心が薄い、のでしょうか。よくわかりません。ここ数年は誕生日に触れられてこなかったので、本当に、失念していました」
両親から愛されていた頃は、毎年祝われていた記憶がある。しかし、二人から化け物として見られるようになった日から、今この瞬間まで、誕生日という概念をすっかり忘れ去っていた。蔑まれ、命を粗末に扱われる毎日が始まったのだから、そんな余裕も自分を大切に想う時間もなかったのだ。
「申し訳ありませんでした、ギンナンさん」
「いや、ごめん。きみが謝る必要はどこにもない。オレはただ、ルテアの誕生日を祝えなかったことが悔しいだけだよ」
悔しい。確かにギンナンはそう言った。その言葉がどういう意味で紡がれたのか必死に考えていると、ギンナンは苦笑しながらルテアの小さな手を握りしめた。
「誕生日おめでとう、ルテア。そして、生まれてきてくれてありがとう。今まで辛いこともあっただろうけど、オレはきみに出会うことができて心から嬉しく思うよ」
おめでとう。ありがとう。きみに出会えて嬉しい。
数年間降り注がなかった温もりが、今この瞬間に、とめどなくルテアの世界を彩っていく。生まれてきたことを否定された過去の記憶に、光が差し込み辛い記憶が薄れて上書きされていく。
「ありがとう、ございます」
感謝の想いを絞り出すことだけで精一杯だったが、きっとギンナンは汲み取ってくれる。そうやって、甘えることを許される人に出会えた事実を改めて確認できたことが、今日一番の幸福だった。
「よかったら、今からルテアの誕生日を祝わせてくれるかな?」
「えっ。そんな、わたしなんかのためにギンナンさんのお時間を使っていただくのは……」
「……きみはこれから、もっと自分のことを大切にしてもいいんだよ」
実感がわかない。現実味がない言葉ばかりを与えられて、まるで夢を見ているようにふわふわする。それに、そう言われても、ここ数年で植え付けられた自己肯定感の低さはすぐに直るものでもないのだろう。
そのことを理解しているギンナンは、ルテアに一つの提案をする。
「じゃあ、こーいうのはどうだ。オレの誕生日は、実は十月二十六日なんだ」
「えっ」
「そう、ルテアの誕生日と近いんだ。だから、真ん中の日にちで一緒に誕生日を祝わないか? それならお互い様ということになるけれど。どーかな?」
きっとこれは、家族から蔑まれながら生きてきた自分を知るギンナンの同情だと、ルテアは理解していた。だから、ギンナンが提案した二人だけの特別な日のお祝いが、この先十年、二十年と続いていくことを、このときのルテアは予測すらできなかった。ただ、今自分の身に降り注ぐ信じられないほどの幸福に、温かい雫で頬を濡らし続けていた。
* * *
「ただいま戻りました」
「お帰り、ルテア。遅かったね」
「ペリーラさんと会って、少し立ち話をしていたのです。ご心配をおかけしました」
「そーか。友人と話をするのはいいことだよ。楽しかった?」
「はい。今日が特別な日だということをお話してきました」
宿舎に戻ってきたルテアは、その瞬間にギンナンの腕の中におさまり、降り注ぐ愛を甘受する。ペリーラから言われたことが脳裏をよぎり、無意識に頬が緩む。
一見、淡泊そうに見える一商会のリーダーがこうも愛情深いということを知るのは、きっと自分だけなのだと。
「畑作隊から野菜をわけていただきました。今日は頑張って食事を作ります。だって、わたしとギンナンさんの誕生日をお祝いする大切な日ですから」
「それは楽しみだ。オレもとびきりの品を仕入れたから、ルテアに喜んでもらえるといいけど」
「もちろんです。ギンナンさんが私に下さるものは全て、宝物ですから」
最初はきっと、ギンナンがルテアに抱いた同情から決まった記念日だった。しかし、その数年後。時を重ねて夫婦になって初めて迎えたこの日から、同情は間違いなく愛情へと変わっていた。それから十年、二十年と過ぎても愛情は薄れることなく、むしろ深まるばかりで、毎年この日を迎えるのだ。
「少し遅いけれど、誕生日おめでとう。ルテア」
「ありがとうございます。わたしからもお伝えさせてください。少し早くなりますが、お誕生日おめでとうございます。ギンナンさん。あなたのことを、いつまでも愛しています」
「ああ。ありがとう、ルテア。おれも、きみのことを心から愛しているよ」
誕生日を素敵なことだと思えなくなった。――それももう、とても昔の話。
2022.10.23
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10月21日の誕生花:ステルンベルギア・ルテア(黄花玉簾)
10月23日の誕生花:レインリリー(玉簾)
10月26日の誕生花:銀杏