中紅花に実る想い


「君、イチョウ商会の子かい?」

 とある集落に滞在中、お使いを頼まれた帰りのこと。わたしの目の前に、この集落の服を着た男の人が立ち塞がった。周りを見渡しても、わたし以外に誰もいないものだから、おそらく自分に声をかけてきたのだろうと思い、首を縦に振る。

「はい、そうで……」
「やっぱりそうか。イチョウ商会がこの集落に来たときからよく見かけるようになったから、そうなんじゃないかと思っていたよ」

 わたしが答え終わるより早く、男の人は言葉を被せた。せっかちな人なのかしら、とぼんやり思う。
 それにしても、まだ制服を与えられていないわたしのことを、イチョウ商会の関係者だと見抜くことができたのはどうしてだろう。

「それで、いくらだい?」
「……?」

 言葉の意味を理解しかねて、首を傾げる。いくら、というのはこの中紅花に色付いた果実のことかしら。これはこの集落のお店で買ったものだから売り物ではないし、そもそもわたしはまだ正式なイチョウ商会の商人ではない。一緒に旅をしながら雑用をこなし、商売について勉強させてもらっている身だ。齢十五になったら正式に商会の一員として迎え入れてくれると、リーダーは言っていたけれど、今のわたしに物を売る権限はない。

「申し訳ありません。わたしはまだ見ての通り子供で、勉強中の身ですので、物を売ることは……」
「ああ、違う違う。君自身はいくら? って聞いているんだよ」
「……え?」
「商人になったら一日の売り上げ目標があることが普通だろう? 君くらい美しい子なら、体を売ったら一度で大金を売り上げることができると思うよ。今から慣れておいたらいいんじゃないかなぁ」

 ようやく、男の人の意図を理解できたわたしの頭に、小さな痛みが走った。頭の奥にしまい込んでいた記憶に、爪跡を立てられるような感覚。それが何かは思い出せない。イチョウ商会に入るより以前の、記憶が途切れ途切れになっている時期に、同じようなことがあったのかしら。

「たくさんお金を稼ぐことができたら、商会のみなさんは喜んでくれるのでしょうか」
「それはそうだよ」

 粘ついた笑みを浮かべた男の人が手を伸ばした。わたし自身にはこの果実の価値すらもあるとは思えないけれど、こんなわたしでも、商会の役に立てるのならと、右手を持ち上げた。すると。

「生憎ですが、うちはそのような商売はしておりませんので」

 男の人に触れる前に、横から伸びてきたギンナンさんの手に捕まってしまった。
 呆気にとられているわたしを背に隠すように、ギンナンさんは男の人とわたしの間に割り入った。わたしからは背中しか見えないけれど、一切の言い訳を許さないような淡々とした声色から、怒っているのだということが伝わってきた。

「この集落は子供に売春を強いることを許可しているのでしょうか? 警備の方に確認をしても?」
「い、いや、それは……し、失礼します」

 男の人が足早に立ち去った気配を感じた。でも、ギンナンさんはわたしに背を向けたままだ。

「ギンナンさん……」
「ルテア、おいで」

 軽く手を引かれ、促されるままについていく。いつもなら歩く速度を合わせてくれるのに、今日は普段以上に早足のような気がする。お陰でわたしは小走りになりながら、ギンナンさんについていくのに必死だった。

「……どうしておれが怒っているかわかるかな?」

 集落の外れまで来たところで、ピタリと足が止まった。そして、ギンナンさんはようやく振り向き、わたしと視線を絡めてくれた。
 怒っている、というより、哀しんでいる、ように感じた。ギンナンさんの海碧色の瞳が、いつもよりも暗く、沈んでいるような気がしたのだ。
 わたしが答えられずにいると、さっき男の人と話したときと同じように、ギンナンさんは至って冷静に、淡々と、言葉を連ねた。

「まず、イチョウ商会はいかなる場合でも人身売買を許可していない。その中には商人が体を売る……いわゆる枕営業や売春も含まれる。十五歳に満たない子供ならなおさらだ。イチョウ商会の評判に影を落とすような非道徳的な行動は慎むように」
「……はい。申し訳ありませんでした」

 ことの重大さを理解したわたしは、深く頭を下げて謝罪した。目先の利益しか見えておらず、商会のためと口にしながら商会の信頼を失墜させてしまうところだったなんて。
 頭を下げたまま顔を上げられない。ギンナンさんの顔を見るのが、こわい。きっと、失望されてしまった。もし彼に手を離されたら、わたしは。

「というのは、建前で」

 繋いでいる手に、力が込められた。驚くほど優しく、哀しい声色が、降り注いできた。
 おそるおそる顔を上げる。ギンナンさんはやっぱり、怒っているよりも、哀しんでいるように見えた。でも、それは失望というよりも、むしろ逆で。

「おれが嫌なんだ。ルテアが辛い目に遭ったり、卑劣な目で見られたりするのが」
「……ギンナン、さん」
「触れられたくないんだよ。おれ以外の男の手で、指の先すらも」
「……あなたに手を取っていただいたときから、わたしの全てはあなたのものです。この身も、心も」

 それは繭のように柔らかな庇護欲と、呆れるほど愛しい小さな独占欲。

「ルテア。きみはもっと、自分のことを大切にしてくれ」
「はい。ギンナンさんがそう望むのなら」
「……戻ろうか」

 ギンナンさんはわたしの手から果実が入った袋を取り上げ、歩き始めた。繋いだ手はそのままに、だけど歩く歩幅はわたしに合わせてゆっくりだった。

「そーいえば、ルテアは次の誕生日で十五歳になるんだったね?」
「はい。ようやくイチョウ商会の一員として本格的に働くことができます」
「ああ。そーだね。それに……」

 ギンナンさんは海碧色の瞳を細めて、酷く愛おしそうに微笑んだ。

「ようやく、ルテアの想いに応えられる」
「……え、それは、あの」
「おやおや? まさかおれがルテアの気持ちに気付いていないと思ったのかな?」
「それは……」
「もう誰にも触れさせる気はないから、そのつもりでいるように」
「……はい」

 それはきっと、わたしが心の奥に秘めていた小さな恋心が、愛へと昇華する日なのだ。



2023.01.28

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